第107話 聖女様の隣で遠回りする
「遅くなった……」
自宅のドアの鍵を回し戸締りをした庵は、疲労困憊といった表情で腕時計の針を見つめ、小さく息を吐いた。
時刻は午後十一時前。先に帰ったはずの庵がこんな時間に帰ってきたのは、電車トラブルに巻き込まれたからだ。
これは間が悪かったとしか言いようがない。発車後、数十秒で電車が止まった時はクスリと笑ってしまったくらいだ。
遅くなるのが目に見えていたので、明澄には翌日時間を取って貰うことも考えたが、庵は告白を後回しにするつもりはなかった。
あれほど積極的に庵との関係を変えようと、明澄が踏み出したのだから、庵だって受け止めない訳にはいかない。
多少の無理を言うつもりで、明澄に連絡をすると「では、庵くんのお家で待ってますね」と返事があった。
待たせるのは申し訳ないけど、ある意味ずっと待たせていたところがあるし、そちらの方が明澄に悪い気がしている。
ただ、それを今日限りにするために庵は決断したのだ。
(ほんと、遠回りしたな……)
関係を壊したくないからと、結局庵は告白を躊躇ってきた。
過去にへたれやら唐変木やらと言われて、反発した割に振り返ってみればその通りでしかないのが悲しい。
(……もう言わせないようにしないと)
庵は自分の情けなさを痛感しつつ、ゆっくりと明澄が待っているであろうリビングに踏み入った。
ただいま、と言ってソファへと視線を移すと、絹糸のような銀髪を垂らす後ろ姿が見えた。
いつもはリビングに姿を見せれば「おかえりなさい」と、花を咲かせたような笑みで明澄が迎えてくれるのだが、今日の聖女様は微動だにしなかった。
「……明澄?」
おかしいなと感じて、明澄に呼びかけてもやはり返答が無い。
まさか、とある予想を脳裏に描いた庵が、ダウンフロアのリビングに降りてソファにもたれている明澄の顔を覗き込むと、明澄は穏やかな寝息を立てて眠りについてしまっていた。
「ん……」
静かに寝息を漏らす明澄は、瞳を閉じてすやすやと綺麗な寝顔を晒している。この状況で眠りに着くとは如何ともし難いが、文句を言う気にはなれなかった。
あるとすれば「無防備だ、ばかたれ」くらいの説教だろうか。
今日は放課後から色々あった。その疲れもそうだし、庵が帰って来たら明澄は答えを聞くことになるだろうから、そこに期待もあれば不安もあったはずだ。
庵は返事の色を決めているが、明澄からすれば庵が言うまでは何も分からないし、考え事だって深くなるもの。
あと一時間と少し経てば、明日がやってくる。
疲れきって眠ってしまったのは仕方がないだろう。
(……しょうがない。待つか)
可愛らしい寝顔に気が抜けた庵は微妙に口角を歪める。明澄を起こすことはせず、代わりに寝室へ着替えを取りに行った。
帰ってきたら即風呂に入るつもりだったし、汗臭いままで明澄の傍には居たくない。
明澄からは微かに甘いボディクリームの香りとせっけんの匂いがしていたので、恐らく自宅で入浴を済ませてから来たのだろう。
服もサスペンダー付きのスカートに合わせたトップスは、襟元に紐リボンをあしらったフロントボタンのブラウスと、しっかりおめかししている。
不幸中の幸いだな、と苦笑しつつ庵は自身も身綺麗になるべくリビングを後にした。
入浴のあと身なりを整えた庵は、ソファに目を向けてから、僅かな期待を萎ませた。
普段はあまりしないヘアオイルを使ってみたりと、アウトバスのケアに時間を掛けたりしたのだが、明澄は夢の世界から戻っていなかった。
お陰でいつもとはひと味違うお風呂上がりの庵が完成した。
告白するなら出来るだけよく見せたいし、その準備の時間を与えられたのは喜ぶべきだろうか。それとも男がいる部屋で、ぐっすり眠りこけられてしまっていることを嘆くべきか。
庵はなんとも難しそうな表情で笑う。
「……明澄、起きてくれ。伝えたいことがある」
言って、庵は肩を優しく揺すったが掛けた言葉は虚空へと消える。
薄らと明澄から寝息が聞こえてくるぐらいで、あまり揺さぶり過ぎたら座面に倒れ込みそうだ。
一年生の終わり頃、明澄が寝落ちして以来何度かここでうたた寝しているのだが、その度起こすのに苦労している。
明澄は一度眠ると覚醒の気配を中々見せないタイプらしかった。
「寝起きも緩めだもんな……しかたない」
完璧超人とも噂される聖女様の数少ない弱点の一つで、恐らく庵くらいしか知らない。
起きる様子が無いので色々と諦めた庵は、今日はもうここで明澄を寝かせることにして、前と同じようにソファをベッドに変形させにかかった。
来客用の毛布と枕を持ってきた庵がまだ静かに寝ている明澄に視線を落とすのだが、彼女は未だに庵の気も知らないでずっと愛らしい寝顔を見せているままだった。
もし、このまま自室のベッドに寝かせることになっていたら、理性の蒸発を味わっただろう。ソファがベッドになってくれるのは切にありがたかった。
仕方なさげに庵は笑うと、しっかり横抱きに抱え上げる。今回は無事に寝かせて明澄に毛布を掛けてやり、部屋の照明を落とすと、月明かりだけが二人を照らす。
明澄に想いを伝えようと決意していたのに、すっかりあの三月の二の舞だ。
