「過去と明日と」

 エリカはこれまでの経緯を要約しながらオリンに伝えた。

 ベルゼルとの再会と裏切り。ム・ドラル人とベルゼルの密約。港での出来事と事の顛末。

 そして、今この街が危機に見舞われていること。

 一通り話を聞き終えたオリンは思案顔で指を顎に這わせる。その表情は情報を客観的に整理、分析する冷静沈着な王国捜査官エージェントのそれに戻っていた。

「なるほど……。そうなると、例の件はやはり本当だったのかもしれないな」

 一人でぶつぶつと呟き始めるオリン。

「例の件って?」

「実は以前からベルゼル氏にはある嫌疑がかけられていました」

「嫌疑?」不穏な響きに眉根を寄せる。

「禁忌魔法研究の疑いです」

 そう告げられても、今更エリカに表情には困惑や驚きの色は無い。これまでの経緯と、今の状況を鑑みればさもありなん。

「ベルゼル氏には禁止魔法研究の疑いをかけられ、研究を没収された経歴がありました。今から二十年以上も昔の話ですが」

「ええ。知ってるわ。聞いたのはついこの間だけど」

 やつ自身の口から語られた過去の話。そして唯一、ベルゼルに感情らしきものを垣間見せた瞬間。

 おそらくは、ベルゼルの動機に強く根ざした出来事でもある。

「近年、ヤヌス魔法研究所内で禁忌魔法について探るような動きを察知していました。氏の経歴もあって、王国捜査局はベルゼル研究室に当たりをつけて秘密裏に捜査していました。もっとも、長らく決定的な証拠を掴めずにいました。そこにきて例のの悪魔召喚でしたので、捜査局は先輩を首謀者だと決定づけてしまいました」

「そこまでわかっていながら揃いも揃って、奴に踊らされたわけか。王国捜査局ってのは優秀だな、オイ?」

「過去に経歴があるからと、それだけで逮捕するのは法治国家のすることじゃない。確かな証拠を持って、罪を立証するのが人間の世界だ」

「オリン?言うだけ無駄ですってよ。魔属は"強いやつが偉い"程度の価値基準しか持たない野蛮で愚かな劣等種。法の理念を解するなど期待するだけ無駄ですわ」

「見るからにバカそうな顔してるもんね。きっと猿以下の知能よ」

 背後の双子天使が馬鹿にした口調で言い、クスクスと笑いあう。

 テメェんとこも似たようなもんだろうが。

「ベルゼルは自分に疑いの目が向けられていることを察知していた節があります。悪魔召喚は、疑いの目をそらすための役割もあったのではないでしょうか?」

「でも、それだけじゃないと思う。注意を逸らすだけなら他に方法もあるし、あの召喚術式も、それにこの禁忌魔法も何か意味があるはず」

「そりゃお前、ム・ドラルに亡命するための手土産だったんじゃねぇか?」

 実際、悪魔召喚という禁止魔法の罪をエリカに被せ、王国捜査局は見事に食いついた。お陰でベルゼルは身動きができるようになり、ム・ドラル亡命の手筈を整えた。

 そして悪魔召喚や禁忌魔法などはム・ドラルにとっても十分魅力的なはずだ。仮に自分たちに使えなくても"使える人間"をおさえることは、大きなアドバンテージだ。だからあんな物騒な連中を送り込んででも、身柄を押さえようとしたんだ。

 辻褄が合うと思うが、エリカはそうではないらしい。

「悪魔召喚や禁忌魔法を手土産に、ム・ドラルに亡命。こちらでは違法な魔法研究を向こうで存分に勤しむつもりだった。そこまでは理解できますが、それが潰えた今、なぜここで禁忌魔法を発動するのでしょうか?」

「わからない……でも少なくとも、自棄っぱちの突発的な行動だとはどうしても思えないの」

 エリカとしてもまだ、その意図までは思い至っていないようだ。

「禁忌魔法を発動しようとしてんのは確かなんだ。そのへんは奴をふん縛ってから聞き出すしか無いだろ」

「しかしベルゼルがそこまでの倒錯者だったとは……二〇人もの命を奪っただけじゃ飽き足らず、こんな街中で禁忌魔法とは。どれだけ罪を重ねれば気が――っ!」

 言いかけ、俯くエリカを見るに至りオリンは慌てて口をつぐむ。

「すみません、先輩。別に先輩を責めるつもりだったわけじゃなく……」

「いいの。もう悲嘆も絶望も、もう十分した。もう次に踏み出す時よ」

 しかし意外にも、面を上げたエリカは気丈にそう言い切る。

「今は禁忌魔法発動を阻止して、お師匠を捕まえる。それでようやく、私は償いに踏み出せる」

「先輩……」

 そんなエリカの気高い姿勢に応えるように、オリンも表情を引き締め、意を決したように言う。

「わかりました。事態の解決に僕も、王国捜査官エージェントとしてできる限りの協力をします」

「えっ!?だって私は指名手配犯よ?悪い人よ?駄目よ!悪い人を信用しちゃ!」

「コイツ、驚きすぎて自分で何言ってるかわかってないな。落ち着け」

 錯乱するエリカの後頭部を軽く叩いて落ち着かせる。もっとも、その申し出は俺としても予想外だった。

「国民の生命と財産を守る捜査官として、この状況は見過ごすわけにはいきません。先輩の言う通り、今は起きる悲劇を防ぐ事の方が最優先です」

 そう言う表情は、言葉に見合う程度にはいい面構えだった。

 少なくとも、必死こいてエリカを追いかけている時よりはマシに見える。

 喜びに頬を緩めるエリカはしかし、オリンの背後からの視線に竦んでしまう。

「話が違いますわよ、オリン」

 剣呑な雰囲気でメリッサが口を開く。空気を読まない姉の発言にアリッサも驚いたのか困惑の表情を見せる。

「私たちは誅すべき悪魔を倒したいというあなたの強い意志に応じ、手を差し伸べましたのよ?それをあろうことかその悪魔と召喚主に協力なんて、言語道断ですわ」

「ね、姉さん!気持ちはすっごくわかるけど、今はそれどころじゃないでしょ」

 オリンに詰め寄る姉の裾を引っ張って宥めようとする。なんだよ、妹のほうが分別があるじゃねぇか。

「承服できないか?」

 静かに問いかけるオリン。殺気立ったこの天使を前に全く怖気ずく様子を見せない。

「確かに、僕は先輩を逮捕する上でそこの悪魔が最大の障害だと考え、それを倒すためにお前たちを召喚した。だが僕は悪魔狩りをするためにお前たちを召喚したわけじゃない。僕は自分の正義を貫くために力を欲したまで。それは契約時に理解してくれたと思っていたが?」

 突き放すようなオリンの口調に、メリッサの表情は一層険しいものになる。とても天使が仕える主に向ける表情ではない。

 と、そこでオリンの雰囲気が張り詰めた緊張の糸を解いたようにふっと唐突に和らぐ。

「だが、それは僕だけの事情だ。僕には僕の信念があるように、お前たちにはお前たちの信念がある。完全に相容れることはできないだろう。それでも僕には今、そしてこれからも成さなければいけないことがある。それにはどうしてもお前たちの力が必要なんだ」

 そして押し黙るメリッサに、深々と頭を下げて言う。

「だから盟約者としてではなく、一人の脆弱な人間として頼む。力を貸してくれ」

 重い沈黙が二人の間に訪れる。

 切迫した状況を理解している一方で、姉の心情も多分に理解できるが故に、姉にもオリンにも肩入れできないアリッサは複雑な表情で両者を見守る。エリカも当人同士の問題なんだから放っておけばいいものを、我が事の様に心配そうに両者を交互に見遣る。

 この場で、事態に関心を示していないのは俺だけだろう。

 時間が惜しいっつってんのに、どうでもいいことでゴネやがって。

「……おやめなさい。殿方がそう易々と頭を下げるものじゃなくってよ」

 沈黙を先に破ったのはメリッサの方だった。

「別に、承服しないと言っているわけではありませんわ。ただ『あの悪魔と力を合わせろ』なんて命令だけは断固拒否すると、予め言っておきたかっただけです」

 いきなり指差された俺は、ちょうど飽きて耳をほじっていたところだった。

「え?いや、行き遅れのヒス女と協力とか、難易度高すぎてこっちから願い下げなんだが……」

「やっぱり今すぐブチ殺して差し上げますわ」

 一瞬で武器を現出させ、天使とは思えぬ怒りの形相で掴みかかろうと詰め寄るメリッサ。

 その前に割って入ったのは、なんとエリカだった。すげえな、コイツ。

「どきなさい、悪魔の主。それとも仲良く串刺しにされたいのかしら?」

「彼の軽口は、私が謝ります。でもどうか、私達を信用してください……それに、彼はあなたが思っているような悪い悪魔じゃないわ」

 後半は冗談っぽく言ってみたが、メリッサの強張った表情は一ミリも変わりはしなかった。ただ睨むような視線をエリカに向ける。

「悪魔を召喚する女の言葉など、信用できませんわ」

 突き放つような言葉にしゅんとうつむくエリカ。メリッサを咎めようとオリンが口を開きかけるが、

「でも、私が信用するオリンが信用するなら、死ぬほど嫌ですけれど信用してやりますわ」

 それを聞いて花が咲くように喜びの表情を浮かべるエリカ。

 ありがとう、と優しく微笑みを向けられ、メリッサは「ふんっ」とそっぽを向く。が、向いた先に微笑むオリンと直面してしまい、いよいよばつが悪くなったのか勝手に現体化を解き姿を消す。何とか事が丸く収まり、ホッと胸を撫で下ろしたアリッサも後を追うように現体化を解く。

 なんだったんだ。この無駄なやり取りは。

「では先輩は術式からベルゼルを追ってください。恐らく先輩が一番辿り着く可能性が高いと思います」

「わかったわ。オリン君の方は?」

「僕はこの事を本部に報告して対策を講じます。万が一、最悪の事態に陥った場合に備える必要がありますから、現場の検分も必要でしょう」

 最悪の事態。それがどんな事になるかを想像したエリカは顔を青ざめる。

「お前の一存で捜査局が動くのかよ?王国捜査官エージェント様がどんだけご立派か知らねぇが、お前は下っ端だろ?」

「それでも権限はある。動かせるものは全て動かすし、事の重大さを鑑みれば上も無視はできないはずだ」

 ムッとしながら返す。エリカとは和解しても、俺に対しての敵意は消えていないようだ。

 ちょっと半殺しにしただけなのに、根に持ちやがって。女々しいやつだ。

「今は時間が惜しい。すぐに取り掛かりましょう」

「ごめんなさい。オリン君を巻き込んでしまって……」

 踵を返したオリンは、エリカの言葉を背中に受け足を止める。

「これは僕の職務であり、信念に従ったまでです。それに……」

 言いながら、振り返る。おそらくこれこそがこいつ本来の表情なのであろう、凛然とした清々しい表情でエリカに向くと、

「僕はあの頃の情けない子供じゃない。あなたの助けに応えられる程度には、強くなったつもりだ。二年前に果たせなかった、先輩の力になれるのが今は嬉しいんです。だから先輩も、今自分が成すべきことをしてください」

 そう言葉を残し、オリンはローブを翻して再び背を向けて駆けて行く。

「ねぇヴァル君」

 オリンを見送ったエリカは振り返らず呼びかける。

「私は……私は良い後輩に恵まれたわ」

 上ずったエリカの声に「そうだな」とだけ言い、肩を軽く叩いてやった。


 *


 オリンと別れた俺たちは街中を奔走する。

 禁忌魔法の、術式の痕跡を探すために。

 術式そのものは確かに破壊できない。だから、その術式の位置から発動の場所を予測し、姿を表したベルゼルを捉える作戦だ。

 ベルゼルの魔法の発動が早いか、俺たちが奴を捕らえるのが先か。

 この街の命運は、俺たちにかかっている――そんな切迫した事態にあって、エリカの表情には以前までの追い詰められたような表情は消えていた。オリンとの再開と和解が少なからず活気と希望を与えたようだ。

