第6話

 居間には畳が一畳あるだけであった。

 家財道具はほとんど売り払っている。貧乏暮らしも極まれりである。

 残された畳の上に鉄太郎と精一郎は座って、英子が出してくれたお茶を啜っていた。

 英子は精一郎から座を外すように言われて別室にいる。

「義兄上、このおれの命をくれ、とは」

 精一郎はゆっくりとお茶を一口飲み込んだ。

「薩長をはじめとした官軍が江戸に進軍しているのは、知っているな」

「まあ、それは。幸い我が家は家財道具も少ないので逃げるのは楽ですな」

 声をあげて笑ったが、精一郎は笑わずに鉄太郎の目を見る。

「官軍を止めてほしい」

「え」

「官軍の総大将、大総督有栖川宮熾仁ありすがわのみやたるひと親王に会って直談判をしてほしいのだ」

 すでに平静になっている鉄太郎は軽く息を吐いた。

「何の冗談かと思えば……。義兄上、聞いておりますぞ。徳川家に縁の深い宮家の方々が、慶喜公の恭順きょうじゅんを訴えるために有栖川宮さまへの使者となったと」

「いかにも。清寛院宮せいかんいんのみやさま、輪王寺宮りんのうじのみやさま、天璋院篤姫てんしょういんあつひめさまが慶喜公のおゆるしをいただくための嘆願に向かわれた。だが――」

「ことごとく失敗に終わった、と」

「そうだ」

「そこにおれなんぞが出て行ってどうなるのです」

「官軍が条件を出してきた」

 今度は鉄太郎が精一郎の目を見つめ返す。

「慶喜公の名代として、信頼篤い家来が死の覚悟をもって有栖川宮さまのおわす駿府すんぷまで来れば、直談判に応じる、と」

「どういう意味でしょう」

「おれにもよく分からぬ。だが、とにかく腕の立つ者が行かねばならぬらしい」

「でしたら義兄上が行くべきでしょう」

「おれが慶喜公のおそばを離れることができぬことは、おまえも知っていよう」

 鉄太郎は顎に手をやって首をひねる。たしかに、高橋精一郎には遊撃隊頭並というお役目がある。

「だから、慶喜公におまえを推挙しておいた」

「え。正気ですか」

 鉄太郎は唖然とした。大政奉還したとはいえ、天下の徳川将軍の名代がこの無役の旗本でよいのか。

「北辰一刀流でおまえに敵う者はいないだろう。いや、おれから見れば、おまえは江戸では無双の剣豪だ」

「いやいや、拙者より適任がおりますぞ。北辰一刀流の達人たちが慶喜公の親衛隊をされていると耳にしています。たしか、塚田先生、稲垣師範……」

 精一郎は苦い顔をした。

「いかがしました、義兄上」

「ならば。その達人たちもおまえに行ってもらいたいと言うはずだ……」

 鉄太郎の胸中にかすかな不安がよぎった。

「では明日、上野の寛永寺におわす慶喜公に拝謁はいえつしに行くぞ」

「さっそく明日ですか」

「そうだ。事は急を要する」

 精一郎はそう言い残して帰って行った。


 翌朝。鉄太郎は目覚めると、庭の井戸水で顔を洗ったあと、頭から水をかぶって身を清めた。

 春になっているとはいえ、朝はまだ寒く、水は体に刺さるように冷たい。

 身を清めたのは、徳川慶喜公に拝謁するためということもある。それよりも、これから起きることへの予感めいたものが鉄太郎にそうさせた。

 ――おれの命をかけて官軍を止める、か。

 部屋に戻ると英子が待っていた。傍には着物が畳んで置いてある。

「お着換えを」

「うむ」

 英子が着せてくれた紋付袴は、いつものボロではなかった。

 今日のことを精一郎から聞いていたのか。

一張羅いっちょうらを残しておいてよかったですね。他のものは全部売り払ってしまいましたけど」

「よくぞ。さすがはおれの嫁だ」

 二人は久しぶりに笑顔で朝餉をとった。

 今日の英子は眉間に寄せた皺もなく、本来の人形のような可愛らしさが際立っていた。

 ――いつもきつい顔にさせている原因はこのおれだな。

 家の外から精一郎の呼ぶ声がした。

「では――」

「はい――」

 鉄太郎は草履を履いて上がり框から立ち上がった。

 振り向くと、英子の目はじんわりと涙で潤っていた。

「必ず帰って来る」

 それだけ言うと、家を出た。

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