「ほんと、うまくいかないな……」
日付けが変わったら、明澄の誕生日を祝う予定だったし、そこできちんと明澄との関係を進めようと思っていた。
なのに、放課後先に明澄から告げられることになったし、帰って待ってるつもりがうっかり寝てしまった明澄を前に足踏みするなんて誰が想像するだろうか。
ため息ついた庵は寝床となったソファに腰を下ろす。隣では安らかに眠りを享受している明澄が、こちらを向くように寝返りを打っていた。
(……無防備なやつめ……)
乱れた髪を整えてあげながら、ほんのりと湧いた邪悪な欲を満たすため、その頬を手のひらで包むように撫でた。
愛くるしい明澄の寝顔が庵を試すかのように惑わせてくる。
軽く触れる程度に留めているのは、単に庵の良心と道徳性が成しているだけのこと。庵の理性を頼るのは本当に遠慮してもらいたい。
「……俺が甘いのもあるよな」
異性の部屋で寝るな、と忠告をするものの最終的にそこ止まりだし、明澄の信頼の裏返しと分かっているから、きつく言うのも出来ていなかった。
ただ、こんな甘さは明澄以外に適用されることはないだろう。ドライな性格だと自己分析していたが、改めるいい機会かもしれない。
庵が照れ笑いをしつつ明澄の髪を梳いていると、すぅーっと彼女の瞼が持ち上がった。
スローモーションのようにゆっくりと明澄は瞬きを繰り返し、やがて千種色の瞳がぼんやりとこちらを捉えた。
「おはよう」
「んむぅ……ん……」
まだ半分寝ている状態なのだろう。 まだ視界が定まらず思考も機能していないのか反応が鈍かった。
寝起きに弱いだけあって、ぼんやりとしたまま身体を起こそうともせず、明澄はじっとこちらと視線をかち合わせていた。
「明澄。眠たいのは分かるけど起きようか。服がシワになるし」
そう言ってもまだ覚醒には程遠いらしく、再び明澄の身体に揺さぶりを与えても「ん」とだけ、甘くか細い吐息が零れるだけだった。
それがやや艶めかしくて理性がゴリゴリと削られていくのだが、可愛らしいのが質が悪い。
一度は庵を捉えた瞳も気付けば閉じられているし、ぎゅっと毛布を握り潜り込んでチョココロネみたいになってしまっている。
「寝るなら、襲うぞ」
「んぅ、……やだ……」
「いや。やだ、って……」
ちょっと脅かすつもりで、明澄の横に寝転がりながら耳元で囁くが、返ってきたのはシンプルな拒否だった。
うんとか、はいとか、どうぞとか言われても困ってしまうが、まさかもぞりと動くだけで子供みたいな返事をされるとは思わなかった。
添い寝するような形で明澄の隣に庵が寝転がっているのだが、もう本格的に抱き着くくらいしないと起きないのではないだろうかとさえ思った。
流石にしないけれど、と諦観気味に見守る庵は明澄の頭を撫でる。
すぅすぅと寝息を立て、たまに艶やかに喉が鳴ったりして横にいるだけでも魅入ってしまう。既に手を出して関係を持つとかよりも、美しい寝顔に一日の疲れが癒される気分だった。
髪に触れていたからか明澄の意識が刺激されて、長い睫毛がまた開かれる。
明澄は優しく見つめる庵の表情を認識すると、どうしてか微笑んで庵を迎えるように毛布を広げた。
「……庵くん……んぅ……」
ほんの少しだけ明澄に寄っただけで、同じ毛布の中で寝ることになる。この無防備さには、癒しを感じて一旦は落ち着いたはずの欲が掘り起こされた。
寝ぼけているが故の無自覚な振る舞いだったとは理解出来るのだが、庵は理屈じゃ理性を抑え込められず、明澄に詰め寄って毛布に潜り込めば、彼女は満足そうにしてまた眠りについた。
(本当に襲ってやろうか……!)
密着するように添い寝をし、再度意識を落とした明澄に手を伸ばしそうになったが、すんでのところで止める。
ただ、躊躇った腕を明澄の腰の辺りに落ち着かせるくらいのことは許してもらう。
お互いの気持ちがハッキリしている分もどかしい。本音で言えば、このまま襲ってしまえたならなんと楽なことか。
きっとこの場で手を出しても誰も何も言うまい。
庵がギリギリでどうにか堪えたのは、明澄の幸せそうな寝姿に毒気を抜かれたからと、目が覚めたその時に全部腕の中へ引き込むつもりだからだった。
「明日は容赦しないから」
明澄の柔らかい体の感触を貪りながら、毛布を被り直し寝る体勢を整えて、庵はぽつりとそう宣言を落とす。
毛布の中に広がる二人分の温もりに当てられて、だんだん眠気が増してきた庵の視界の端に捉えた時計は既に十二時を超えていた。
つまり、六月十五日に日付けが変わったということであり、明澄が誕生日を迎えて十七歳になったわけだ。
ひと足早く大人になっていく明澄を眺めながら、庵は頬を緩める。
「誕生日おめでとう」
起きていたら今頃、直接明澄に贈っていたであろう言葉をそっと囁いた。
想像していた展開とは違ったけれど、好きな人のすぐ隣でその寝顔を眺めながら眠るというのは、とても贅沢なことだろう。
庵は静かに瞳を伏せ、無防備な表情で眠る明澄に「おやすみ」と呟いてから微睡みの中へ落ちていった。
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