 冴えを取り戻したエリカは、次々と魔法陣を発見していく。

 どれも路地裏や廃屋などの目立たない場所にあり、例の空間固定をしたうえで入念に隠蔽されていた。

 そしてここ、旧埠頭跡。エリカがアネットに誘い出されたという場所でまた一つ、魔法陣を発見した。

 エリカが術式を確認する間、地図に印を付けるのが俺の役目だ。

 地図上には一〇個目の印が記される。

 数時間に渡って街の端から端まで駆けずり回ったエリカの顔には疲労の色が滲む。

 強化魔法で負担を軽減しているとは言え、元々の基礎体力が低いのだからそれも仕方ない。

「少し休むか?」俺の問いかけに、エリカは黙って首を振る。

「たぶん。ここが最後のひとつだわ」

「何?そうなのか?」

 頷きながら俺の手から地図を取る。

「で?これで奴の現れる場所はわかりそうか?」

「一つの魔法陣が、他の全ての魔法陣の一部に作用している。つまり全てを力の流れの接点が魔法の発動に適している。つまり……」

 ペンで地図に書き込み始めた。俺も横から覗き込むようにその様子を見守る。

 地図上の印同士を線で結び、幾何学模様が浮かび上がる。

「間違いないわ。お師匠はここに現れる」

 その全ての線が交わる一箇所をペン先で叩き、そう告げる。

 ――それは唐突に起こった。

 それは例えるなら、まるで無数の虫が足元から這い上がってくるような感覚。エリカも同様だったようで、驚き、反射的に身体を抱くように身を竦ませていた。

 その正体は、足元より突如発生した濃密な魔力。

 魔力に敏感な魔術師であるエリカは、その不気味な感覚に顔を歪ませていた。

「何、この感覚?一体何が……っ!」

 顔を上げたエリカは、視線を上に向けたまま声を失った。俺もその視線を追い、その光景を目の当たりにしてエリカと同じく声を失う。

 空が、閉じていた。

 つい先ほどまで天を広がる蒼穹の空が、今は天球状の幕が覆っていた。

 高く昇った日の光を遮断し、街の全域が昼夜が逆転したような薄闇に包まれる。

 唯一の光源といえば、天幕の内側を走る血管のような赤い筋が、脈動するように赤黒く発光していた。

 不気味なその無数の筋は、天井のある一点から伸びていた。

 天球の天井。そこには巨大な魔法陣が、血管同様に赤黒い光を発しながらゆっくりと回転していた。

「おいエリカ。あの魔法陣、設置されてた魔法陣に似てないか?」

「ええ。間違いなくお師匠の……禁忌魔法だわ」

 膝を屈し、呆然とその空を仰ぎながら呟く。

「間に合わなかった――」

「諦めるな!」

 叱咤の声に、エリカは顔を上げる。

「まだ全てが終わったわけじゃない。止めに行くぞ。奴を!」

 言い、エリカの眼前に掌を差し出す。

 エリカは大きく頷くと迷うことなく俺の手を取り、力強く立ち上がった。


 *


 旧埠頭跡から街に戻ってきた俺たちを出迎えたのは、通りを埋め尽くすほどの、倒れ伏した人々の姿だった。

 薄闇の中で倒れ伏す無数の人々とうめき声に溢れる光景は、昼の賑わいの繁華街とは真逆の光景であった。

 中にはかろうじてまだ意識を保っている者もいたが、顔面蒼白でその足取りは弱々しく、立っているのがやっとと言ったところだ。

 いずれも症状だけ見れば出血多量のそれにも見えるが、怪我を負っている様には見えない。

 俺は閉じてしまった空を仰ぎ見る。今尚、表面は血管が脈打ち、魔法陣が妖しく光る。

 原因は、まず間違いなくアレだ。

「目立った外傷は無い……恐らく結界から多量の生命力を奪われているんだわ」

 エリカも倒れた人間を診て俺と同じ結論に行き着いたようだ。

 予想された事態の一つ。

「代償……と同じなのね」

 あの時――俺を呼び出した、悪魔召喚。

 俺の時は二〇名の生命が捧げられた。

 世界の境界を超え、俺一人を呼び出すのにそれだけのエネルギーを要するということ。

 だが、今回はその比ではない。

「幸い一瞬で命を奪われてはいないようだけど、放っておけば死に至るわ。私達魔術師なら魔力でほぼガードできるけど、普通の人は一刻を争うわ」

 状況から即座に分析するも、新たな異変の兆候がすぐ近くで起きる。

 壁にもたれかかっていた一人の男が苦しげに呻きながら身体を抱き、がくがくと激しく痙攣を始める。明らかに他に人間と様子が違う。

「大丈夫ですか!?今すぐ回復を――!」

「待て!エリカ!」

 駆け寄ろうとするエリカの腕を掴んで制止する。

 直後、耳をつんざく甲高い悲鳴を上げ、男に異変が生じた。

「始まったか……」

 男の皮膚表面がざわざわと波打ち、変色していく。また、同時に肉体のいたる所が盛り上がり変形している。

 特に変化が顕著なのはその顔である。口が前へとせり出し、やがて鋭いくちばしが突き破るように現れる。

 そうして男は完全に人間ではないものに変貌を遂げた。鳥と人間を合わせたようなその容姿は、この世ならざるもの。

 この世界では"魔属"と称される異界の者の姿であった。

「そんな……これは、どういうこと!?」

「あれは神界の魔属『シュパイアー』。知能は低いが、一応悪魔の一種だ」

「悪魔って、一体どうして……!」

 そこでエリカははっとして頭上を仰ぎ見る。

「まさか、あそこから?」

「ああ。今この世界はあの魔法陣を介して神界の魔属領と繋がっているみたいだ」

「でもヴァル君。仮にそうだとしても、肉体を持たない魂はこの世界では生きられないんじゃないの?」

「確かにお前の言う通りだ。魂だけじゃこの世界には存在できない。だから"憑依"されたんだ」

「憑依?」

「生命力が弱くなった人間は肉体と魂の結束が弱くなる。だから悪魔を憑きやすくする。あの男は悪魔に身体を乗っ取られたんだ」

 そして憑依されたのはあの男一人ではない。街のいたるところで、憑依による変化はおきていた。

「一度憑依されたら、もう戻ることはできない。元の魂は吸収され、肉体は魂に合わせて変化する」

「これがお師匠の目的……?この街の人を使って、大量の悪魔をこの世界に呼び寄せるつもりなの?」

 その声には驚愕、よりも解せないといった色のほうが強かった。

 確かに恐るべき行為だが、こんなことが目的だとは思えない、といったところだ。

「いや、こいつらはほんのこぼれだ。開きかけた扉の隙間から流れ込んできた雑魚に過ぎない。本命はもっとデカイ、比較にならないサイズのはずだ」

 俺にこの世界の魔法の知識は無い。

 だが直感的に、あの魔法陣の向こうに巨大な存在を感じていた。

「つまり、禁忌魔法は神界系の召喚魔法なのは間違いないってことね」

「そんなことよりも気を付けろよ。こいつらは獣程度の知性しかない。受肉したことで、周囲の人間を襲うぞ」

 魔属へと姿を変えた者たちは羽を大きく広げ、悲鳴のような甲高い産声を上げると、人間たちに襲い掛かった。まだ意識のある者たちは、悲鳴を上げて逃げ惑う。

 こいつら憑依悪魔は、肉体の維持に魔力を欲する。人間の持つ潜在的な魔力を食うことで直接摂取するつもりだろう。

「まずい!助けなくちゃ!」

 言うやいなや、エリカは魔法を展開――すると、周囲の魔属共はピタリと動きを止め、一斉にこちらに顔を向ける。

 そしてまるで極上のごちそうを見つけたと言わんばかりに群がり、次々とエリカに殺到する。

 奴らは純度の高い魔力に反応するんだ。魔術師の魔力なんかは特に。

 一体のシュパイアーの鋭い爪がエリカの柔肌に突き立てられようと迫る。

「分を弁えろ」

 呟き、俺はシュパイアーとエリカの間に割ってはいる。その爪が俺の肌に触れた瞬間、慣性すらも無視したように、唐突に全ての動きが停止した。そして次の瞬間には全身が砂のように分解され、風に流されてしまった。

 それを見た他のシュパイアーたちはその場で動きを止めると、臆したように遠巻きに様子をうかがう。俺は威圧するように睨めつけると、シュパイアーどもは蜘蛛の子を散らすように背を向けて逃げ去っていった。

「ヴァル君、今セカンドシフトだよね?何をしたの?」

「別段俺は何も。あいつは摂理を破ったから死んだだけだ」

 抽象的な説明に、エリカは頭上にいくつもの疑問符を浮かべて首を傾げる。

「魔属には唯一にして絶対の摂理があってな。魔属には神格や力によって細かく階位が定められるんだ。お前たちが俺たちを第Ⅰ級、第Ⅱ級と分けるようにな。で、悪魔は自分の階位より上の魔属を攻撃することはできないんだ。もし僅かでも傷つけると、さっきのやつみたいに消えちまうんだ」

 メリッサが小馬鹿にしたのは、この摂理を揶揄してのことだ。

 逃げ飛んでいったシュパイアーは群れをなして街の上空を旋回しながら、得物を物色しているようだった。

「それよりも、ここでいくら奴らを駆除しても、発生源を塞がないといずれ全員がああなる。辛いだろうが、今は大元を潰すのが先決だ」

 今にも飛び出していきそうなエリカに釘を刺す。

 辛そうに奥歯を噛み締めながらも、意を決して頷く。そして、本来の目的地に向かって再び走り出す。


 上空を回る魔法陣の真下。そこはマルレーンの中心に位置する円形の大広場だった。周囲を趣のある外観の建物や店舗が軒を連ねるそこは憩いの場であり、また観光名所のひとつでもある。普段この時間であれば多くの人間で賑わっていたであろう。

 今や、そこは地獄絵図と化していた。

「酷い……」

 エリカは口を押さえ、わなわなと震える。

 むせ返るような臓物の匂いと、石畳を流れる血と肉片。かつてそれは人間であったことをかろうじて示す人体の一部。

 生命力を吸われるなどというレベルではない。生命を形作る要素を根こそぎ千切り取っていったかのような惨状。

 たまたま居合わせてしまったがために、禁忌魔法発動の贄として捧げられてしまった人間たちの、成れの果てだ。

 それを成したものは、足元にある。

 広場の端にまで届くほどの大きな魔法陣。その上を走る魔術紋様は数多の命を啜り、妖しげな黒い光を脈動するように明滅させていた。地の底から這い出るような不気味な感覚は近付くほどに強くなる。

 そんなおぞましい光景の中、魔法陣の中心で悠然と佇む男が一人。

「師匠……」

 狂気の魔法使い――ベルゼル・レイマンはそこにいた。


 *

 最後に会った港の一件から数えればちょうど一週間ぶりの再会。

 しかし、その再開を喜ぶ感情は既にエリカには無い。

「これはエリカさん、こんにちは」

 まるで偶然街角で会ったかのように笑顔で挨拶するベルゼル。この場にあってはそのにこやかさが、どこまでも異常で映る。

「師匠……あなたは一体何をしようとしているのですか」

「おや?ここに辿り着いたのだから、てっきり全て理解しているものとばかり。これはですね、結界魔法を併用した複合術式で、結界内の生命力を強制的、かつ効率的に抽出して魔力に――」

「そんな事を聞いているんじゃありません!」

 エリカの悲鳴に等しい叫びが広場に木霊する。

「こんな酷いことを、どうして平然とできるんですか。私には師匠が何をしたいのか、まったくわかりません」

「ですから、最初から言っているでしょう。私は魔法の探究と発展こそが使命であり、そこに嘘偽りはないと」

 聞き分けのない子供でも見るように、ベルゼルは困り顔を作る。そこに良心の呵責など、一片すらも見出すことはできなかった。

「意味がわかりません。今ここで禁忌魔法を発動することと、魔術の探究と発展がどうつながるんですか?もうム・ドラル人もいない!それどころか、王国は総力を上げてお師匠を捕まえ、いえ、潰しにかかるはずです!」

「ええ。そうでしょうとも。だから必要なのです――あなたと同じようにね」

「同じ、ですって?」エリカは嫌悪感すら滲ませた表情で問い返す。

「エリカさんは今日まで、なぜ自分が逮捕されなかったと思いますか?」

 唐突な投げかけの意図が読み取れず、エリカは口を噤むが、ベルゼルも何か返答を期待するものではなかった。

「エリカさんは無実です。それは私が保証しましょう。でも、いくらそれを声高に訴えても、耳を傾ける人はいません。でも、あなたには力があった。魔術師として高い素養と、そして悪魔という力があった。だからその不条理に今日まで抗うことができた。数多の王国捜査官エージェントやアネット、そしてム・ドラル人をもねじ伏せ、ついには私の亡命を阻止し、ここまで追い詰めた」

「……何が言いたいんですか?」

「つまり、正しさや正しき行いだけでは、何もなし得ない。反発や、別の"正しさ"に潰されてしまう。正しさを証明するには、それを庇護するための力が不可欠ということです」

 まるで弟子に教えを説くような口調で言う。

「確かに亡命は潰えた。しかし私は歩みを止めるつもりは毛頭ない。この先も邪魔されることなく使命を全うするには、力が必要なのです。おいそれと手を出せば、手痛い反撃があるとわからせるほどの力が。抑止力たり得る圧倒的な力を。そのために今、ここで禁忌魔法による召喚を行うのです」

 本人としては理路整然、理屈の通った講釈を述べたつもりなのだろう。だが、

「……一緒にしないでください」

 エリカは怒気を孕んだ声で、絞り出すように言う。

「私は力を求めたことなんて一度だってない!目的のために誰かを傷つけるなんて考えたくもない!」

「そう思うのは自由ですが、結果が全てを証明している。私が同じと言っているのは、そういうことです。主義主張の問題ではありません」

 ベルゼルとエリカが言い合っている間、俺は周囲に意識を向けていた。

 やつはエリカが現れることを想定していた様子。そうでなくても、妨害に対して無策だとは思えない。

 慎重に探りを入れるほど時間の猶予はないが、せめて注意くらいは逸らせたい。

「生憎、俺はお前の使命とやらに興味は無い。だが、これだけははっきりさせておきたい……お前は何故、この俺を召喚した?」

「ふむ。とてもいい着眼点ですね」

 投げかけた話題に、予想通り食いつきを見せ語り出すベルゼル。

「当局の私への疑いの目をエリカさんに向けさせるため――というのもありますが、質問の趣旨はそういうことではないですね?」

「当たり前だろ。そんなこと、こっちは百も承知なんだよ」

「君が召喚対象として選ばれたのは、

 相変わらず謎掛けめいた物言いが鼻につくが、今は奴を饒舌にさせるため「どういう意味だ?」と、こちらも食いついたふりをする。

「ただ悪魔を召喚するだけなら、技術的にはさほど難しくはない。しかし今回の召喚には"ある要素"を持つ魔属を抽出する条件を組み込みました。数多いる魔属の中でも、君はその"要素"を有しているが故に召喚されたのです」

「要素、ですか?」

 怪訝な表情を作るエリカ。召喚者であるエリカも知らないことらしい。

「それは"繋がり"と言い換えてもいいでしょう。これは私の理論を証明する上で不可欠でした。わかりますか?君はそのための通過点にすぎないのです。その繋がりとは――」

「長々とご高説垂れてくれてご苦労さん」

 言葉はベルゼルのすぐ背後から。

 語る言葉に熱が入り始めた瞬間に、俺は音もなく一瞬で奴の背後に回り込んでいた。

 奴からすれば、瞬きの間に俺が消えたように見えたことだろう。

 同時に取り出していた大型ナイフを見せつけるようにして、首筋に当てる。

「悠長に喋りすぎたな」

「いやいや。むしろ、ここからが面白くなる話だったのですが」

「今すぐ魔法を止めろ」

「できない相談ですね」

 しかし、まるでナイフなど見えていないかのように涼しい口調でベルゼルは答えた。俺は刃を首筋に押し当てる。赤い一筋の傷から血が滲み出て刃を濡らす。

「余裕だな。港の時みたく、殺されはしないと思ってるなら思い上がりだな。あの時と今じゃ、状況が違う。こっちはお前を殺したくてウズウズしてるんだ」

「あなたこそ、奢っているんじゃないですか?人間は須らく脆弱な存在だと。その奢りで手痛い反撃を受けたんじゃないですか?

