白い海

 辺りは薄絹をまとったかのように、ほんのりと温かみを帯びています。また、深い霧に見舞われているかのように、白く柔らかなものたちで占められています。その世界のどこにも私の体は無く、それなのに、確かに自分がここにいることがわかります。

 私を包むものは、これまで生きてきた中で度々見てきた、帳の幻そのものです。

 しかし、いつもと違っていることがありました。それは、これまでのような恐ろしさがなく、心がとても安らかであることでした。そして、この幻を見ている私の考えが、妙にはっきりとしていて、いつまでも続いていることでした。

 私は、先程までのお店での出来事を思い返してみましたが、何かの夢だったかのように思えます。それよりも、今ここに感じているものたちが、心の全てであるようでした。このままここに、ずっといられればいい――そんな考えが浮かんできます。

 やがて私は、帳の中を、泳ぐように進んでいることに気が付きました。

 ちゃぷちゃぷという水の音を、私の喉が発しています。両の腕は、水面に小さな波を立てています。けれども私の体は、既に人の形ではありませんでした。水音が私の声となり、波が私の身となっているのです。

 私は水面の世界を、一つの澪となって進んでいました。澪というのは、船の足跡を意味する言葉です。澪の前には、それを率いる白い舟がありました。

 舟は、どこへ向かうのでしょう?


 澪は舟のあとを行った。やがて、その場所に辿り着いた。

 そこは大きな樹洞の暗がりで、一人の人間と、彼の母が向かい合っていた。人間は、澪の記憶にある一人の隠者のように、黒い長衣を着た壮年の人物だった。しかし、髪は短くかむろにして、瞳は好奇心に爛々らんらんと光っているのが、見知った隠者の風貌とは違っている。

「母様」

 人間が、彼の母に語りかける。母は長い髪の、美しい人の姿をして、人間の前に裸で佇んでいた。表情は静けさに満ち、閉じた瞳は長い睫毛を伏せている。

「母様。私は、あなたの抱えるものを愛しています。そして私は……あなた自身を愛している」

 人間は、母の顔へと手を伸ばし、頬に触れようとした。しかし、その指は空を切るように、母の白い肌をすり抜けていく。

「あなたと同じ地平に居られたら。あなたのもとに居た頃へ、戻ることができたなら。どんなに満ち足りることでしょうか……」

 人間は目を伏せ、母の影から手を離す。母はうっすらと目を開くと、寂しげな表情を浮かべる人間へと語りかけた。

「私の心を分かるのは、お前だけだ」

 そう言って、母は人間のもとへ顔を近づける。二人は身を寄せ、静かに唇を重ねる。やがて母の体は、白い霧となり散っていく。

「母様、どうか私を、あなたのもとへ連れて行ってください」

 人間が、母の影へと手を伸ばす。霧の中を両手が泳ぎ、母は悲しみの表情を見せながら消えていった。

 残された人間は、力なく両手を下ろし、その場にうなだれる。

「私はいつか、白の嵐に呑まれたい。母様の白い血に、全て融けてしまいたい……」

 人間は、苦悶の表情を浮かべ、絞り出すような声で言う。やがて、うつむいていた顔を上げ、樹洞の入口に舟のあることを知った。

「そうか……ここは、私の魂の夢だったのか」

 人間は舟に乗り込むと、かいを手に取り、ゆっくりと漕ぎ出した。澪はその後ろにつき、進みゆく舟を追う。

「なんて静かな海だろう。波のひとつもない、風も聞こえない」

 人間が水面を見渡す。白いくうに白い水、辺りは純白に覆われていて、さっき発ったばかりの暗い樹洞も、すでに白の中へと消え入っていた。

 澪は、舟を漕ぐ彼が振り向いた時、その顔貌を見ようとした。しかし、彼の眼差しの辺りには、どうやっても目を合わせることができない。

 澪は不思議に思う。それと同時に、いつか感じていた得体の知れぬ恐怖を、少しずつ思い出している。自分の作る細波、小さなあぶくたちが、不気味にさざめき始めるのを感じる。

「皮肉なものだ。私の心はずっと、時化しけの海のように乱れているというのに……波ひとつ立たぬ海の名を、授かってしまっているのだから」

 ふと、人間が舟を漕ぐ手を止めた。そして後ろを振り返ると、己が水面に作った、一筋の足跡を見た。

「ああ……私は、船のあとを追う波のように、静かで強かな魂に生まれたかった。凪いだ海の水面をゆき、顧みることなく泳ぎ続ける――水尾みおのような魂に」



 かしゃん、という乾いた音で、私は目を覚ましました。

 びっくりして周りを見渡すと、そこは夕暮れどきの台所でした。流しには皿が干され、辺りには、かすかに煮炊きをした後の匂いが漂っています。

「え……?」

 いつもと変わらない台所の中を見ながら、思わず声が漏れます。

 私がさっきまで見ていたものは、今まであった帳の幻よりも、ずっと長かったようでした。それだけでなく、お店で旦那様にお説教されていたはずが、いつの間にか台所に突っ立っているのです。

 これは一体、何が起きているというのでしょうか?

「澪ぉ、いるかあ?」

 勝手口の方から、小さな声がしました。見ると、永さんが顔を出しています。

「今日は、すまなかったなあ。俺も旦那さんがおっかないもんで、その……」

 永さんは勝手口から、そろりと片手を出します。その手には、小皿に乗ったお団子がありました。

「これ、旦那さんのお客人が土産に置いていったんだ、澪にもやるよ。お前が飯抜きにされてんのがさ、ええと……見てらんねえもんだからさあ」

 永さんの話で、少しずつ頭がはっきりしてきます。どうやら私は、お説教から皆の夕飯の支度、片付けをするまで、ずっとあの幻を見ていたようなのです。飯抜きだと言われたこと、いつもの台所仕事をしたことは、それぞれ思い出せはしますが、どことなく夢の出来事のように感じられます。

 それよりも、あの白い海の世界にいた時の感触が、まだ全身の肌じゅうに貼り付いているのです。

「おいおい、ぼうっとしてどうしたよ? 腹減ってんじゃなかったのか?」

 永さんに言われて、確かに自分が空腹であることに気づきます。

「はっ、はい。いただきます、ありがとうございます」

「あんまり落ち込むなよ。じゃ、ばれるとまずいんでな!」

 永さんはそう言って、勝手口の近くの棚に小皿を置き、慌てた様子で出ていかれました。

 私はお団子を取りに行こうとして、かしゃ、という乾いた音を、再び耳にしました。それと同時に、つま先に軽い感触を覚えます。

 私の足元には、あの古い貝柄杓が落ちていました。桧扇貝が竹の柄から外れ、転がっています。

 私は貝を拾い上げ、煤を払いました。柄に挟まれていた一画に、煤けず残っていたこがね色が、貝の全体へと広がっていきます。

(モラッチャエ!)

 突然、おかしな声がしました。

「えっ、何?」

(モラッチャエッタラ モラッチャエー)

 再びおかしな声がします。ひどく近くで聞こえたようでしたが、台所には誰もいません。私は頭が変になったのかと思って、目をつむり、おでこをこんこん叩きます。

(ソノ貝ハ 君ノモノダヨ)

 声はまだ聞こえてきます。私はおでこを叩くのをやめて、目を開けました。

(ダッテ 君ノ目ノ色 ソノ貝ト オンナジダカラ!)

 私の目の前には、人の顔のような形をした、小さな雲が浮かんでいました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る