朝敵、まかり通る
伊賀谷
第1章
第1話
江戸が燃えていた。
芝の方角。真冬の
二人の武士が鼠色の忍び装束を追っていた。すでに半里(約二キロメートル)近く追跡は続いている。
「さすがは忍びだな」
「はい」
白い息を吐きながら感心したように言った武士は、幕府
並んで走りつつ応えた武士は
着ているものはところどころ擦り切れて糸がほつれており、貧しい生活をしていることが見て取れた。
巨体に似合わず軽やかに走っている。全身がバネのようで、十分に鍛えぬいた身体であることが分かる。
その時、鉄太郎が近くの屋敷の屋根で空に滲むように
「鉄太郎、行っていいぞ」
「え」
「おまえ。おれに合わせて走っているだろう」
「いやいや。さすがは幕府の
「ふざけている場合か。このままだとあの忍びに逃げられてしまう。先に行け」
「では御免」
鉄太郎は一気に速度を上げて走って行った。
「まったく。なんという足腰をしているんだ」
精一郎はあきれつつ走る速度をゆるめて息を整えた。
鉄太郎と忍びの距離は離れなかった。忍びに匹敵する驚異的な鉄太郎の脚力である。
通り過ぎる人々には一陣の風の如くにしか感じていない。
突如、忍びは地を蹴って宙で一回転。身体が後方を向いた瞬間に手裏剣を放った。着地と同時にまた元の通りに走り続けた。
必殺の手裏剣は少なくとも鉄太郎を怯ませるはずであったが、その期待は外れた。
鉄太郎は左の掌で手裏剣を受けていた。そして忍びが宙に浮いていた間に一気に距離をつめており、その背を蹴り飛ばした。
忍びは二間(三・六メートル)ほど飛んで転がってから立ち上がった。こちらを見た頭巾からのぞく瞳に動揺の色が浮かんだのを鉄太郎は見逃さなかった。
「幕臣、
鉄太郎は手裏剣が刺さったままの左手をさすりながら忍びに近づく。
ほんのり汗が浮いた赤銅色に焼けた肌が男の野性味を際立たせる。身なりは貧相だが、きりりとした眉、鋭い目が精悍な
「手裏剣に毒が塗ってあったらどうする」
男の声――。
鉄太郎はその声には聞き覚えがあった。
「野に屍を晒すまで。……おまえ、訛りがなさすぎるぜ。江戸の者ではないな。どこぞの藩の隠密か。なぜ薩摩の藩邸に火をつけた」
「……」
鉄太郎は忍びが火つけと決めつけたが、相手が
「そして、おれを知っているな」
忍びと鉄太郎が同時に動いた。袖から
鉄太郎は屈んで忍びの覆面を外した。
「やはりな」
鉄太郎が
忍びたちは
「こうなっては生かしてはおけぬ」
片方の忍びのくぐもった声。
「あ――」
鉄太郎が声を上げた時には、忍びたちは背後から迫ってきた棒でしたたかに頭と首を打たれ、足を払われてもんどりうって地面に叩きつけられていた。砂埃が舞う中、二人はそのまま動かなくなった。
「竹竿さえあれば、この高橋精一郎には槍の
倒れた忍びたちの向こう、言葉通りに竹竿を持った精一郎が立っていた。
「お見事でござる」
「なんとか間に合ったな」
精一郎は鉄太郎の左手に血の滲んだ布が巻かれていることに気づいた。
「おまえに怪我を負わすとはかなりの手練れだったようだな」
精一郎は鉄太郎が倒した忍びの顔をのぞき込む。
「なんと。女か」
「先刻までは男でしたが」
精一郎が怪訝な顔を向けた。
「薩摩藩士、
「あの
「薩摩の隠密という噂は本当だったようです」
七年前の万延元年(一八六〇)。虎尾の会は
「薩摩の隠密……。では、この薩摩藩邸の火事は薩摩による狂言」
精一郎はうめいた。
「誰も信じますまい。恐らく薩摩の連中は幕府の仕業だと触れ回るでしょうな」
「こいつはてえへんなことになるぜ」
火の手が広がり輝きを増した芝の方角の空を、鉄太郎は見つめていた。
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