 空気の唸りは真横から。

 何の気配もなく突如繰り出された蹴撃。側頭部に迫っていたそれを、同じ方向に身を投げ出すことで間一髪で躱す。

 直後、先程まで頭のあった場所を、鋭い鎌を想起させる軌道でつま先が過る。あまりの威力に、風圧だけでベルゼルの髪がかき乱される。

 油断はしていなかった。なにか少しでも動きがあれば、即座にベルゼルの首を落とすつもりだった。

 しかし、できなかった。

 驚いたのは気配を感じなかったことでも、凄まじい速度の蹴り足でもない。

 むしろその姿を見れば、納得すら覚える。

 そいつらがこの場にいることこそ、何より俺を驚かせた。

 黒一色の、ごつごつとした装備品。

 爪先を鉄板で保護された編み上げ靴。

 顔全体を綿のマスクで覆い、頭部には一つ目の特殊機械。

 シーヴィルにあって異質な出で立ちのそいつらは、港で戦った異国の兵。

 ム・ドラル人だった。

「そんな!彼らは魔法の生贄にされたはずじゃ……」

 エリカは 声を上げる。逆に俺は納得したように頷く。

「この感じ、あの時の奴らとは違う……そうか。そういうことか」

 俺がそのことに気づくと、「お気付きになりましたか」と嬉しそうに笑うベルゼル。

「彼らには悪魔の魂を憑依させてあります」

 ベルゼルの背後の何も無い空間が蜃気楼のように歪んだかと思うと、そこから次々とム・ドラル人が姿を現す。

 そして、八人のム・ドラル人がベルゼルを守るように囲んでいた。

「直接召喚と違って憑依には肉体を構築する必要が無いのが利点です。もっとも、準備なしの即興術式でしたので魂が混ざり合ってしまい、このような意思のない人形となってしまいましたがね」

 言う通り、外見こそ生前のム・ドラル人と何一つ変わっていないが、纏った雰囲気がまるで違う。

 奴らは自身の意思や自我を押し殺し、自身を戦闘に最適化していた。

 だが、今の奴らには意思そのものがない。呆然と立ち尽くすだけの姿には生気を感じることすらできない。

 今奴らに憑依している悪魔がどんなものかは、外見から判断できない。だが、俺と同等程度の位の悪魔である事は間違いない。

 その証拠に、今の蜃気楼のように現れたのは『空渡り』と呼ばれる、俺の影渡りと同系統の術だ。下級の魔属にできるような芸当じゃない。

「生憎私は忙しい。すみませんが、続きは彼らとお願いします」

 話は終わりだといわんばかりに、ベルゼルは自身の魔力を練る。

 禁忌魔法を発動させるために。

 魔法陣はその脈動を昂るように早め、黒い光をより強く放ち始めた。

 させるものかと、俺は武器を取り出そうと構える。

 しかし、俺の殺気に反応したかのように、呆と立っていたム・ドラル人が素早く動くと、ベルゼルと俺の間に並び立って壁を作る。

 港の時は搦手で各個撃破に徹した。

 それを正面から、しかも八人同時に相手となると分が悪いどころではない。

 積極的に攻撃をしてこないところを見るに、ベルゼルの守護に徹しているのだろう。

 もっとも、その不気味な感覚が俺の手足指先にまで向けられているのがわかる。迂闊に動けば、一気に殺到することは想像に難くない。

 結果睨み合いとなり、身動きが取れなくなる。

「命がけであなたを守ろうとしていた人たちの命まで弄ぶなんて……どこまで人の道を外れればそんなことができるんですか!?」

「まるで私が好き好んでこんなことをしているかのような口ぶりですね?ご自分の行いを棚に上げて、なんとも傲慢も甚だしい」

 エリカは怪訝と苛立ちを混ぜ合わせたような表情を作る。

「違うとでも?」

「心外ですね。そもそも、本来ならこの禁忌魔法はム・ドラルで行うはずでした。それが彼ら――正確には彼らの属する国家との契約です」

「ム・ドラルで?」

「彼らは魔法を使えない。だが、魔法によって呼び出されるものを得ることはできる。それが禁忌魔法クラスであれば、その恩恵は計り知れない。そして私も、自身の理論を実証できる。相互利益に基づいた取引でした」

 その話が本当だとすれば、ム・ドラルは街ひとつ分の人間の命を用意していたということか。

 そこで思い出すのは、港でのベルゼルとム・ドラル人が会話の中で言っていた『ご所望』という言葉。

 あれは代償のことを言っていたのか。

「私とてこんな方法に頼りたくはなかった。遠い海の向こうで、自分の正しき魔法の研鑽をし、新たな魔法のフロンティアを築こうとした。もっとも犠牲の少ない、平和的な方法で。それをくだらない倫理観と私怨で阻んだのは、エリカさん、あなたですよ?この状況を引き起こした責任の一端は、間違いなくあなたにある」

 ベルゼルの非難言葉に、エリカは俯いて深くため息をつく。

 それは失望と落胆のため息。

 少しでも真面目に耳を傾けたのが馬鹿らしいとすら思っているのだろう。

 かつて尊敬し、理想として仰いだ師。それが今や、見苦しく責任転嫁しようとしているのだから当然だ。

 エリカの中で、わずかに残っていた情念すらも完全に消え失せた瞬間だった。

 吹っ切れたように決意の表情で再び面を上げる。

「わかりました。なら、その責任の後始末をつけます……私の手で!」

 エリカは魔力を放出し、叫ぶ。激しい怒りが魔力と混じり合い、大気に小波を立てる。

 だが、この状況ではまずい。

 眼の前のム・ドラル人どもは一斉にエリカの方へと首を巡らせる。

 俺の危惧どおり、エリカの魔力に反応したム・ドラル人は標的を俺からエリカに変更した。足を向け、ぐっと身を沈ませるとバネのように弾け、一直線にエリカへと迫る。

 俺は考えるよりも早く、脚力を瞬時に爆発させ、ム・ドラル人を追撃する。連なる三人のム・ドラル人の最後尾の一人の後頭部を鷲掴みにするとそのまま追い抜き様石畳に叩き付け沈める。

 続く二人を追い抜くと反転し、足を止めて脇を抜けようとする先頭のム・ドラル人の首を素早く掴む。あまりの勢いに、掴んだ首を中心に体を宙に浮かせるそいつをそのまま力任せに投げ飛ばす。ボールのように軽々飛んでいき、地面を二回、三回とバウンドした後にカフェと思われる店舗の中に突っ込んだ。店内からはテーブルが砕け食器が割れる激しい破壊音が届く。

 残りの一人はすでにエリカの魔法によって両足を図太い氷柱に貫かれ、地面に縫い付けられていた。

「気をつけろ。こいつら、ベルゼルに対する攻撃意思に反応するぞ」

 エリカの傍に並び立ち、警告する。

 残ったム・ドラル人は空渡りでベルゼルの前まで戻ると、再び守るように囲み、俺たちと対峙する。

 先ほど倒したと思ったム・ドラル人も遅れてそこに加わる。手足の骨が折れ、首が折れ曲がっているが気にした様子すらない。

 悪魔に憑依されたことで、肉体も人間から逸脱したものへと変化を遂げているようだ。

 眼前の攻防を他所に、陶然とした表情でベルゼルは虚空を仰ぎ見る。その眼差しはすでに現実を見てはない。

 術式はいよいよ大詰めを迎える。

 最終段階に至り、足元の魔法陣内の魔力循環を早める。それに呼応し、天井の魔法陣を妖しい光を増していく。

 生命力の吸収もより激しさを増しているのが肌で感じられた。

 だがもはや悩んでいる時間も無い。

 エリカの魔法の援護射撃を背に、俺は突撃する。

 ベルゼル目掛けての一点突破――だが、抜けない。

 ただ「ベルゼルを守る」という一つの命令を実行し続けるム・ドラル人。

 さながら、手足がもげようと、群れがどれだけ踏み潰されようとも這い上がってくる蟻が如く。

 死も恐れぬ、というにはあまりに無機質な守護者たちに阻まれ、ベルゼルに近づくことすらできない。

「ようやく全てが報われる……扉は開かれた。新たな境地へ……さらなる深淵へ……もはや何人たりとも私から奪えはしない。歩みを阻むことはできない。私を否定などさせない!」

 眼前の死闘など眼中にない様子のベルゼルは天を仰ぐと、恍惚とした様子でうわ言を呟き始める。

 魔法が発動したのだ。

 すなわち、扉を通して喚ばれる。

 異界存在、禁忌級の魔属が。

 数多の命を糧に、この世界に現出する。

 ――そう思っていた。

 それに最も驚いたのは、ベルゼル自身だろう。

 魔法陣の中心に立つベルゼルの姿が、まるで底が抜けたかのように真下へと落ち、魔法陣の向こうに姿を消した。

 主の危機と判断したのか、後を追うようにム・ドラル人が一斉に魔法陣の向こうへと飛び込んでいった。

 驚愕の声すら発する暇もない。まさに、瞬きの間の出来事であった。

 何事も無かったかのように静まり返る広場。

「……何だ?どうしたんだ」

「わからないわ……」

 俺とエリカは、ただただ呆然と佇むほかなかった。

「もしかして魔法は失敗したのか?」

「新米の魔法使いとかは魔法を制御できず暴走させちゃうっていうのはあるけど、術者が消えるなんて聞いたこともないわ」

「でも禁忌魔法レベルならあり得るんじゃないか?消える直前のやつの顔も、驚いてたように見えたぞ」

 俺の推論にも納得いかない様子で、拳を口に当てて考え込み始める。

「まったく。人騒がせなジジィだ。ま、自業自得だな。ザマァねぇ結末――」

「待って!様子がおかしいわ!」

 エリカが叫ぶ。言われるまでもなく、俺も異変に気付く。

 足元の魔力が消えていない。ベルゼルが消えて一度は弱まっていたそれが、間欠泉ように吹き出てくる。質も量も、先ほどの比ではない。

 消えてなどいなかった。

 ベルゼルがどうなったかも分からないが、は間違いなくそこにいる。

「ヴァル君……」

「いいか、絶対に俺から離れるなよ」

 俺の服の裾をきゅっと掴むエリカを背に回し、俺は対峙する。

 ――俺はこの感覚を知っている。


 *

 召し喚び出すことを"召喚"というのであれば、その光景は召喚とはあまりに程遠い。

 それは異世界からの侵入と言った方が正しい。

 まず巨木と見紛うほどの巨大な腕が現れ、大地をつかむ。それだけで、舗装された路面にクモの巣状の亀裂を走らせた。

 そしてその腕に続き、見上げるような高さの巨体がゆっくりと姿を表す。

 この街のどの建物よりも高い、小山の如き見上げるほどの巨人。

 驚くべきことに、上半身だけでその大きさである。どういうわけか、下半身は未だ魔法陣の下だ。

 そいつは眼下にいる俺たちなど歯牙にもかけず、けだるそうに周囲を見回す。鎧のような逞しい筋肉に包まれた肉体は人のそれと違い黒く、硬質で、鍛えられた鉄を想起させる。その身体の上には人間とは明らかに異なった頭が乗っていた。捩じれた角と、口からは獣のような牙を覗かせる。

 何より、ぎょろりと剥き出た両の眼は血のように赤く、瞳孔の細い瞳には世界の全てを見下したような不遜な感情を秘めていた。

「ふむ。どうやら肉体の生成が追いついていないようだ」

 それが奴の第一声だった。

 まだ魔法陣から姿を現さない下半身を見下ろし、特に気にした様子も無く一人呟いた。どうやら肉体の生成が途中で止まったようだ。ベルゼルの術が完全ではなかったのか、肉体の構成に魔力が間に合っていないのか定かでは無い。仮に後者であったとしても、もともと他の魔属とは一線を画すそいつの存在なら納得がいく。

「なんて大きいの。それにこの魔力……こんなものを、師匠は……」

 エリカは急に温度が下がったかのように身を震わせる。奴の放つ瘴気のごとき魔力に当てられてしまっていた。改めて禁忌というものに慄くエリカをよそに、俺はエリカとは別の驚きに呑まれていた。

 同時に、ベルゼルが語った言葉と、今のこの現状が一つの線となって俺の頭の中で理解する。

「そうか……。だから俺はただの通過点。こいつを呼ぶための道標ってわけか」

 顔を引きつらせながら自嘲気味に言う。

 ――奴の言う通り、俺が召喚されたのは確かに偶然だろう。

 だが、俺という存在がこの世界に在り、触媒となった。

 その結果、コイツが召喚されたのは紛れもなく必然だ。

「ヴァル君。あの人を知ってるの?」

 俺の様子に気づいたエリカが横から問いかける。

「あいつは、魔神……『人形王』キュルグレイン。俺を……生み出した奴だ」

「ま、魔神!?本当に実在したの!?しかもヴァル君のお父さんって……!そうか。だからお師匠は……!」

 こんな状況にあってもエリカは一人、推論をぶつぶつと口にする。

「禁忌級の強大な存在を魔法の術式だけで召喚することは本来不可能だわ。召喚の三大要素――接続コネクト交信コンタクト触媒コネクションを賄うことが難しいから……でも、その中でも触媒コネクション、つまり呼び出したい対象に関わりのある"何か"がこの世界にあれば、難易度は大きく変わる。すなわちこれは盟約者を触媒とした、二段階召喚……!」

 おそらくベルゼルは召喚術式の条件に、「魔神」と深い縁を持つ「悪魔」を条件付け、結果俺を呼び出させたのだろう。

 こちらの困惑など微塵も察することなく、キュルグレインは周囲をゆっくりと見回す。

 初めて訪れた、これから蹂躙するこの世界を。

 そこで初めて俺たちの存在に気付いたのか、眼球だけをぎょろりと動かし頭上から視線を投げ下ろす。

「ん?お前は……誰ぞ?」

 がくっと腰砕けしそうになるエリカ。

「向こうは知らないみたいだけど?」

「あいつは数千数万以上の、途方も無い年月を生きているんだ。俺のことなんか覚えちゃいない。いや、あいつはいちいちを覚えてなんかいない」

 説明していると、しげしげと首を巡らせ眺めるように俺を見つめ、そして眉を吊り上げながら驚く。そして納得したように大仰に首を縦に振って頷いた。

「おお!どうりで眷属の匂いがすると思ったが、貴様は我が分身ぞな?」

「ああ。俺はあんたから生み堕ちた悪魔だ」

 キュルグレインは嬉しそう、というよりは愉快そうに口の端を吊り上げ笑みを作る。

「よもやこのような場末であいまみえるとはな!やはり運命とはおもしろい。長く生きるとこういう愉快なこともあるものよな」

 何がそんなにおかしいのか一頻り笑うと、キュルグレインは「ん?」と、俺の背に隠れるように覗くエリカの存在に初めて気付いたようだ。今度はエリカを物珍しげに、そして楽しそうに眺めた。

「ほほぅ。実に上質なを侍らせているな。さすが我が分身。役畜を選ぶ目も抜け目無いな」

「馬鹿抜かせ。こいつは俺の召喚主だ」

「何?ということは、こんな女子おなごの下郎にされているのか?」

 愉快極まりないと、手を叩いて呵呵大笑する。その音だけで爆発でも起きたかのように大気を震わせた。エリカなど耳を聾すその笑い声に驚き、身を強張らせた。

「これはいい!我が分身を使役するとは!一体どんな色仕掛けで魅了したのだ、娘?」

 エリカは顔を赤くして「い、色仕掛けなんてしてません!」と反論するが、奴は聞いていない。

 そしてその目に暴虐の色を滲ませ、エリカに指先を伸ばす。

「安心するがいい。袂を分かれたとは言え元は我が眷属。どれ、貴様も取り込んで我が隷下に――」

「テメェ!エリカに指一本触れてみろ!ブチ殺――」

 反射的に発した怒声は、突然の衝撃によってかき消される。

 奴の腕の表面から飛び出した何かが凄まじい勢いで激突し、俺の体ごと遥か後方までふっ飛ばした。

 先日再生したばかりの左腕から肩にかけて牙を突き立てられるに至り、ようやく俺はそいつの姿を見る。

 鮫に似た外観だが眼球に相当するものが見当たらず、表面はぬらりとした艶で覆われたそいつは『ペルヴェア』と呼ばれる、魔属領に棲息する下級の魔獣だ。

 ペルヴェアは路面をすべり、咥え込んだ俺もろとも二階建ての建物に激突。壁をぶち破って尚、狭い屋内で俺の腕を食い千切らんばかりにのた打ち回り、その度に床や天井に激しく叩きつけられる。

 本来、ただの下級魔獣程度にいいようにされるなどありえない。しかし、今の俺に抵抗する手段はなく、ただされるがままだ。

 と、そのペルヴェアがピタリと唐突に動きを止める。同時に、異常に膨れ上がる魔力。

(ヤバいっ!!)

