美味しい色にはワケがある
深水千世
卵色の悔悟、カツ丼
卵色と呼ばれる色があります。卵黄を模したような明るい黄色です。
私は卵料理が苦手です。食べられないことはないけれど、醤油や出汁と混ざった卵の香りには吐き気がこみあげます。オムライスはふわふわトロトロせずにきっちり焼いてほしいし、玉子とじなんてもってのほか。
その私が小学生だった頃、母親にこうねだったことがありました。
「カツ丼が食べたい」
私の卵嫌いを知る母は、怪訝な顔で何度もたずねました。
「カツ丼? あんたが? 本当にカツ丼?」
「カツ丼! カツ丼が食べたい」
そこで母は豚肉に小麦粉をはたき、卵にくぐらせ、パン粉をまぶしていきました。油でジュッと揚げる音に、私の胸も高鳴ります。
「やったぁ、カツ丼だぁ」
浮かれた私は当時習っていたピアノの練習にとりかかりました。夕食が楽しみなあまり、いつもは渋々していた練習だって苦になりません。嫌いなハノンだってなんのその。
「ご飯だよ」
母の呼びかけにいそいそと食卓へ向かった私はがっくりと膝から崩れ落ちそうになりました。
食卓に上がっていたのは立派なカツ丼でした。トンカツが卵色のヴェールをまとっていて、白いゆげがほくほく上がっています。
しかし、私の口から出たのは悲鳴にも似た声でした。
「これじゃない!」
もちろん母は「はあ?」と激怒。
「カツ丼が食べたいって言ったのはあんただよ」
「そうだけど、そうじゃない!」
そのとき私が思い描いていたものは、実は『カツ丼』ではなく『トンカツ』だったのです。その頃から卵が苦手だった私は駄々をこねて泣きじゃくりました。
「これじゃないの、卵かかってないやつ!」
「それ、トンカツじゃないの」と、当然、母は呆れ顔。
「だから何度もきいたのに」
冷めていくカツ丼を見つめ、自分の過ちに気付いた幼い私は気まずさでいっぱいでした。初めて母親に対して『申し訳ない』と感じた瞬間だったように思います。それなのに、どんなにお腹がすいていても手をつけませんでした。バツが悪いやら悲しいやら、意地っ張りなので、あとには引けなかったのです。
「食べないの? 晩御飯なしでもいいなら、かまわないけど」と、母は私の分のカツ丼まで平らげました。
こうして書いていると、恥ずかしいやら申し訳ないやらで情けなくなります。頭の中に思い描いたトンカツを上手く伝えられずに癇癪を起こした自分の幼稚さたるや。
現在、私も三歳と二歳の男の子を育てています。上の子は言葉が遅く、自分の要求を大人に伝えることが不得手です。私がいつも傍にいて彼の心を汲み取っているつもりでも、彼にとっては、きっとうまく伝えきれずにもどかしい思いをすることもあると思うのです。実際、彼を見ていると『どうしてこういう行動をとったか』がわからないままのこともあるし、あとから『ああ、だからあのとき、あの行動をしていたんだ』と腑に落ちることもあります。
たとえば、彼が何かを要求して私が却下したとします。大抵、彼は癇癪を起こしたり、泣き出します。その涙の理由は思い通りにならないことへの不満かもしれないし、頭にあることを言葉で伝えられないもどかしさや悔しさのせいかもしれない。あるいは両方なのでしょう。カツ丼を前に泣いていた私のように。
自分が急いでいたりすると、息子の要求を「ダメ!」と一喝して潰してしまうこともありました。でも、いつからか悲しげな息子の表情にカツ丼の思い出が蘇るようになりました。
彼は話せはしないけれど、大人から言われたことはきちんと理解しています。それを知っていながら私は、『どうせまだ答えられないから』と諦めて最初から理由をたずねもせず、大人の都合で踏みつけていたことに気付いたのです。
『人がむやみに怒るのは相手を従えたいからだ』と思って生きて来たはずなのに、いつの間にか自分がそういう嫌な大人になっていたことがショックでした。
息子だって私に伝えたいことがいっぱいあるはず。トンカツがカツ丼になってしまった卵色の思い出が『彼に寄り添って』と諭してくれた気がしました。私は彼と似た気持ちを知っているはずなんですから。
つくづく思うのは、トンカツを作るだけでも手間暇かかるのに更に卵でとじさせられ、挙句一口も食べなかった娘を許してくれた母はおおらかだったということです。私はかくも我儘で幸せ者だったのだと再認識するのでした。
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