夜の終わりに

 瞬間、時が止まった。そう錯覚するほどの静寂が室内を満たした。


「何を……、何を仰っているのですか」


 口火を切ったのはキャンディのレディス・メイド。彼女がエミリと呼んで頼りにしていた女性はしかし、今は主人から遠く離れた壁際に立っている。まるで……まるで、自分は無関係だとでもいうみたいに。

 メイドなら主人の身を案じるべきではなかろうか。そんな疑念を抱いてしまったのは、間違いなくリチャードの一言が切欠であった。


「あなたは最初からこうなることを予想していた、……いや、正確に言うなら望んでいたのでは?錯乱したキャンディ嬢が、他人を害するというこの状況を」


 リチャードは淡々と言葉を続ける。とても、冷ややかな目で。そんな顔をする彼を見るのは初めてだったから、メイベルには口を挟む余地などなかった。

 けれどエミリは怯まない。むしろ険しい顔で、挑むような目つきで、リチャードを見返す。


「なぜわたくしがそんな真似を?キャンディ様はわたくしの大切な主筋の方です。守りこそすれ、陥れようなどと……あり得ません」


「ですからその前提がそもそも間違っているのではないか、と私は言っているのです。あなたは最初から……、キャンディ嬢と出会う前から、こうするつもりだったのでしょう?」


「想像力豊かですわね。でも伯爵家の方が憶測で他人を非難するのは如何なものでしょう」


「……そうですね。実際、何の証拠もないのですから」


 呆然とするキャンディを抱き締め、メイベルは必死で頭を働かせた。

 ようするに、『キャンディが疑心暗鬼に陥るよう誘導していたのはエミリだった』と彼は言いたいのだろう。

 でも証拠がない。証拠がなければ誰を断じることもできない。事件は迷宮入り、未解決のまま。技術の発展していないこの世界では、科学捜査などにも期待できない。……いったいリチャードはどうするつもりなのだろう?

 メイベルがハラハラと見守るなか、リチャードはテーブルとその周りに散乱するボトルを一瞥し、眉根を寄せた。


「しかしこれほどのアルコールを彼女に摂取させたということは確かです。まともな大人のすることじゃない。薬の範疇を超えている」


「キャンディ様はお酒がないとうまく眠れないのですわ」


「それもあなたが刺激薬を投与していたせいでしょう。安定剤などと嘘をついて」


「あら、ずいぶんお詳しいのですね」


「私には優秀な従僕がおりますので」


「そうなの。失敗したわ。ネズミ退治もわたくしの仕事に入れておくべきでした」


 もう猫を被るのは諦めたらしい。それとも、始めからどうでもよかったのか。

 ……恐らくは後者であろう。それは運任せな計画と、今のすっきりした顔を見ればメイベルにも察しがついた。


「わたくしを糾弾するならご自由に。どのみち今回のことは表沙汰になりませんし、目的は殆ど達成できましたから」


「目的……?」


「そうですわ、レディ・メイベル。……ごめんなさいね。あなたに恨みはなかったのだけど、利用させてもらいました」


 思わず呟いたメイベルに、エミリはうっすらとした笑みを浮かべる。そこにあるのは喜びでも満足感でもない、空虚だけが巣食っていた。


「わたくしはただ、キャンディ様に孤立してほしかっただけ。貴族の男を選んだ女の、その娘が、貴族社会で落ちぶれていく様が見たかったの。貴族になんかならなければよかったって、そう後悔するくらいに」


「なぜそんなことを、」


「彼女の母親がわたくしの弟を捨てたからよ」


 吐き捨てる、その顔が嫌悪に歪む。


「リチャード様はもうお調べになっているのよね?」


「ああ、……ふたりはいずれ結婚する予定だった、と」


「そう、でも結局そんな未来はこなかった。レンジャー伯爵が彼女を見初めて、彼女はあっさり弟を捨てたの。農場主の妻なんかよりも、貴族の愛人になることを選んだのよ」


 彼女はキャンディを見つめる。今までとは違う、取り繕うもののない目で。少女の顔にその母親の面影を見出だして、彼女の背負った罪を詳らかにしていった。


「お陰で弟はすっかり人が変わって、酒や博打に溺れたわ。家もめちゃくちゃ、外面だけは取り繕っていたけど、家族仲は悪化の一途を辿った。……だからレンジャー家にも同じ目にあってもらいたかった」


 その情景を想像するのはひどく容易いことだった。

 農場。干し草や陽に炙られた土のにおい。カビ臭い家畜小屋、そして手入れの行き届かなくなった屋敷。室内にはアルコールの瓶が転がり、薬に溺れた男がひとり、横たわっている。

 働き手を失っただけでなく、借金の返済にまで追われる日々。母の顔はやつれ、枯れ果て、父は家庭から目を背けるようになる。──世間ではありふれた、不幸な一家のはなし。けれど少なくともメイベルは同情した。


「それは叶ったから、もういいわ。癇癪持ちの娘に、被害妄想に取りつかれた夫人、そして伯爵本人は面倒ごとを嫌って家に寄りつかない……いい気味ね」


「そんな……」


 ──それでも、彼女の言い分を認めることはできなかった。


「そんなのってないわ。だってキャンディ様には何の罪もないのに。親の罪で子どもが裁かれることなんて、あっていいはずないのに」


 それは聖書にも書かれている教え。メイベルは信心深い教徒ではなかったけれど、でもその教えは正しいことであってほしいと思う。罪を負うべきは当人だけ。他の誰にも、他人の罪は背負えない。


「……そうね、それがきっと正しい答えなんでしょうね」


 エミリは口端を持ち上げた。それは綺麗事を言うメイベルを笑うようでいて、自嘲の形にも似ていた。


「でも誰もが正しくいられるわけじゃないのよ。私みたいに弱い人間は、誰かを恨まなきゃ生きていけなかった」


「エミリさん……」


「厭な感覚だわ。……あなたを巻き込んだことだけは、失敗だったみたい」


 エミリは首を振る。そうすると纏められた髪がほつれ、一筋、額に落ちた。

 それがいやにメイベルの印象に残った。双眸に落ちた影の深さが、──虚ろな眼差しが。


「わたくしは故郷に帰ります。もう二度とあなた方の前には現れませんから、ご安心を」


「まっ……」


 引き留めようとしたのはキャンディだった。大事なレディス・メイド。と同時に、自分のことを憎んでいた人。伸ばしかけたキャンディの手は、力なく落ろされた。

 何もかもが終わってしまったことなのだと──そう理解したのはメイベルだけではなかったのだろう。


「う、うぅ……」


 幕の降りた舞台の上、キャンディの啜り泣く声だけがその場に残された。

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