 俺は喰らいつかれた左腕を『敗者の器』から取り出した大鉈で躊躇いなく切り落とし、死物狂いでペルヴェアから離れる。

 直後、ペルヴェアの巨体が爆散した。その衝撃は二階建ての建物を完全に倒壊させるほどの威力であった。

 間一髪、瓦礫の下敷きにならずに済んだものの、爆発の衝撃を背に受けたことで、屋外に飛び出し石畳に叩きつけられてしまう。

 すぐに立たねば、と頭では意識しても身体が言うことを聞かない。

 サードシフトの身でありながらそのダメージは甚大で、息を荒げて無様に這うしかできなかった。

「分を弁えろ。肉片風情が」

 雰囲気が一変し、低い声で恫喝するキュルグレイン。

「我が元に戻らず個を確立するほどの強い自我を持つとはいえ、所詮は肉。主に物申すなど無礼千万甚だしいわ」

 一切声を荒らげていないのに、ただ発するだけで思わずひれ伏してしまいそうな凄みを帯びていた。

「今まで野放しにしてきたが、それもこれまで。我が眷属よ。今一度我が元に戻れ。大人しく戻るなら良し、さもなくば……」

 語るキュルグレイン全身から、大小無数の濁った雫が流れ落ちる。汚泥にも見えるそれは、魔力構成体。

 それらは意思があるように転がりながら、形を成していく。無数のそれらは、いずれも見慣れた魔属の姿となり、群れとなって広場を埋め尽くした。

「なにこれ……全部魔属!?でもどうやって……?」

「意に沿わぬ肉に用は無い。この場で食らい尽くすまでよ」

「そうやって脅せば俺がビビるとでも思ったか?」

 反抗の意思が些かも失われていないことに、忌々しげに頬を歪ませる。と、そこでキュルグレインは何か面白いことでも思いついたのか、にやけ面で、

「そうさな、ならせめてもの慈悲に選択肢をやろう。代わりにその女子おなごを贄として差し出せ。さすればそなたの無礼を許そう。逆に、もしうぬが大人しく余の元に戻ればそこの女子おなごは見逃してやる」

 と、そんなことをのたまいやがった。

 これだから不遜な王様は。そう言えば俺が大人しく身を差し出すとでも思っているのだろうか?選択肢を出せば相手がどちらかを選ぶと思ったら大間違いだ。

「言っただろ。そいつは俺の召喚主だ。その汚い手で指一本でも触れてみろ。肉片レベルまで刻んでやる」

 額から流れる血を拭いながら、それでも気を吐く。

「すなわち、我が元に戻るという意思か?」

「どう聞き間違えたらそうなるんだよ。テメェに戻るくらいなら死んだ方がマシだ」

「そうか」

 その短い一言が引き金になった。

 周囲の魔属たちが示し合わせたかのように一斉に駆け出し、群れをなして俺へと殺到した。餌に群がる野獣の如き貪欲さで抉り、食らい、暴虐の限りを尽くす。個別に見ればどいつも大した実力は無い雑魚ばかりだ。

 しかし、俺には残った片手で防ぎ、ひたすら身を守るしか出来なかった。

「どうした?肉片レベルまで刻むのではなかったのか?我が眷属なら、少しは意地を見せてみよ」

 (ふざけやがって……!)

 怒りについ反撃してしまいそうになるが、それをぐっと堪え、吹き荒れる暴虐の嵐に、俺はただただ身を晒す他無かった。

「ヴァル君!待ってて!今シフトを上げるわ!」

 シフトのせいで力が発揮できないものと勘違いしたエリカは意識を集中し、シフトをフォースシフトにまで上げる。

 清廉な魔力が余すとこなく肉体に行き渡り、魔力と力が漲ってくる。

 だが、それだけだ。

 やはり俺は体を丸め、ひたすら耐えることしかできない。

「そんな!どうして……」

「無茶を言ってやるな、女子おなご。あやつは反撃はおろか、余に毛ほどの傷すら負わせることも叶わん。どう息巻いたところで世界の理に逆らう事はできんのだ」

 エリカは「理」と言う言葉に、ある事柄が脳裏をよぎりはっとする。

「魔属の摂理……上位の魔属には攻撃することが出来ない」

「ほぅ?知っていたか」口を衝いて出たエリカの呟きに、キュルグレインは感心したように言う。

「ならわかるだろう?肉片風情が余に歯向かうなど、天に唾する愚行。例えシフトとやらを上げようとな。そしてここにいるのは全て余が肉を分けた分身。すなわちこれら全てが余自身でもあるのだ」

 声高らかに笑うキュルグレイン。

 一介の悪魔と、幾万年の齢を重ねる魔神。格がまるで違いすぎる。

 神界でどれだけ戦いに明け暮れようと、ついぞ奴の格に届くことはなかった。

「余興として、奴が食われていく様を特等席で見ているがいい」

 エリカの表情がこわばっていく。

 今まで一度もなかった、相棒の危機が恐怖を超えた決意をさせる。

 今、この場で相棒を守れるのは自分しかいないと。

「そんなこと私がさせないわ!」

「っ!やめろ!エリカ!」

 血を吐きながら叫ぶも、エリカの耳には届かない。

 勇気を振り絞って両の足を踏みしめ、エリカは魔力を練り、高速で魔法を発動する。

 最速で魔力循環を行い、放たれる無数の『スピト』。

 それは、これまで追手やゴロツキ相手に放った"非殺傷仕様"ではない。

 視認できないほどの極小の魔力体。

 ベルゼルがアネットに放ったものに匹敵する、限界まで凝縮された無数の殺意。

 それが横殴りの雨となって迸り、人間の身長よりも大きい頭を粉々に吹き飛ばした。

 それでも尚止まらない。

 スピトの弾雨は急角度で軌道を曲げると、次はキュルグレインの肉体を穿ち、その身を爆ぜさせる。

 どうやら肉体内でさらに炸裂し、無数の子弾となって体内を暴れまわるロジックを組んでいるようだ。

 体内で肉も骨も臓腑も一緒くたにかき混ぜる。

 頭を潰され内蔵を粉砕されても尚、キュルグレインは動きを見せる。その巨体からは想像もできない速度で右腕を持ち上げた。

 この程度で魔神は死なない――エリカは百も承知していた。

 奴の右腕が、宙で軋みを上げて静止する。一瞬にして霜に覆われ、凍結されていた。

 大木と見紛う巨腕を、骨に至るまで一瞬にして凍結させるほどの氷結魔法。

 そして腕は粉微塵に砕け散る。

 体内を突き抜けたスピトの子弾が激突し、打ち砕いたのだ。

 幾重もの攻撃魔法に晒され、キュルグレインの肉体が完膚なきまでに破壊されていく。

 初めて見せる、エリカの殺意ある攻撃魔法。

 それはまさに凶悪の一言。

 命を奪うことも厭わない覚悟を決めたエリカが、ここまで恐ろしいと想像だにしていなかった。

 その恐ろしさを自覚しているからこそ己を戒め、命を奪わぬよう細心の加減をしていたことに、今更ながら気付かされる。

 ――惜しむらくは、その重い覚悟もキュルグレインという特例の前には無意味であったことだ。

 この短時間でキュルグレインはその巨体の半分以上を失っていた。

 かろうじて残った左腕がゆっくりと持ち上げる。苦し紛れのささやかな抵抗――などではない。

 その腕にも容赦なくスピトの弾丸が食らいつく。薄氷の無数の刃が切り刻む。劫火が消し炭に変える。

 飛び散る肉片と血潮――しかし、それらは突如、空中で静止した。

 そしてこれまでの光景を逆戻しするかの如く、元あった場所へと戻っていく。

 それも、ただ再生するのではない。

 腕は元の数倍もの長さを形成しながら、ほんの瞬きの間でエリカの目前まで迫った。

 赤黒い肉塊が蠢く醜悪な様を見せつけた後、それは一匹の巨大な蛇型魔属となった。筋肉繊維がむき出しで眼球がないその蛇は顎を大きく開き、「シャァァァァ!」と威嚇する。

「そう急くな。奴を食した後にゆっくり我が一部に取り込んでやる。それまで大人しく座しておれ」

 その声は頭上から。そこには何事もなかったかのように肉体が復元され、寸分変わらぬ禍々しい顔がエリカを見下ろしていた。

 理を超越した現象を前に、エリカは身動き一つできなくなる。

 ――ヤツには、真っ当な攻撃は一切通じない。

 たとえ世界を焼き尽くすエネルギーをぶつけたとしても、奴を滅ぼすことはできない。

 魑魅魍魎渦巻く魔属領において、奴が『王』を名乗れる由縁である。

 俺は視界を埋める魔属の群れの隙間から、絶望に膝を折るエリカが見える。

 恐怖に呑まれてしまったから、ではない。

 師匠を止めることもできず、街の人間を助ける事もできず、さらには相棒が嬲り殺されるのを黙って見ていることしか出来ない自分の非力を、嘆いているのだ。

 絶望に打ちひしがれ、ついに両腕を着いてその場にうなだれる。

 故に、エリカは気付いていなかった。背後に迫る影の存在に。

 その影は一直線に駆けていく。そして――


 *


 エリカの脇を、頭上を、無数の影が疾駆し、飛び越え、駆け抜けていく。滑空するような猛烈なスピードにその身に纏う黒衣がバタバタと激しく踊る。

 広場の前方入り口より侵入する無数の影は、いずれも人間だ。

 キュルグレインも、これが自分に友好的な集団であるとはさすが思わなかった。だが脅威とも見なさず、魔属たちを差し向ける。命令の元、次々と広場に侵入してくる唐突な闖入者に牙を向ける魔属や悪魔たち。まずは先頭を行く二人一組の黒衣に殺到する。

 数の暴力に成す術も無く、先頭を行く二人の黒衣は魔属の餌食なる――そう思った俺の予想は衝撃と共に覆された。

 正面に相対した十数体の悪魔に向け、一人の黒衣は静かに両手を翻す。

 そしてスラリと伸びた細い指先から放たれる鋭い紅蓮の線――超高熱の熱線を薙ぎ払われ、悪魔共は一瞬で胴を上下に分断されてしまった。

 ピアノを奏でるが如く優雅に指先を揺らし、群がる悪魔をまとめて葬っていく黒衣。

 併走するもう一人の黒衣は対照的に荒々しく、苛烈を極めた。拳を大きく振り被り、間合いに捉えた悪魔めがけ渾身のストレートを放つ。強化魔法によるものか、その速度も重さも人間離れしている。

 もっとも、いくら強化しようと魔属相手に拳だけではまともなダメージは与えられない。俺がアネットの拳を片手で受け止めたように、強化と言っても人間の範疇でしかない。

 そう、思っていた。

 しかし、結果は全く逆のものとなった。

 拳が悪魔の胸に突き刺さり、インパクトの瞬間に溜めた魔力を一気に開放。悪魔は上半身を跡形も無く消し飛ばされた。それだけに留まらず、衝撃は一直線に突き抜け、射線上にいた魔属をまとめて葬った。

 下級とは言え、人間よりも遥かに強靭な肉体を誇る魔属どもを焼き切り、吹き飛ばす光景には我が目を疑った。全方位から迫る魔属を薙ぎ払うこの二人が、ただの人間とは思えなかった。

 そうして気付けば群がる悪魔の集団の中に一筋の道が出来ていた。その道を後続たちが続く。

 と、先頭の二人は唐突に足を止めると、両足で大地を強く踏みしめる。その肩を、後続たちが軽やかに蹴り上げ、重力の束縛を感じさせない軽やかな身のこなしで上昇していく。

 空を行く黒衣たちを待ち受けていたのは、有翼魔属の群れだ。翼も持たずに自ら飛び込んでくる愚かな獲物を一斉に狩りにかかる。

 そいつらは何も知らなかった。自分たちこそが狩られる側であることを。

 黒衣は空中でくるり舞うように回転すると、無数の銀光が煌めいた。それが魔力によって編まれた糸であったことを、やつらは最期まで認識できなかっただろう。

 宙を舞う糸は相手に触れるそばから、その身を寸断していった。腕、足、翼、頭――黒衣の乱舞に合わせ、両の手に装着された薄手の手袋から伸びる魔鋼線も宙を躍り狂う。そのたびに無数の煌きを放ち血の華を咲かせ、地に魔属どもの血と肉片の雨を降らす。

 その舞いがピークに達したとき、その足を重力という腕が捉える。さすがの超人的な黒衣も空を飛ぶことはできないようだ。

 自然落下に入る黒衣のその肩を、さらに後続の黒衣が蹴る!仲間を踏み台に後続の黒衣は宙をさらに高く舞う。まるで事前に示し合わせたかのような、阿吽の連携であった。

 仲間たちを足場に、黒衣たちは無数の悪魔の軍勢に守られたキュルグレインへと急速に迫っていた。たかが人間と高をくくった慢心が、黒衣の接近を許してしまう。

 最後の黒衣が、いよいよキュルグレインの眼前にまで迫る。

 その手には一振りの長剣が握られている。刀身から柄まで派手な装飾を施されたその剣はおおよそ実戦には向きそうにない。そもそもこの魔神を相手に例えどれほどの業物だったとしても無意味なのだから、とてもあれで奴にダメージを負わせられるとは思えない。

 剣の刃に刻まれている魔法の特殊紋様を見なければ。

「人間風情が――!」

 振り払おうと腕を突き出すキュルグレイン。その直上より高速で迫る一対の白き飛翔体。

 落雷と見紛うそれが刹那交錯した瞬間、キュルグレインの巨腕が宙を舞い、鮮やかな断面を晒していた。

 驚きに目を見開くキュルグレイン。一方、白い残影はその速度から一変。翼をはためかせてふわりと優雅に大地へ降り立つ。

「まさかこんなところで魔神を狩れるなんてラッキーだね。姉さん」

「ええ。もっといたぶりたかったけれど、これで終わりなんて残念ですわ」

 鮮やかな白い翼を持つそいつは、アリッサとメリッサだった。

 ダン!と勢いよくキュルグレインの胸板を下にして着地した黒衣は、勢いのまま長剣を深々とその胸に突き立てた。

 苦鳴の声を上げ、叩き落とすように振るう腕を鮮やかに躱し、黒衣はすぐさま飛び退く。

 追撃を仕掛けようと動くキュルグレインだが、その身に突き刺さった剣がただの剣ではないことに気付く。

 表面に刻まれた魔術文様が魔法として起動する。同時に剣はまばゆく神々しい光を放ち始める。

 目に痛いほどのその白光は、間違いなく神聖魔法のそれであった。

 光の増幅が頂点に達したとき、キュルグレインの身が瞬間的に膨れ上がる。

 いかなるロジックが組まれていたのか。剣を起点に放出される魔力が魔属の魔力と反応を起こし、内部で次々と爆発。それが連鎖し、行き場を求めたエネルギーはついに閃光を伴い、巨躯の上半分を爆散させた。

