第92話
(ここはさっき通った道だ。なんだ?どういうことだ?)
和人は落ち着いて考えたかったが、足を止めるわけにはいかなかった。
「英、先に行ってくれ。やっぱりちょっと足が痛い。」
和人は右足をかばうようにびっこをひきながら歩き出した。
「大丈夫か?」
英が止まって和人を見る。
和人は英の肩を押して言った。
「いいから早く!急ぐんだ!」
英はうなずき、和人に背を向けて走り出した。
和人は英の後ろ姿を見ながら、ジャケットのポケットからストップウォッチを出した。
そして間髪をいれず2つの「STOP」ボタンを押す。
液晶画面がまばゆく光り、赤い文字が浮かび上がった。
「Time must stop!」
時が止まった。
和人は眼を閉じふうっと深呼吸をした。
「まったく何なんだ・・・。何が起きたんだよ。」
その場に座り込みながら、和人は力なくつぶやいた。
「空気の壁を通ったと思ったら、いきなり倒れてしまったじゃないか。しかも英・・・、英は前の英だ、そう、千波ちゃんが事故に遭う前の。ほんの1、2分前の英、だった。・・・ということは!」
和人の眼に光が戻った。
英のあの慌てよう、そして今この場所であの交差点に向けて走っているという事実。
これはもう、先ほどの再現だとしか思えない。
和人は思っていることを力強く口にした。
「ということは・・・、今、この時なら千波ちゃんがまだ事故に遭っていないってことだ!」
和人は前方の交差点めざして歩き出した。
当然ながら交差点には事故を起こした車はいない。
だが、犬が、一匹のこげ茶色の犬が飛び出してきている。
「やはりそうだ。あそこに太郎がいる。すると千波ちゃんはまだ交差点の向こうにいるはず。」
和人は急ぐ必要はなかったが、いつの間にか走り出していた。
不思議と体のけだるさは取れている。
体中の筋肉が緊張でこわばる前の体に戻ったからかもしれない。
そんなことを考えられる余裕が、今の和人にはあった。
交差点を突っ切ると、すぐに千波の姿が現れた。
左手の角に立ち並ぶ数本の木が、千波の姿をさえぎっていたのだ。
千波は交差点のほうへ走り出そうとしているところだった。
少し怒ったようにほっぺを膨らまし、口を尖らせている。
和人は立ち止り、思わずほほ笑んだ。
そして千波に近づくと、真正面から千波の顔を見つめた。
ふと、千波の目が和人の顔を見つめている・・・ような錯覚を覚えた。
胸の鼓動が高鳴った。
久しぶりに真っ赤な顔になっているのが自分でもはっきりとわかる。
自分の顔のすぐ前に千波の顔がある。
口をつきだせば千波の唇に触れるほどに近付いている。
(こんなふうにして英はいつもキスしてるんだろうか)
思わずそんなことを考えた和人の脳裏に、先ほどの英の恐怖の表情が浮かんだ。
はっとして和人は一歩下がった。
「だめだ。俺は何を考えているんだ。」
和人は首をぐるっと回し、ほっと溜息をついた。
「さてと。」
和人はそう言うともう一度千波に近づき、千波の両耳についているイヤホンをはずした。
そしてそれを地面のほうに下げる。
少し抵抗力が働いている感覚がした。
イヤホンから手を離すと、それは腰のあたりの空中で止まった。
「よし、これであの車の音が聞こえるはずだ。そしてもしイヤホンをつけなおすとしても、そのわずかの時間交差点に行くのが遅れれば、それで千波ちゃんは助かる。」
和人はもう一度千波の顔を見つめると、踵を返して歩き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます