庭の友
休店日の朝、私は着物の修繕を終えると、縁側へ出ていきました。今日「すえひろ」にいるのは丁稚だけです。旦那様は観劇に行かれ、永さんは外泊をされたのか、まだ戻らないようでした。
荻ちゃんと清ちゃんは仲良し同士ですが、私とは仲が良くありません。丁稚の寝室で、二人が
妖怪の姿が描かれた、派手な色の紙面子は、二人が揃いの柄で買って自慢にしているものでした。けれどあの二人は、私が本物の妖怪と友人になっているなんて、きっと知りもしないのでしょう。
(オメメサン 笑ッテルー)
縁側に座る私のそばに、雲の欠片が現れます。
「え、そうですか? 笑ってたかなあ」
(笑ッテタヨ! 楽シソウー)
あやかしも笑っているのでしょうか、雲の端を手足のように伸ばし、ふるふると動かします。彼らに表情は無いのだと思っていましたが、よく見ると、体の形をいつも細かに変化させています。それが、彼らの顔色とでも呼ぶべきものなのでしょう。
「あやかしさんも今、笑ってたんですね」
(アヤカシ?)
雲の動きが一瞬止まりかけた後、再び白い体をもくもくと動かします。
(アヤカシ ダッケ?)
「あれ、また同じ話になってしまいましたね」
(ウーン)
「あやかしさんは、結局、何のお化けなんですか? まさか、幽霊じゃありませんよね?」
再び雲の動きが固まり、動きが鈍くなります。これは、何か考え込んでいる仕草なのかもしれません。
(エットネ エットネ)
「うんうん」
(ユーレイ カモ?)
「えっ!」
背筋がぞくりとして、思わず後ろにのけぞります。まさか目の前のものが、成仏できない死人の魂であるなんて――彼らはこう見えて、実は恐ろしい怨念を抱え込んでいるのでしょうか?
「ゆ、ゆ、幽霊だったんですね! あの、何かしたほうがいいですか? お参りとか、お供え物とか……」
(ワーイ! ナンカ クレルノ?)
「はいっ! お酒でもお花でも、なんでも……というわけにはいきませんけど、それで安らかになれるなら、用意します」
(ソレジャ オ水ガ欲シイ!)
「お水?」
(ノド 渇イタヨー)
「はい、お安い御用ですよ!」
私は台所へ走り、
「幽霊さん、お水ですよ。はい、どうぞ!」
私は宙に浮く雲に向かって、杯を差し出します。もくもくとした雲の動きは、またさっきのように緩んで、しばし何か考えている様子を見せます。
(オ水 ココジャ 飲メナイナー)
「……あ、それもそうですね!」
私は自分のことを省みて、おかしくなってしまいました。幽霊にお供え物を直接手渡しするなんて、普通ならあり得ないことです。
「どこか、お供えする場所があるんですね? お墓とか、
(ウン! アノネ オ庭ニアルヨ)
「お庭ですって! うちの?」
(ソーダヨー)
私は杯を持ち、庭へ向かいます。また背筋が寒くなってきて、うちの庭に死体が埋められているのではないだろうかと、そんな恐ろしさが心を占めてきます。
(ココダヨ ココダヨ)
私を導くように飛んでいた幽霊が、一つの鉢の前で止まります。それは、去年に旦那さまがご近所さんから貰ってきた、
「こ、この紫陽花の下に……」
(ウン! オ水 欲シイナー)
幽霊に言われるがまま、水の入った杯を鉢のわきに添えます。幽霊は杯をじっと眺めると、私のもとへ飛んできて、大きく体を横に振ります。
(ココジャナクテ 鉢ノ中ニカケテ)
「……鉢の中に、お水をかけるんですか?」
(ウン! オ水カケテー)
「分かりました、こぼしますよ」
杯を傾け、植木鉢に水をこぼすと、幽霊は子供の笑い声のような音を立てて、体を震わせます。
この幽霊は、よほどこの紫陽花に思い入れがあるのでしょうか。これではまるで、日照りで死んだ子供の魂というよりも、水を欲する植木の心――この紫陽花の、木霊が現れたかのようです。
「……木霊?」
私の声に、雲のかけらが躍ります。
その言葉を口にするのは、巻砂を離れてから初めてのことでした。
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