 同時に広場を埋め尽くしていた魔属の群れも、司令塔が消えたことで溶ける様に崩れ落ち、ただの肉片と化す。

 土煙を巻き上げ、胸から上を失った巨躯が音を上げて倒れる。その上に降り立つ双子天使。メリッサは抜けかけていた長剣を手にし、弄ぶようにザクザクと突き立てていた。

「悪魔の親玉が、いいザマですわね。これはあなたの墓標にして差し上げますわ」

「それなら抜けないようにもうちょっとしっかり刺しとこうよ。えい、えい!」

 憎き悪魔の躯を前に、嗜虐の笑みを浮かべている。

 わずか一分にも満たない間の出来事。エリカはただただ呆然と座り込んだまま、その光景を見ていた。

「ご無事ですか、先輩」

 そのエリカの耳に届く覚えのある声。エリカが勢い良く振り返ると、手を差し延べているオリンの姿があった。

「オリン君!?じゃあ、あの人たちは……」

「はい。王国軍特殊魔導部隊をこちらに寄越してもらいました」

 王国軍特殊魔導部隊。つまり魔導士の精鋭部隊か。

 魔道士を直接目の当たりにしたことはない。アネットは元魔道士と言っていたから、てっきりあの程度を想像していた。

 しかし現役の、それも精鋭部隊ともなるとその質は桁違いのようだ。

 その魔導師どもに目を向ければ、倒れ伏した魔神に油断なく近付き死亡を確認しようとしている。その身から漂う雰囲気には一分の隙も無く、洗練されているのが見て取れる。

「街がこの状況だったので部隊を分けて、精鋭だけをこっちに回し、残りは民間人の救出に向かっています。報告では、多くの市民の保護に成功したそうです。さすがに悪魔に取り憑かれた者は手の施しようがありませんでしたが……」

「それでもよかった……助かった人がいるのね」

 エリカは心底ほっとしたように安堵の息を吐く。

 それならキュルグレインの体が半分までしか出てこなかった事にも合点がいった。

 街の人間を隔離した事により結界魔法は規定量の生命力を賄うことができず、結果、肉体を生成する魔力が足りなくなったわけだ。

 完全召喚に至っていたならば、マルレーンは死の街となっていただろう。発動時のあの惨状を阻止しただけでも、オリンらの功績は大きい。

「おい!話し込んでいる場合じゃない!そいつはまだ――」

 俺は瓦礫から身を出し、警告しようと出た言葉は、耳を劈く悲鳴によって遮られる。

「召喚早々このような歓待を受けるとは。中々粋なことをするではないか、人間」

 倒れた巨躯がゆっくりと身を起こす。完全に起き上がったとき、消し飛んだ部位も、双子天使が切り落とした腕もまるで嘘のように再生し、邪悪な笑みたたえた奴の顔がそこにあった。握られた拳には人間のものと見られる血で染まっており、指の合間から覗く血に染まった黒い布が、悲鳴の主が誰であったかを物語っていた。

「馬鹿な……!神聖魔法を多重に付加された軍用兵器だぞ?いくら魔神でも、あのダメージから復活できるわけがない!」

 ――人間が魔属や天属を殺そうとするなら肉体が維持できないほどの損傷を与えるしかない。それもシフトが低ければ低いほど可能性は高い。現に俺はそれでム・ドラル人に危ないところまで追い詰められた。

 その点で言えば電光石火の奇襲で、魔属相手に最も効果がある神聖魔法を叩き込んだオリンの作戦と魔導師部隊の手並みは非の打ち所もないくらい完璧だった。相手がただの魔属であったならば間違いなく殺せていた。

 が、奴にその方法は通用しない。

「今のでかなりの肉を持っていかれた。いやはや、まったくどうして愉しませてくれる。実に愉快だ。余も王として、それ相応に応えなくてはならんな」

 言いながら浮かべたその禍々しい笑みに、その場にいた全員の体感温度が下がる錯覚を覚えた。そして、

サード、シフト」

 口にした瞬間、魔力の嵐が広場を吹き荒れる。魔神級の禍々しい魔力は、物理的な圧力すら伴っていた。

「盟約者が自身の意思でシフトを上げるですって!?そんな馬鹿なこと、ありえませんわ!」

「王とは理に従うのではなく、理そのもの。貴様ら使役される羽虫とは次元が違うと知れ」

 言うキュルグレインの額に縦の切れ込みが生まれる。そして剥き出されたのは妖しい光を宿した水晶。

 宝石の如き結晶体が、にわかにサファイアの輝きへと変わっていく。

「……っ!アレはまずい!」

 俺は傷ついた身体に鞭打って駆け出し、エリカを抱きかかえると手近な店舗に自身もろとも投げ込む。

 次の瞬間、俺たちのいた場所を一筋の光線が過る。

 直後、熱波と爆風が辺り一帯を吹き荒れる。

 あれは鉱体魔属『ビジュ』。知性こそないが、外敵に対しては内部器官にて高速精製し変質させた魔力を一気に放って攻撃する。

 そのエネルギーたるや凄まじく、たった一発の光線で射線上にあった建物は跡形もなく消し飛び、逃げ遅れた特殊部隊員は一瞬で蒸発。痛みを感じる暇すら無かっただろう。

 後には、射線の軌跡を示すように深く抉れた地面と焼け焦げた臭気だけが残る。その熱量と破壊力に石畳すら溶解し、その下の剥き出しの大地が赤熱していた。

 なんとか紙一重で躱した俺はエリカの無事を確認すると、カウンター越しに外の様子を確認する。

 残っているのはオリンを抱えて回避した双子天使どもと数名の特殊部隊員。全滅こそ免れたが、もはや奴らにこの事態を収める望みは皆無だ。

「ふはははは!そうだ!もっと余を愉しませてみせよ!最後まで残った者は余の一部になる栄誉を与えようぞ!」

 吼えるキュルグレインの周囲には再び魔属の軍勢が生まれる。だが、シフトが上がったことで使役する魔属も変わってくる。知性の無いペルヴェアのような下級魔属種に代わり、より強く、知性もある魔属が姿を現す。

 残った数少ない特殊部隊員たちはこれに応戦するも、形勢は完全に不利に見える。

 あの豪腕の魔導士は、押し寄せる魔属に例の拳を繰り出し、近づけさせまいと奮闘していた。

 その前に立ちはだかったのは岩のようなゴツゴツした硬質の肌に、体長が数メートルもある巨人『鬼岩ぎがん』。下級の魔属をまとめて葬ったその拳撃も、鬼岩ぎがんには豆鉄砲程度の効果も無い様子。気付けば数体の鬼岩に囲まれ、頭上から拳が振り下ろされ、魔導士は圧死。拳が引かれたとき、そこには魔導士の肉片が陥没した石畳に付着しているだけだった。

 他の特殊部隊員も似たような戦況で、一人、また一人と命を散らしていく。あれほどの圧倒的な強さを見せた特殊部隊も、たった1のシフトアップによって全滅にも近い様相を呈していた。

 唯一未だまともに戦っているのはあの双子天使。しかし、その双子天使もオリンを守りながらの防戦一方だ。オリンも何とか起死回生のチャンスを窺っているようだが、この軍勢を前に無力感を痛感するだけのようだ。

 このままでは本当に全滅も時間の問題だ。そうなればやつは残りの肉体生成に集中し、術式から這い出てくるだろう。

 奴が縛めから開放された時、この世界は終わる。

 冷静に状況を分析しながら、俺は顔を引っ込める。店の奥でエリカはうずくまり、泣くような弱々しい声で一人呟く。

「どうしよう。もう他に手は無いの……?このままじゃこの街は、いやこの世界が滅ぼされるわ」

 これが他の、単に強力だけ、単に丈夫なだけ、単に神格が高いだけの魔神であれば、苦労はしない。可能かどうかは別として、少なくとも圧倒的な力や神聖魔法をぶつければ滅ぼすことは出来る。

 現行の王国軍はおろか世界中の魔法使いを集めてぶつけたとしてもキュルグレインを消すことは難しいだろう。奴の存在はそれほどまでに特殊だ。

 エリカの絶望は、自分のことのようにわかる。

「諦めるな」

 だから俺は、絶望に打ちひしがれるエリカの肩を正面から掴み、気を強く持たせる。不安に震える瞳が俺を見上げる。

「お前が諦めたら俺は何もできない。でも、お前が諦めなければ俺は戦える」

「でもヴァル君が手も足も出ないんじゃ、もう……」

「ああ。確かにこのままじゃな」

 俺は、不敵な笑みを浮かべていることにエリカが困惑した表情をする。

「やつはシフトを操作し、自身のシフトを上げた。俺はそこに勝機を見た」

「勝機?」

「神界じゃ勝ち目なんざ微塵もなかったが、ここに来て、初めてそれに手が届きそうなんだ。笑わずにはいられねぇさ」

「ちょっと。ちゃんと説明してよ」

 一人納得している俺に憮然とするエリカ。ごもっともで。

「そうだな……まず、やつがどういう特性の魔属か説明する必要があるな」

 外の戦闘の様子を伺いながら、俺はキュルグレインという悪魔について語る。

「魔神ってのは例外なく固有の能力を持ってる。奴の特異性は、他者の肉体を自身に取り込む事。そして一度取り込み、宿した魔属は自由に再生して使役できることだ。『人形王』の名前の由来でもある」

 伝え聞いた話では、奴は最初から魔神ではなかったという。その特殊な能力で次々に魔属を取り込むことで力を付け、やがて魔神すらも食らうことで魔神級へと昇華するほどの格を備えたのだ。

「召喚しているわけでもないのに魔属がいっぱい出てきたり、身体の形が変わったりしたのはそういう訳だったのね……わかった!じゃあ、その取り込んだ魔属を全部倒していけば――!」

「理屈の上では可能だが、現実的に難しい。奴の保有する魔属はほぼ無限と考えていい」

「む、無限って、ちょっと待ってよ。確かに身体は大きいけど。そんなたくさんの魔属を詰め込んでいるわけじゃないでしょ!?」

 否定するエリカだが、別に誇張表現をしているわけじゃない。いたって現実の話だ。

「奴は体内の奥深くに"次元外界"を有してる。取り込んだ魔属はその奥に収められ、奴と繋がっているんだ」

「"次元外界"って、確かヴァル君の『どこでも物騒ドア』のあれとおんなじやつ?」

「『敗者の器』だ!そんな呼び方してやがったのかよテメェ」

 こんな時でも素でとぼけたこと言うエリカに肩を落としながらも、同時に安堵を覚える。こんなくだらないやり取り、久しくしていない気がした。

「世界の境界の外側、他次元、時空の彼方、はたまた術者の内面世界……説は色々あるけど、異空間にアクセスする魔法だったわね。理論だけは存在するけど、現実的に今の魔法技術では不可能とされているわ」

「そのへんの細かい理屈は俺にもわからんが、とにかく奴の肉体にそれがある。だから人形の貯蔵に底はないと思え」

 どれだけ高い魔法をぶつけても、やつ自身を殺せないのはそのためだ。

 幾千幾万の人形を潰そうとも、無尽蔵の肉の奥にいる奴の魂には至らない。

「ならやっぱり、そんな相手を倒すなんて不可能だわ……」

 エリカの絶望は誰よりもよくわかる。

 俺が幾千年のも間、奴を殺すことだけ考え、しかし何一つ希望を見いだせず、ひたすら逃げることしかできなかったのだから。

「いちいち落ち込むな。むしろここからはお前の領分の話だ」

 俺は期待を込めた口調で、勇気づけるように言う。

「私の、領分……?」

「奴は無理やりこの世界に押し入ったわけじゃない。外道な手段だが、ちゃんと召喚術式に則り、契約を交わしてこの世界に召喚されたんだ」

「……?それはそうでしょう?」

 ピンときていない様子なので、もう少しヒントを出してやる。

「肉体を持たない俺たち魔属は、どうやってこの世界に現体している?」

「それはもちろん、私たちの魔力を使って肉体という憑代を作り、魂を定着させているわ」

「じゃあ奴は誰の魔力で現体してる?」

「それは……っ!」と、言葉半ばで違和感に気付いて考え込む。

「確かに変だわ。召喚者であるお師匠がいないのに。結界の魔力……は違うわね。あれは召喚術式とその後の肉体構成の初期コストを賄っているだけだから。もしかすると魔神級になれば憑代くらいは自前の魔力でなんとかなるのかしら?」

「それはない。それじゃ順序があべこべだ。盟約者ってのは召喚者の魔力で憑代を維持し続けなければ生きられない。つまり――」

「師匠はまだ生きて、どこかにいるってこと?」

 後を引き継ぐエリカの言葉に俺は頷く。

「ベルゼルは間違いなく、奴の内部に取り込まれている」

「取り込まれた?」

 さっき奴は、エリカに対して確かに言った。

『貴様取り込んで我が隷下に』と。

 奴とて召喚のルールは知っているはず。

 召喚者と盟約者は、一蓮托生。召喚者が死ねば、盟約者も肉体を維持できず消滅することを。

 だからやつは、ベルゼルを肉体の内側に取り込んだのだ。

「命を奪うことなく、取り込む過程で自身の一部と融合させ、間接的に召喚者の権限を得たんだ」

「なるほど。魔力命脈ラインさえ無事なら、お師匠を操って自らシフトを上げることもできる。理屈の上では不可能じゃないわ」

 悪魔なら人間の召喚者などどうとでもできるのは奴もまた然り。

「奴は偉そうに嘯いたが、世界の理は誰にも変えられない。憑代なくしてこの世界には存在できないのは、魔神だろうと同じだ」

「仕組みはわかったけど……結局それはどうしようもないってことじゃないの?お師匠は魔神の次元外界にいるわけでしょ?」

「いや、その仮説が正しければ、勝機は十分ある――俺が奴の身体に取り付いてベルゼルを引きずり出す」

 俺は確信を持った強い口調でそう告げる。しかしエリカは「それは不可能よ」と、首を振って否定した。

「魔法としての次元外界の概念は私にも知ってるわ。次元外界へのアクセスは自分の魂を鍵とするから、他者が干渉することはできないのよ。例えどれだけ魔力が高くても、魔術に長けていても」

