小椎の声

 澪が梗と初めて話したのは、六歳の頃だ。

 夏の終わり、襟元の汗を冷やす風の吹き始めた季節であった。子供達は学舎の庭先で、幼子の有り余る力のまま駆けたり、跳ねたりしていた。

 澪はあまり暴れるような遊びは好まなかったけれど、木登りは面白く思っていた。はじめは兄達に混じって、物見櫓ものみやぐらのままごとで登っていた。おっかなびっくり辿り着いた樹上の眺めが、狭い集落の景色を面白く見せてくれたことで、澪は木登りの楽しみを知った。

 やがて、体格の良く育った澪は、長い手足でうまく木の股を踏み、こぶを掴みして、歳上の兄達にも負けずに樹上へ登るようになった。時には、大人達が柿や枇杷びわを採るのに加勢することもあった。

 そうするうち、澪は樹木のひとつひとつに愛着をもった。木々のかたち、樹皮や葉の違っていることは、それぞれの顔立ちや目髪をもつ人間のようで、面白さと親しみが感じられた。松のうねりは肩をいからせた武人に似て、百日紅さるすべりの肌は白粉おしろいを塗った旅芸人を思わせた。

 その晩夏の日、澪は兄弟達の鬼ごっこから抜け、独りで木登りをしに行った。登るのは学舎の炊事場の裏、一本の古い小椎こじいだ。

 澪はその木に登るのが初めてだった。炊事場の小屋の裏手には井戸があって、近くには水路も造ってあり、刈れども刈れどもどくだみに覆われる場所だった。百足むかでがよく出るという噂もあって、澪はあまり近寄りたがらなかった。

 それでも彼がその場所へ行ったのは、兄弟達に臆病さをからかわれて、へそを曲げたためだった。そして小椎に登ろうと思ったのは、小屋と塀の陰を被ったその姿に、思わず哀愁を見たためであった。

――この木のような人を、見たことがある。

 小椎に登りながら、澪は考える。太い枝のひとつを選んで座ると、猿の腰掛けの固い感触が指に触れた。

――タエ爺さまだ。梅雨に亡くなって、お葬式をしたときの、あの固い肌に似てるんだ。

 澪は、学舎で馴染んだひとりの保父の、静かな葬儀を思い出した。

 まだ齢六つの彼の胸に、深い悲しみは残っていない。思い出すのは非日常の体感だった。棺の中の青ざめた体、花を焦がしたような線香の匂い、島の役員達の聞き慣れぬ挨拶。理法りほうという教えのものだという異国の詩を、独り墓前で唄い続ける大人。

――あの詩を唄っていたのが、みんなの言う「木守さま」だったっけ。

――でも、爺様達には「梗」って名前で呼ばれてる。

――ちょっと、変わった名前だ。紅国こうこく鐵国てっこくの昔話に出てきそうな……。

「澪!」

 大声に呼ばれて、澪は思考を中断した。

「澪、降りなさい! その枝は折れる!」

 張りのある声を響かせて、炊事場の小屋の向こうから駆けてくる大人がいた。古風な長い着物と引詰ひっつめの黒髪に、澪は覚えがあった。

 木守さまだ、と澪が思ったとき、彼の天地は逆さまになった。不思議に思う間もなく尻から背中が地に打たれ、咳と悲鳴の混じった声が出る。

 駆けつけた大人――梗は息をのみ、草むらでうめく澪を抱き起こした。大丈夫か、と呼びかける梗の声は、やがて幼い泣き声にかき消された。

 澪の座っていた小椎の枝は、根元から折れていた。


 澪が木から落ち、大きな声で泣いたことで、学舎はいっとき騒がしくなった。しかし、座っていた枝がそう高くなく、澪に大きな怪我がなかったことが分かると、駆けつけた大人達は笑って彼の背中を撫でた。

「澪や、大ごとにならなくて良かったなあ!」

「まあしかし、こんなにこの木の腐れていたとはね。澪も不運だねえ」

 まだ半べその澪の周りで、保父達が小椎の木を見ながら話している。

「澪があんまり木登りばかりするもんだから、きっと木霊も怒ったのさ。そうだろう、梗」

 年輩の保父に話を振られた梗は、俯いたままで返事をしない。深い眼窩がんか双眸そうぼう、乾いた大地のような色の眼差しは、保父も澪も木も映すことはなく、静かに宙を見据えている。

 年輩の保父はしばらく返事を待ったが、やがて短く溜息をついた。

「……ふむ、はいつもの考え事か。どうりでさっきの会合でも、始終だんまりなわけだ」

 保父達と梗の間に厳しい心が通っているのを、澪は幼心に恐ろしく思った。止まりかけていた涙が、再びわけもなく流れ出しそうになる。

「さあ、みんな戻ろう! 澪ももう弟の多い歳になったんだから、あまりべそをかくんじゃないよ」

 保父の言葉に、澪はれた声で返事をした。去っていく保父達を見送りながら、涙と鼻水に濡れた顔を拭く。

――木守さまは、あの枝が折れることを知っていた。私にそれを知らせて、助けようとしてくれたんだ。

――でも、私がぼんやりしていたせいで、あんなに大きな枝を折ってしまった。小椎の木にはひどいことをした。

 梗はその場に残ったままで、変わらず宙を見ていた。澪は梗の、未だ動かぬ横顔を覗き見る。木守とは、木の精霊の通詞つうじを務める祈り手なのだと、学舎の教師が言っていたのを思い出す。

――今、木守さまは、木霊とお話しているのだろうか。

 そう考えていると、梗が澪に向き直った。

 梗の眼窩には影が落ち、その中で砂色の瞳だけが光をはらんでいる。そこに澪の伺い知れる心はない。向き合えど情動を交わせぬ眼差しに、澪は畏怖の念を覚えた。

「あの……木守さま、さっきはありがとうございました。それから、枝を折ってしまってごめんなさい。この木の木霊には、申し訳ないことをしました」

 澪はついさっき聞いた、張りあげられた梗の声を思い出して、怒られるのだろうかと肩をすくめた。

 しかし、梗から返ってきたのは、存外穏やかな声色だった。

「木霊に呼ばれて駆けつけたが、間に合わずにすまない。これからあのような古い木に登る時は、きのこのつき方に注意してみなさい。あまり多いと、中が朽ちていることがある」

 澪は少し拍子抜けしたけれど、梗の瞳に暖かい色が灯ったような気がして、胸をなで下ろした。

「分かりました、気をつけます。……小椎の木霊さん、ごめんなさい」

 澪は、枝を一つ失った小椎の老木に手を合わせ、目をつむる。その様子を、梗は隣で見つめている。

 辺りには、晩夏の涼しい風が吹いていた。風はどくだみの青々とした香りを混ぜ込み、澪と梗の首元を撫でていく。

「……木守さま。木霊は今、ここにいますか」

「ああ」

 小椎の木に手を合わせる澪の隣で、梗もまた木の方を向く。静かな眼差しで、彼だけの知る世界を見つめる。

 ふいに、青い香りの風が吹き止んだ。午後の陽の暖かさが、二人の肩に降り注ぐ。

「木守さま、木霊は何と言っていますか」

「……私は怒ってなどいない、触れてくれて嬉しかった、と」

 澪は、目を瞑ったまま微笑んだ。隣の祈り手も同じ表情であることは、見なくとも分かっていた。

 澪の瞼の裏、暖かい色の暗闇の中に、穏やかな笑みが浮かんでいた。

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