「さすが魔法オタク。模範的な解答だ。でも、事コレに関して俺だけは例外なんだよ」

「……単に自信過剰って訳じゃないのね?」

 さすがは我が主。俺が無根拠ではないことを理解し、大人しく先を促す。

「俺は取り込まれた悪魔の複製体じゃなく、奴の魂の断片を埋め込まれた新造の悪魔だ」

「新造……?」

 キュルグレインから生み出された複製魔属は基本的に意思を持たない、まさに人形に等しい。指令に忠実に動くが、それだけだ。

 対して俺のような新造悪魔は複雑な思考をし、自律的に判断して動くことができる。

 作られる理由は目的によって様々だ。人形にはできない複雑な事をさせるため、面倒事を代わりにさせるため、退屈しのぎの余興のため、ただの気まぐれ。

「新造悪魔自体は珍しくないが、結局用が済めば肉体に還る。だが俺はその前に自我が芽生えたイレギュラーだ。聞いた話じゃ、そういうイレギュラーはごく稀に生まれるらしい。もっとも、最終的には皆、奴に回収されちまったらしいがな」

 だから俺は奴の手の届かぬところまで逃げ続けた。世界の境界を超えてまで。

 それでも尚、こうして奴は俺の前に現れた。

 どうあっても対峙しなくてはならない運命なのかもしれない。

「俺の魂は奴の魂の一部。つまり、俺のアイツと魂は、本質的には同一なんだ」

「なるほど。だから唯一無二の次元外界の扉も、魂という合鍵を持つヴァル君なら開けられるっていうわけね?」

「ま、だからといって奴の中の悪魔を使役するなんてのはできないがな。むしろ下手を打てば、俺自身がやつに取り込まれかねない」

「ちょっと待って。それって危険なんじゃないの!?」

「正直、結構綱渡りだ。俺一人じゃ、ベルゼル一人を引きずり出すので精一杯だろうな。だから、とどめはお前が刺してくれ」

「わ、私が!?」

「ああ。お前のなら――」

 言いかけ、外から一際大きな音が聞こえ、俺はとっさに外を覗く。

「アリッサ!」

 メリッサが、音を立てて崩れる建物に向かって叫んでいた。どうやらアリッサがやられたようだ。

 注意が向いている隙にキュルグレインはメリッサへと拳を振り下ろす。

 紙一重、地を滑るようにして回避するも、地面を穿った拳は直後、一瞬にして長大な魔獣の尾へと形を変えて追撃してくる。

 さながら巨大な鞭よろしく撓り、石畳を捲りあげながら高速で迫る尾を、片翼を羽ばたかせ、飛翔して躱すメリッサ。

 そして気付く。

 尾の軌道上にオリンの姿があることを。

 避けることも防御魔法も間に合わない。

 メリッサにできたことは主の元へ文字通り飛んで行き、その身を力任せにぶん投げることだけだった。

 遠のくオリンの呼び声が耳に届くよりも早く、大質量の一撃がメリッサの全身を襲う。一瞬で広場の反対まで吹っ飛んでいくメリッサの身体は、何度もバウンドした末に瓦礫の山に激突してようやく止まる。

 全身の骨が粉砕され、手足は捻じれ曲がり、血反吐でドレスを真っ赤に汚す無惨な有様。もはやピクリとも動かず、起き上がる気配も無い。

 もう広場に動く人間は数えるほどしか見当たらない。どうやら残された時間はあまり無いようだ。

「これ以上説明してる時間は無さそうだ……これだけは言っておかなくちゃならない」

 それは作戦の成否以上に、重要なこと。

 いつになく真剣な表情で問いかける。

「この方法でやつを倒せても、ベルゼルは生きて戻ってはこない。それどころか、お前自身の手で師匠を殺すことになる。本当にいいか?」

 エリカは、ベルゼルに罪を償わせると言った。無論それは、ベルゼルを生きて捕まえる事が前提だった。

 それだけではない。

 やつを逮捕できれば、全ての真相を白日の下に晒すことができる。そうすれば冤罪を証明し、疑いを晴らせる望みもあった。

 その僅かな可能性が、完全に潰えるのだ。

「お前がどんな選択をしようと、俺は一切責めない」

 俺は努めて穏やかにそう前置きする。

「今は逃げて、機会を待ってもいい。一年でも、十年でも。いや……そもそも俺はお前が戦う必要すらないと思ってる。お前には非も責任も、微塵もないんだ。全て放り投げて逃げたいなら、俺が全力でここから脱出させてやる」

「嫌よ」

 毅然とした表情できっぱりと否定するエリカ。

「あれを放っておけばそれだけ、多くの人が犠牲になる。そんなの、見過ごすことはできないわ」

「だからって、別にお前じゃなくたっていい。軍人や魔導師どもにやらせればいい。お前には関係ないだろ」

 そう言っても、首を横振って否定するだけだった。

 わかってる。こいつがそんな選択ができるような人間じゃないと。

「こんな事態を招いてしまった原因は間違いなく師匠にある。でも、もしあの夜に港で私が師匠を止められていたならこんなことにはならなかった。私がもっと早く師匠の思惑に気付いていたら。あの日、二〇人の命を犠牲にすることもなかった。だからこれは、私がやらなければならないことなのよ」

 芯の通った、明瞭な口調。だが、視線を落とすとスカートの裾をぎゅっと握る拳が小刻みに震えているのが見えた。

 本当に、なんて不器用なやつなんだ。

 なんでこんな奴が俺の召喚者なんだ。

 なんでこいつが、こんな辛い決断をしなきゃならないんだ。

 こいつはこんなか弱い、ただの小娘だってのに。

 その時、すぐ隣の建物から爆発がした。どうやら誰かが放った魔法が外れたみたいだ。

 反射的に俺はエリカの身を抱き寄せ、身を挺して庇う。

 直後、爆風と粉塵、瓦礫の嵐をやり過ごし目を開けると、眼鏡越しの見上げる眼差しと目が合う。

 気高さと覚悟と、その奥にある不安に揺れる瞳があった。

 気付けば、いつかのようにエリカの頭をそっと抱き寄せていた。そして安心させるように優しく語り掛けた。

「どうしてこう厳しい苦難ばかりを強いられるんだろうな。お前自身は何も悪くないのに、この世界はさらに苦難を強いてきやがる。もし運命の神なんてやつが存在するなら、俺が行ってぶち殺してやるところだ」

「……そう言ってくれるヴァル君がいるから、ここまでやってこれたんだよ。一人じゃ、きっとどこかで折れてた」

 こんな状況なのに、エリカはそう言って微笑んだ。

 ――俺は、エリカの罪の具現だ。

 俺の存在がこいつを苦しめているんじゃないかと思うことが何度もあった。

 でも、俺が召喚されたことにも意味があった。

 そう思わせてくれる笑みだった。

「もう、終わらせよう。お前と俺のこの旅を。そしてこの不条理の連続にケリをつけるんだ」

 力強く頷くエリカ。手から震えは消えていた。

 俺たちは意を決し、足を踏み出す。


 *


 ついに動くものがなくなり、広場は静寂に包まれる。

 満足そうに笑みを浮かべるキュルグレインと、攻撃対象がいなくなりただ呆然と佇む複製魔属共。

 その視線が、広場に入ってくるもの――俺へと一斉に向けられる。

「ほう?まだおったのか。てっきり巻き込まれたか、どさくさに尻尾を巻いて逃げたかと思っていたぞ」

「俺が?馬鹿言うな。お前の人形はあの程度で消えたり、ビビって逃げるような可愛いもんじゃないだろ?」

「それも道理。で?どうするつもりだ?気が変わって我が肉体に戻りにでもきたか?」

 尋ねるキュルグレインを無視して俺は一瞬の間を置き、言葉を口にする。

「一応念のため聞いておくが、大人しく神界に帰る気はないか?」

 この馬鹿げた問いは俺が聞きたいのではない。エリカがどうしても確かめておきたいことらしい。

 どれだけ残虐非道な魔神であろうと、呼び出したのはこちら側の人間であり、キュルグレインが無理矢理攻め入ったわけではない。

 大人しく帰ってくれるなら、無用な争いはしたくない。とのことだ。

 なんとも甘ちゃんのエリカらしい。

 そんな優しさが通じる相手じゃないことは、この俺が一番理解している。

「愚問だな。この世界は余を呼んだのだ。これすなわち、この世界は余という王を欲しているのだ。ならば一人残らず取り込み、配下にするのは王の勤めよ」

 案の定、返ってきたのは不遜と傲慢に満ち溢れた、暴君の言葉だった。予想通りすぎて、ため息すら溢れる。

 こいつが執着することは一つ。自身の人形を、己の肉を増やすことだけ。

 たったそれだけのために、一つの世界を根絶やしにすることを厭わない、むしろ当然のこととすら思っている。

「貴様こそ、我が元に戻る気は無いか?今は気分がいい。先の非礼、水に流してもよいぞ」

「だから、そんな気は微塵もねぇってさっきから言ってるだろ。もうボケたか?」

「貴様は知らぬから強く出れるのだ。貴様のような人形たちの末路を」

 欠陥人形たち――すなわち、奴から産み落とされながら自我を持つに至った新造悪魔のことか。

「袂を離れた者は皆、そうやって抗う。最初は威勢はいいが、身の程をわきまえない痴れ者の最後は見るに耐えないぞ。圧倒的な力の前にねじ伏せられ、屈し、嬲られ、辱められ、食い尽くされる様は」

 その光景を思い出して薄ら笑いを浮かべているキュルグレインに、俺は言い知れぬ怒りがこみ上げてくる。

「そいつらは助けを乞ったか?膝をつき、許しを求めたか?」

「いいや。最初に声を封じたから、言いたくても言えんかっただろう」

 くっくっくと可笑しそうに笑うキュルグレイン。

 だが、俺にはわかる。けっして屈してなどいない。顔も見たことのない奴らだが、最後までキュルグレインに抗おうとしたはずだ。

「なら俺も同じだ。死の瞬間までお前に抗う。ま、今回だけはお前の思い通りにはならないがな」

「そうか。ならば……」

 奴の目が爛と輝く。主に呼応するように周囲の悪魔たちも構える。キュルグレインの額からは再びあの水晶体――鉱体魔属『ビジュ』が現れていた。

「灰燼に帰すがいい」

 瞬間、青白い光線が放たれる。

 空を灼いて迫る光線は直撃の瞬間、衝撃と閃光を放つ。衝撃の余波で土煙が舞い上がり、両者の間に立ち込めた。

 先程とは明らかに異なる手応えにキュルグレインは眉をひそめた。先程に比べ、周囲への被害はまるで皆無だ。

 粉塵が晴れた時、奴が最初に目にしたのは、再生した左腕を突き出して掌を翳した俺の姿だ。

「今の俺はエンドシフトだ。その程度で俺を消せると思うなよ?」

 掌から細かな粒子が流れ、宙に溶けるように消えていく。

 光線を受け止めたのは防御魔法の『忌祓いみばらえ』。あいにくエリカに付加したような全自動防御はじっくり腰を据えて施す類の代物であり、戦闘の最中での行使は不可能。だが、機能を限定させればこうして瞬間的な盾として利用できる。

「ははっ!さすがは我が肉。その意気やよし。だが忘れたか?貴様は攻撃の手を持たぬではないか。自棄になって気が狂ったか?」

 奴の言うとおり、確かに今のままじゃ何も変わらない。これじゃ奴の配下の悪魔すら葬る事はできない。

 今のままじゃ、な。

「それとも道化にでもなって取り入るつもりか?ならもっと余を愉しませてみよ」

 嗜虐に表情を喜悦に歪めるキュルグレインを睨みながら、正面に開いた『敗者の器』に手を突っ込む。

 欲するものは唯一つ。

 俺の真の得物。

 "それ"に指先が触れ、伝わってくるその感触に思わず笑みを浮かべる。

 握れば鉄のように冷めているのに滾る血潮のように熱い。失っていた体の一部が戻ったような感覚に、自然と目を細めた。

(懐かしいな……)

 この世界に来てからは一度も触れていなかった。当然だ。召喚以来エンドシフトは初であり、こいつはエンドシフトでのみ取り出すことが可能になる。

「待たせたな、相棒。久しぶりの獲物は、大物だぞ」

 呼びかけにに応え、得物は激しく脈動する。

 喜んでいる。

 久方ぶりの戦いの場に、歓喜に震えていた。

 満を持して、静かに、厳かに取り出す。

 姿を見せたその槍鉾ハルバードを目にしたキュルグレインは、軽く眉を吊り上げた。

 一ミリの歪みも無い真の直線の柄。先端には鋭利に研ぎ澄まされた穂先。そこから翼のように広がる厚手の刃を左右に備える。武器でありながら美術品のような洗練されたシルエット。

 しかし、表面は全てを呑み込む深淵のような深い黒一色。その上を血管のような真紅のラインが血管のように走り、脈動している。

「良い武器だ。相当な業物であると一目でわかるぞ」

「へぇ。お前にも見る目ぐらいはあるんだな。肉以外には興味ないと思ってた」

「王ともなると目も肥えてくるというものよ。よかろう。その得物、余への献上品として肉体共々貰い受けてやろう」

 言いながら腕を、文字通り伸ばす。その先の指先が触れようとした。

 俺の腕が霞む。生じた突風が、わずかに前髪を揺らした。

 それだけで、キュルグレインの伸ばしかけた腕が静止する。

 訝しむ奴の目の前で、ずずっ……とその腕が斜めにずれていく。

 そして奴の腕から分離し、巨大な二の腕が音を立てて地に落ちる。まるで忘れていたかのように遅れて血飛沫が盛大に吹き出た。

 キュルグレインは斬り飛ばされた腕を持ち上げ、断面を不可解なものを見る目で見つめた。

 無論、こいつにすれば大した傷ではない。痛みなど感じてもいないだろう。

 だが、それを成したのが俺だという事実が、奴には理解できていないようだ。

「……面白いことをするな。一体どんな手品だ?」

「見てわかんないか?斬ったんだよ。俺が、お前を」

「戯言を抜かすな。魔属の理はこの世界でも同じこと。うぬの如き一介の肉片が余を傷付けるなどありえない事だ」

「ありえない、ねぇ。自称王様がずいぶんと狭量なことを言うじゃねぇか。まぁいい。特別に教えてやる」

 小馬鹿にした口調で言い、肩に担いだ槍鉾を指差す。

「こいつはな、元々ある高位天使のものだ。その天使とは大昔から因縁があってな。何度となく戦って、まぁ色々あった末に死んじまったから、俺がありがたかくいただいたってわけだ」

「戯言を。天属の物品は我ら魔属にとって毒に等しい。武器として扱うなど適わぬことは明白ぞ」

 言う通り、どれだけ強力な魔属であろうとも天属の魔力には拒絶反応を起こす。

 天使は自身の魔力で武器を生成する。森での双子天使との戦闘時、メリッサの刃を素手で受け止めた俺は文字通り手を焼く羽目になった。

「当然そのままじゃ俺には持つ事もできなかったさ。だから漬け込んだんだ。俺の血に。約千年ほどな」

 一瞬の間。信じられない、いや、馬鹿げていると言った表情でキュルグレインは唖然とする。

 そもそも天属の得物を持とうなんて考える魔属などないだろうから当然の反応だ。だが、魔力構成体であるなら然るべき手順を踏めば変質させることは可能だ。

 古今東西のあらゆる術式を組み合わせ、膨大な時間を必要としたが。

「なんにしても、結果的に俺は手に入れたんだ。世界で唯一“天”と“魔”、相反する二つの属性を持ったこの『悪食あくじき』をな」

 言って、切っ先を突きつけるように掲げて見せた。

 ――来るべき時に備え、魔属の理を乗り越える手段はどうしても必要だった。

 もっとも、それは最低限の条件の一つでしかない。

 悔しい話だが、それだけでこいつを滅ぼすことは出来ない。

「なるほど。からくりはあいわかった。して、それだけで余と渡り合えるなどと、よもや本気で思ってはおるまいな?」

 言いながら魔力の波が奴を中心に小波のように大気を振るわせる。周囲の悪魔がそれに呼応して一斉に身構える。

「余は無限の軍勢を繰る王であるぞ。その全てをお前は相手にしなくてはならない。その矮小な身でどこまで持つかな?」

「愚かな王ってのはそういう思い上がりで事態を見誤り、最終的に身を滅ぼすって相場が決まってるんだ」

 そして『悪食あくじき』を構え、宣言する。

「お前はこれから、弱者と見做した相手に首を取られて死ぬんだ」

「ならば貴様も、他の肉人形と同じ末路を辿るがいい!」

 キュルグレインが吠える。すると魔属どもの群れが地を轟かせ、俺一人に向かって殺到する。

 凄みのある笑みでそいつらを睨め付けると、同属の大軍に真っ向から飛び込んでいく。

 『悪食あくじき』を手にした瞬間から、俺は摂理から解き放たれた存在となる。先程の意趣返しとばかりに、雑魚どもを次々と屠っていく。

 風よりも早く疾駆して喉笛を食い千切らんと飛びかかって来る魔獣共を、大振りで薙ぎ払う。豪風と血煙を巻き上げ、魔獣たちは四肢を散らす。

 それだけにとどまらず、その後方から迫る下級の悪魔までもが血しぶきを上げていた。

 明らかに間合いの外の、慮外の斬撃になんら抗する手立てもなく、筋骨隆々な悪魔たちが一様に身を崩して地に沈んだ。

 相棒の変わらぬ切れ味に満足していると、ふと、頭上が陰る。見上げると、鬼岩の群れが今まさに、拳を振り下ろさんとしていた。

 大質量による暴力を、俺は大きく跳躍して難なく回避。

 爆発的な跳躍力で鬼岩の頭上まで達すると空中でくるりと回転し、落下に勢いを上乗せした重い一撃を叩き付ける。

 しかし、見た目に反して俊敏な動きで片腕を持ち上げ、斬撃を受け止めて見せた。強固な体表に刃は火花を散らすだけに終わる。

「さすが魔属随一の頑丈さだな……でも生憎、相棒は歯ごたえがある方が好物でな!」

 魔力を昂らせ、裂帛の気合で腕に力を込める。その意思に答えるように悪食が打ち震え、刀身が脈動するように発光。

 ギィンッッッッッッ!

 甲高い擦過音が響くと同時に刃はガードした腕を両断し、その向こうの鬼岩の頭を真っ二つに叩き割っていた。

 崩れていく同族の屍ごと叩き潰さん勢いで、他の鬼岩どもが次々と拳を突き出してくる。

 それらを足場に、トンッ、トンッと軽やかに跳躍してやり過ごし、『悪食あくじき』を間合いの外から繰り出す。その度に首が落ち、一体、また一体と力なく崩折れる。

 『悪食あくじき』はそれ単体でも神界屈指の業物。その切れ味で数多の屈強な魔属を屠ってきた。だが、ただそれだけの得物ではない。

 この『悪食あくじき』は魔力を注ぎ込むと、それに応じて不可視の刃を形成する。それは刀身を突き抜け、飛ばすことで間合いの外の相手にまで届く。

 屈指の強固さを誇る鬼岩だろうと、悪食の前では紙同然だ。

 巨山の如き鬼岩が倒れ伏し、足元を行く魔属を群れごと押し潰してしまう。

 先程とはうって変わって大群を翻弄する俺を、キュルグレインが忌々しげに睨む。

 取るに足らない、ただの肉人形と意にも介していなかった相手に躍起になりつつある。

 そうだ。それでいい。

「……フォースシフトォ!」

 一向に埒が明かない戦闘に業を煮やしたキュルグレインはシフトをさらに上げる。それにより少なくなった悪魔の軍勢はその姿を消す。

 千載一遇のチャンスだと俺は足を踏み出し、取り付かんと一気に肉薄する。

 しかし、奴の腹から砲弾のごとく飛び出してきた影によってそれは阻まれてしまった。

 立ちはだかったのは遠い異国のつわもの――ム・ドラル人だった。

 駆ける勢いを乗せた斬撃を叩きつけるも、手にしたあの特殊な刀で弾き返されてしまう。

 八人のム・ドラル人がキュルグレインの身体から産み落とされ、即座にこちらに向かって斬り掛かってくる。

 続けざまに送り込まれる幾重もの斬撃を柄で捌き、かろうじて受け流していく。飛び散る火花越しに見るム・ドラル人に生前の理性は無かった。

 やはりベルゼル同様、キュルグレインに取り込まれていたか。

「……故郷を遠く離れた地で目的を成すためだけに戦い、命を落とした。それでもまだ、こんな風になってまで戦わされるなんてな」

 打ち合いながら語りかける。もちろん、向こうから答えが返ってくるはずもない。それでも俺は語り続ける。

「あの時、ちゃんと殺してやればベルゼルに、そしてあのクソ野郎に利用されることもなかった。ならせめて……!」

 哀悼の意と共に、悪食を繰り出す。ボッ、と空気が爆ぜる音を伴った三連撃の突きは、寸分違わず同じ数のム・ドラル人の頭部を刺し貫いた。

「せめて、人間としてお前たちを葬ってやる」

 そのまま指を滑らせ柄を短く持ち、刀を構えてにじり寄るム・ドラル人に向けて放つ。黒衣を切り裂き、腹を横一文字に掻っ捌く。それでも、内蔵に達するダメージをものともせず、強引な踏み込みからの刺突が俺の頭部目掛けて放たれる。

 首を傾げた俺の頬を刃が切り裂き、血の線を宙に描く。そうして額が着くほどの近距離で睨み合ったのも一瞬の事。至近距離から悪食を押し当てると同時に魔力を注ぎこむ。瞬間的に増大した魔力の刃が突き抜け、胴体を両断した。

 血飛沫を盛大に噴出して仰向けに倒れると、その血のカーテンを突き破り、全身を仲間の血にまみれながらさらに別のム・ドラル人が斬りかかる。

 すでに気配でそれを察知していた俺は、今度は柄を長く持ち、地面に這うような低い姿勢で刀を頭上にやり過ごすと同時に、こちらも刃を送り込む。

 低空からの斬撃は、奴の足首を刈り取る。間髪入れず、姿勢を崩したム・ドラル人の首を一撃で刎ねる。

 と、その時、背後に気配が。

 『空渡り』で唐突に現れた二人のム・ドラル人が、左右からクロスする形で蹴りを放っていた。

 悪食を振り抜いた状態だった俺は、不安定な状態から無理矢理身を屈めて蹴りをやり過ごす。しかし、上空ですれ違うはずだった足は一転、踵落としになってその軌道を垂直に変える。

「ぐっ……!」

 両手で柄を頭上に掲げ辛くも受け止めるも、思わず苦鳴を漏らす。二足分の衝撃が全身を駆け下り、踏みしめた石畳が軋み震える。

 元々人間離れした身体能力であったが、生前と比較しても尚、異常な威力。

(そういや、取り込まれた時には悪魔に憑依されてたんだったな)

 ム・ドラル人が振り下ろした足を引き戻す一瞬の間に、柄を握る腕が翻る。空気を切り裂く音と共に放たれた不可視の刃が、ム・ドラル人の顔面をマスクごと縦に割る。

 間合いの読めない斬撃を目の当たりにし、素早く後退するム・ドラル人。

 だが、遅い。

 握りを緩め射出するように放たれた矛先が、そのム・ドラル人の額を射抜いた。

 素早く引き抜きながら、油断なく視線を走らせる。

 気づけば八人いたム・ドラル人は、わずか一人となっていた。

 仲間の屍を押しのけるようにして、最後のム・ドラル人が刀を振り上げながら迫る。

 技も何もない、ただ力任せの攻撃。

 滾るような戦いを演じたあの剣技の鋭さは、今や見る影もない。

 血湧き肉躍った港での戦いの再演にはならなかった。

 キュルグレインに取り込まれた肉体は、生成される際に生前よりも数段強化される。今の奴らは人間の時とは比較にならない膂力を有している。

 だが、生前のム・ドラル人より脅威かと問われれば、答えは否だ。

 奴らの強さの真髄は鍛え抜かれた体術と高度な武器。そしてそれを操る技巧と、仲間同士の連携。なにより、内奥に秘めた目的遂行の強い意志にある。

 意思も理性も失い、キュルグレインの意のままに操られるこいつらに生前の驚異は微塵も感じられない。

 と、ム・ドラル人の周囲に、さらに無数の魔属が産み落とされる。いずれも神界で恐れられる種の魔属や悪魔ばかりだ。

「汚ぇな。次から次へと」

「たわけめ。数を揃えるのは戦の定石。いかに強力な個も、圧倒的な数の前では為す術もない」

 言い終わるよりも先に、取り囲んだ悪魔共が一斉に魔法を放つ。多種多様な、いずれも凄まじい殺傷能力を秘めた魔法が叩きつけられ、一帯は空間が抉れ、紅蓮の炎が焼き、全てを粉砕した。

 間一髪、魔力を利用した全力の跳躍で回避し、それを眼下に見る。

 そのさらに頭上より迫る影。

 とっさに首を向けると、そこには『空渡り』で上を取ったム・ドラル人の姿が!

 奴は出現と同時に空中で器用に体を捻り、強烈な回し蹴りを繰り出していた。

 肘をかかげてなんとか防御こそ間に合ったが、その衝撃で地へと叩き落されてしまう。

 背中から落ちた俺を目掛けて、大地を震わせながら魔属どもが殺到してくる。上空からはム・ドラル人が刀を突き出しながら迫る。

 どっちから対応するか逡巡するも、急激な魔力の膨張を感じ、その思考を捨てる。

 瞬時に『影渡り』を使い、横になったまま影の中に身を沈めた。

 直後、ム・ドラル人と魔属どもが一斉に爆ぜた。まるで火薬庫に火を放ったかのような爆発の連鎖は、美しい景観だった広場をただの荒れ地へと変貌させた。

 影から這い出て、離れた場所からその光景を目にしてゾッとなる。もしわずかでもあの場で応戦していれば巻き込まれていた。さすがにあの規模の爆発ではエンドシフトでも命取りになっていたはずだ。

「兵が多いとこのように色々な使い道が出来るからな」

 余裕の表情でこちらを見下すキュルグレイン。

 再び開いてしまった彼我の距離を埋め尽くすように、先程以上の数の魔属たちが瞬く間に生じる。

「そんなに離れて、先程までの威勢はどうした?余の首を取るのだろう?遠慮なく、近う寄れ」

 あれらを突破して取り付くことは容易ではない。しかも、いざとなれば一斉爆破することもできる。

 手の出しようがない状況。奴との距離は目で見るよりも遥かに遠い。

 それでも尚、俺は笑みを浮かべる。

「数千年待ったチャンスなんだ。すぐに終わらせたらつまらないだろ?もっと楽しませてもらうさ」

「まだ己の非力さが理解できぬと見えるな。であるなら、さらなる絶望を与えてやるとしよう」

 楽しげにそう言うと、奴の右肩が一際激しく蠢き、膨張する。

 ――絶望だと?笑わせるな。

 神経を研ぎ澄し、『悪食あくじき』に流し込む魔力を洗練させる。

 ずるり、と姿を現したのは骸骨のような痩せ細った体と、蜘蛛のような無数の腕が生えた不気味な外観の魔属。

 名は『ヴァヴァ』。かつて神界で恐れられていた魔神級悪魔だ。天属魔属を問わず魂を喰らい続ける事で強大な力を得るに至った正真正銘の化け物。

 ――あんなのまで取り込んでいたのか。たしかに、神界でこの状況だったなら絶望してただろう。

 かつてない純度の魔力を送り込むと、『悪食あくじき』が歓喜と期待に激しく脈動しているのが手に伝わる。

 肩からずり落ち、キュルグレインをも越える長大な身を起こすヴァヴァ。窪んだ眼孔の奥は暗く、窺うことはできない。物言わぬ代わりに、刺すような禍々しい魔力が溢れ出す。ただそこにいるだけで膝を屈しそうになるほどの本能的恐怖があった。

 ――だが、今は違う。何をどれだけ出そうとも、絶望などするものか。

 両の足で大地を強く踏みしめ、ゆっくりと、『悪食あくじき』を後ろに流すように構える。

 並み居る魔属共も動き出し、津波のごとく迫りくる。その向こうでヴァヴァは魔力を修練させ、魔法を放つ構えを見せる。

 ――それに、俺はもう、独りじゃない。

 その光景を前にしても物怖じ一つせず、笑みを深めて『悪食あくじき』を強く握り直す。俺の意思に答えるように、『悪食あくじき』の血管が激しく明滅する。

 視界を埋め尽くす暴力の渦は、すでに目前。

 ――今の俺には、希望しかない。

「いけェェェェェェェェ!」

 裂帛の気合と共に、全力で薙ぎ払う。蓄えた魔力が『悪食あくじき』の中で刃となって解放される。

 斬撃は、間合いを越えて駆け抜ける。空を裂き、疾風の如く空を走る魔力の刃は、上級の悪魔を薄紙のごとく容易く切り裂いていく。

 魔属の群れを突き進む不可視の刃を知覚したヴァヴァが、甲高い咆哮を上げる。奴ほどの格になると、ただの叫びが高位魔法となる。

 奴の全面に浮かび上がる無数の魔法陣。繰り出そうとしているのは、魔力を伴った攻撃をそのまま相手に反射する攻勢防御魔法だ。

(最高位の障壁魔法の一種を、ノータイムで繰り出しやがるとは)

 無論、悪食の刃も対象だ。当たればそのまま返され、そして俺にそれを防ぐ手立てはない。

 血煙を舞い上がらせ迫る斬撃。浮かび上がった魔法陣の文様が、他の魔法陣と結ばれていく。全てが結ばれたとき、障壁は完成する。

 障壁の完成が早いか、斬撃が達するのが早いか……!

 空を切る鋭く長い擦過音。

 妖しく明滅する閃光。

 そして、静まり返る広場。

 永遠に思える、刹那の一瞬。

 その静寂を、盛大な水音が破る。

 ヴァヴァは身体を切り裂かれ、奔騰した鮮血が完成したばかりの障壁の内側を染め上げていた。

 障壁が解けると同時に血が瀑布が如く落ちる。自らの血の池に崩れ落ちていくヴァヴァの向こうに、こちらを睨むキュルグレインと視線がぶつかる。

 ふと、キュルグレインは自身の身に違和感を覚え、視線を下ろした。

 見れば、奴の胴から胸までもがばっくりと裂けて血を流していた。

 ヴァヴァを貫通して尚、斬撃の勢いは衰えることなく、その背後のキュルグレインをも深々と切り裂いていたのだ。

 とはいえ今見えているキュルグレインの姿はただの外郭に過ぎない。血こそ流してはいるが、裂けた傷口の奥は、醜悪極まりない肉塊が無限に続いていた。

 その肉が不気味に蠢き、傷口の再生を始めている。悪食をもってしても、やはり奴に傷を負わせることは出来ない。

 無論、それは承知の上だ。

「粋がった割にはこの程度か。この調子でどこまでもつか……」

 傷口から視線を戻したキュルグレインは、しかし、俺の姿が見えないことに言葉を切った。

「間抜けめ」

 直下からの声。

 キュルグレインが気を逸した一瞬の隙に、俺は『影渡り』で一気に奴へと肉薄していた。

 見上げるほどの巨体を足場に、一気に駆け上る。そうして傷口の真上に陣取ると素早く腕を返し、『悪食あくじき』を深く突き立てる。神聖属性を持つ『悪食あくじき』という異物によって、閉じかけていた傷口の再生は強制的に阻まれる。

 そうして傷口を固定すると、その傷口に片腕を突っ込む!

 同時に、ここに来て俺は必死に保ってきた自我を緩める。

 ――奴と相対してから俺を苛み続けていた、魂に訴える命令。帰巣本能ともいえるそれはすなわち、“キュルグレインの元に還れ”という無意識下の強制。キュルグレインの特殊能力のロジックだ。

 奴から生み出された魔属には全てにこれが備わっている。生み出されたのが自我の無い魔属はもちろん、俺のように自我の目覚めた魔属でも、強い強制力を持つ。

 今まで気を強く持つことで抑えてきたその同化の意思を僅かに開放する。

(ここからが踏ん張りどころだ……)

 意識を少しでも緩めすぎれば、そのまま再び奴に取り込まれてしまう。意識を開放しながらも守るべき自我を頑なに守り続けなければならない。綱渡りのような絶妙なバランスでキュルグレインの体内に意識を伸ばす。

 すると、予期せぬ事が起き始める。

 キュルグレインは動きを止め、苦しみ、呻きだしたのだ。

 同時に、魔属たちの動きが止まった。同一の二つの魂が存在することで、指令系統にエラーが発生したらしい。

 予期していたわけではないが、これは嬉しい誤算だ。

 その隙に、最後の手順に取り掛かる。

 茫洋とした意識の中でイメージする。

 この状況の、いや全ての元凶の顔を。

 憎悪を伴うイメージが像を結ぶと、俺は五指に力を込めて肉塊を掴む。肉塊がぞわぞわと震え、蠢きはじめる感触を合図に、一気に引きずり出す!

 果たして、それは現れた。

 ベルゼル・レイマン。

 眠ったようにも見えるが、もうこの目が開く事は無い。生命機能以外を剥奪され、ただ生かされているだけにすぎない。

「貴様……まさか!」

 事ここに至ってようやく俺たちの目的が理解できたのだろう。初めて奴の顔に焦燥と狼狽の表情がはっきりと浮かび上がる。

 実に痛快だ。

 朦朧とする意識の中で、俺は我慢できず喜悦に頬を歪ませる。

「準備は整ったぞ!エリカ!」

 俺は叫ぶ。

 キュルグレインがバネ仕掛けのごとく首を跳ね上げ、目まぐるしく視線を巡らせる。

 そうして広場の奥、半壊した家屋の上にその存在を見つけた。

 我が盟約の主、エリカ・カーティス。

 俺はベルゼルを留めておくので精一杯だ。とどめはエリカにしか出来ない。

 しかし、どういうわけかエリカは眉間に深い皺を寄せたまま動く様子がまったく無かった。

「エリカ?」

「ごめん……ヴァル君。魔力の安定に時間がかかって……」

 謝るエリカの声色には生彩が欠けていた。

 なぜ?と思考を巡らせ、ある変化に今更ながら気付いて大きく舌打ちする。

 この街は今なお結界に包まれており、生きとし生けるものから生命力を吸い上げ続けている。

 その出力が、ベルゼルの時と比較にならないほど強くなっていた。

 元々俺には影響がないから、気付くことができなかった。

 恐らく、肉体の精製が追いついていないキュルグレインが、肉体構築を早めるために自ら出力を強めたのだろう。

 召喚前ならエリカ自身でも言っていたように、自らを保護するのも問題なかった。

 しかし今は、生半可な防御では意味をなさない程には強力になっている。エリカでも身を守ることに意識を割かねばならない状況だ。

 魔法で身を守りつつ高純度の魔力錬成を、しかも、エンドシフトの俺に魔力供給も同時に行いながらこなす。

 いかに魔術師として一流のエリカでも困難を極めるのは必須。

「あと少し、ほんの少しなのに……!」

 悔しさから目の端に涙を浮かべるエリカとは対象的に、状況を理解したキュルグレインの表情に余裕が戻る。

「小賢しい企みだが、詰めが甘かったようだな」

 形勢逆転とばかりに喜色を浮かべて言いながら、おもむろに両の腕を持ち上げる。

「人間の身で王に刃を向ける大罪。万死すら手ぬるい。死を懇願するほどの永遠の苦しみを与えてやろうぞ」

 そして奴はエリカへと腕を伸ばす。指先の肉が蠢き、形を無数の触手に形を変える。

(くそっ!ようやくここまで来たってのに!)

 俺は決断を迫られる。エリカを助けにここを離れれば、もう二度目はない。こちらの思惑がバレた以上、容易に取り付かせはしないはずだし、ベルゼルを肉体の奥底で強固に守るだろう。そうなれば最後、ベルゼルの身にアクセスすらできなくなる。

 それでもエリカの命には替えられない。

 作戦を、希望を捨てる覚悟を決めた――その時だった。

 流星の如き煌めきが、薄闇を切り裂いて逆しまに駆け上り、交差していく。右から来た光はキュルグレインの左腕を。左から来た光はキュルグレインの右腕を射抜いた。

 その勢いたるや、巨木の如き腕を真上まで跳ね上げさせた。

 眼前の光景に目を見開き、光の筋の方向に首を巡らせる。その視線の先には、

「してやったり、ですわ」

「ざまぁみさらせ!」

 瓦礫の上で光の弓を構える双子天使の姿があった。

 その姿に俺は思わず目を見開いていた。

 二人の背にはそれぞれもう一枚の翼が生まれていた。それは左右で対を成すものではなく、メリッサには右に、アリッサは左に。それぞれ片側に二枚の翼。

「そうか。やつら……双翼天使だったのか。どうりでただの天使にしては手強いわけだ」

 力の象徴である翼を二対持つという双翼天使。もしあの双子天使が完全な状態であれば、優に第Ⅰ級禁止魔法に相当するはずだ。それも二人セットとなれば破格の盟約だ。その奴等が第Ⅱ級なのは片方の翼を無くした事で力と神格が落ちてしまったからに他ならない。

 とはいえ、内に秘めた力は上級の悪魔さえ迂闊に手が出せないほどに強大だ。

 無論、それほどまでの力を解放するとなると、召喚者への負担も当然大きい。ふと見れば、エリカの背後の瓦礫と化した家屋の影。そこには胸を押さえ息を荒げている傷だらけのオリンの姿があった。

 身の丈以上の力を有す盟約者はあっという間に魔力を食い尽くす。こうなってはただひたすらに魔力を供給することしかできない。

「死に損ないの小蝿どもが!即刻叩き潰して――」

 叫ぶキュルグレインは、しかし、己の身に生じた違和感に言葉を切る。

 見れば、腕に突き刺さった二本の矢は消失することなく、むしろ光を一層強めながら内包した魔力を膨張させていた。

 そして、爆発。

 小さな破裂音と共に、光の帯が無数に舞い上がった。

 それらが宙を踊ったかと思ったのも一瞬。次の瞬間には奴の両腕を食い破り、次々と埋没していった。

「グガァァァァ!」

 魔神をして、思わず声を上げるほどの激痛。天属の魔力が猛毒であることは、魔神とて例外ではないようだ。

「あははは!見て見て姉さん!すっごい無様だねぇ!ウケるー!」

「ふふふ。悪魔のような汚れた輩には似合いの姿ですわ」

 磔にされた格好の魔神に、双子は侮蔑をたっぷり込めた言葉と嘲笑を浴びせる。

「天使の弓は、ただ打ち出すことだけが能じゃなくってよ。私達は魔属の肉体に反応して魔法が起動するロジックを矢に付加することができますの」

「その矢はねぇ、魔属の肉体を侵食しながら身体の自由を奪う魔法なの。もちろん天属の魔力だから、体の内側から焼かれるような感覚でしょ?」

「羽虫風情が、図に乗る――」

 すべて言い終わる前に、メリッサとアリッサが同時に眼前で腕を振り払う。

 瞬間、ぐわん!と、まるで何かに引っ張られるようにキュルグレインの両腕が勢いよく後ろに回された。さらに腰を折り、額を地面に擦り付けられる。

 無論、自分の意志ではない。内部の魔力帯が動き、動きを強制しているようだ。

 再び苦しげに唸るキュルグレインに、二人は顔を見合わせて吹き出す。

「と、このように魔属の動きを強制的に抑制できますの。これで図体ばかりの悪魔をひれ伏せさせた時の滑稽さといったら……ふふふ。思わず笑いがこみ上げてきますわ」

「あはは!悔しい?ねぇ悔しい?今の気持ち聞かせてよ!ねぇねぇ!」

 心底愉快そうに無邪気に笑う。天使の名が聞いて呆れるほどの悪辣な言葉の数々には、傍で聞いている俺までもが思わず苛立つくほどだ。このプライドの高い自称王様には憤死しかねないほどの屈辱であろう。

 そして二人は口を揃えて言い放つ。

「「ひれ伏して地面に口付けしなさい。薄汚い魔属が」」

 天属にコケにされ、キュルグレインの顔は嚇怒に歪む。そして全身から怒気を孕んだ殺気があふれ出した。

「忌々しいゴミ虫めがァァァァァ!」

 キュルグレインは渾身の力で身を起こし、宙に縫われた双腕を蠢かす。すると、ブチブチと何かが断裂する音が連続して響く。

 どうやら強引に腕を切り離し、拘束から逃れるつもりのようだ。

「チッ!往生際が悪いですわよ!」

「大人しくしろ、この木偶の坊!」

 二人はさらに弓を構え、魔法の矢を打ち込む。

 更なる魔力の消費に、もはや自力で立っているのも難しいのか、片膝を着くオリン。必死の形相で歯を食いしばり、ただただ耐える。

 大見得を切ってはいるが、奴らもかなり限界に近い。

 特に先程のメリッサの状態は明らかに重傷だった。それを動ける程度に回復させ、その上でのエンドシフトだ。

 この状況、長くは保つまい。

「オリンく――!」

「気を緩めるな!」

 身を案じ集中を乱しかけたエリカを一喝するオリン。

「僕は大丈夫。それよりも、何か策があるのでしょう?先輩は先輩の成すべきことを!」

 魔力の過剰消費に顔を青白くさせながらも、安心させるように気丈に笑みを浮かべるエリカは深く頷くと魔力の錬成に全神経を集中させる。

 そうして程なく、エリカの魔力は目標のレベルにまで達する。

 それは離れた場所からでも感じ取れる。

 清流のように清らかに、絹のように滑らかに、そしてマグマの如く熱く。

 高位天使にも引けを取らない、かつてないほどの高純度な魔力が全身から漲る。

 同時に、ブレスレッドの魔装具が起動し、瞬時に腕を覆う魔力のシルク。その表面に浮かび上がった淡く発光する文様。

 そこから厳かな動作で、弓を番える構えを取る。弓を持つ左手には円陣フロントサイト、矢を番う右手には十字型の文様リアサイト

 その間を伝う一筋の眩い光彩。

 エリカの持つ魔法の中で最高威力を誇る神聖魔法。

 神界での名を『セイクリッド・ペネレイト』。

 今のベルゼルは他の人形同様、いや、どの人形よりもキュルグレインによって肉体を強化されている。何せ奴の生命線だ。生半可な魔法や攻撃は通さないだろう。

 一撃で確実に仕留めるには、神聖魔法をおいて他にない。

 矢は発射前からすでに針のような細さにまで圧縮されている。秘められた威力はもはや計り知れない。

 かつて経験したこともないであろう、自身の劣勢にキュルグレインは声も出ない状態だった。

「だから言っただろ」

 動揺を隠せない奴の顔を見上げながら言うのは、最高に愉快だった。

「弱者と見做した相手に首を取られるって。役畜だと見下した人間にお前は滅ぼされるんだよ」

 凄まじい形相で睨むも、言い返せる余裕は今の奴には無かった。そして悔しげに喉を鳴らし、獣のような唸り声を上げると、

「認めん……断じて認めんぞ!この下等な畜生どもが!」

 大気を震わせる程の大音声で叫び、そして言った。

エンドシフト!」

 それはキュルグレインが強者の余裕をかなぐり捨てた瞬間だった。

 キュルグレインから魔力が溢れる、黒く淀んだ奴の魔力がエリカの清廉な魔力とぶつかり合い、広場に激流を作る。

「王に仇なしたこと、死して後悔するがいい!」

 そう吠えると、奴の頭部が爆ぜた。

 内側から皮膚を突き破り、露出する発光物体――それが巨大な『ビジュ』であると認識するに至り、戦慄で背筋が凍った。

 ビジュには個体差があり、大きさに比例して放出魔力も威力を増す。

 奴の額ほどの『ビジュ』でも、石畳を蒸発させ、地を深く抉るほどの威力だ。奴の頭部を覆うほどの大きさで、しかもエンドシフトの状態で放たれればどうなるか。どう楽観的に考えてもこの街、いや、この周囲一帯は跡形もなく消滅する。

 今のエリカに、これに対処する余裕はない。

 双子天使に期待を向けるも、奴らもキュルグレインを抑えるので精一杯の様子。その双子天使に魔力を供給することしかできないオリンもまた然り。

 このままでは、ノーモーションで撃てるキュルグレインの方が僅かに早い。

 何でもいい!誰でもいい!

 奇跡なんて望まない。

 ほんの少しだけ、奴の機先を制することができれば……

 そこで俺はただ一人、それを果たせる存在に思い当たる。

 しかし、果たして可能か?

 だが今はその逡巡の間ですら惜しい。やるしかない!

 そして光は同時に放たれる!―――

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