世界の終わり
頭が痛い、とキャンディは思った。思った、その瞬間に目が覚めた。
辺りは暗く、頼りになるのは月明かりのみ。覚束ない足で立ち上がり、キャンディは額に手をやる。
──頭が、割れるように痛い。ガンガンと金槌にでも殴られているみたいだ。できることなら頭だけ取り外してほしい、そう思ってしまうほどに。
「薬、薬は……」
この世界ではキャンディの知っている薬は存在しなかった。頭が痛む時も、熱が出た時も、処方されるのはアスピリンだけ。
それよりもお酒の方がずっとよく効きますわ──そう言ったのは、……そうだ、エミリだった。メイドのエミリ。いつも側にいてくれて、守ってくれる、絶対的な味方。まるでお母さんみたいな人。
エミリはどこだろう?うろうろと視線をさ迷わせるが、見つからない。
私ひとりを置き去りにするなんて、酷いひと!噴き上がる怒りで、足元がぐらつく。目眩までしてきた。不思議と息が上がる。
キャンディは崩れ落ちるようにしてソファに座った。目の前のテーブルには空のティーカップがひとつ。眠りに落ちる前に、エミリが淹れてくれたのを思い出す。
これを飲めば落ち着きます、とエミリは言った。そもそもどうしてそんな話になったんだっけ?どこも悪いところなんてないのに──あぁでも、何かにひどく腹を立てていた、ような、
「……っ、」
頭が痛い。痛くて、苦しくて、どうにかしたくて、ボトルを掴んで、中身をカップに流し込んだ。
ひとくち。飲むと、ぐらり、視界が揺れる。でも悪くはない感覚だった。体に灯る熱が、心地いい。何もかもが遠い世界の出来事で、私は夢を見ているんだと思った。
夢の中なら、怖いことも何もない。ホッとして、またティーカップを傾ける。やっぱりエミリは正しかった。薬よりも、お酒の方がずっと役に立つ。
カップはすぐに空になってしまった。また入れるのも面倒で、ボトルにそのまま口をつける。すると、喉の焼ける感覚があった。なんだか気持ち悪い。胃液が逆流して、酸っぱいものが喉元に込み上げる。
どうして私はひとりなんだろう、と思った。どうしてこんな暗い部屋で、ひとりぼっちで踞っているんだろう。どうして誰も助けてくれないんだろう。誰か──誰かって、だれ?
「エミリ、エミリはどこ、」
よろよろと立ち上がり、手を伸ばす。
何かに触れた、そう思った瞬間に、耳障りな音が響いた。金属音と、机上を転がる影。
鈍い光を放つそれはナイフだった。ナイフとフォーク。眠る前にはなかったはずの、それ。テーブルの上にはスープやフルーツといった軽食が置かれていた。
恐らくはエミリの手によるものだろう。目覚めた主人がお腹を空かせているだろうと思ったが故の厚意。でも今はそんなものいらなかった。プディングなんかじゃ満たされなかった。
今はただ、側にいてくれれば──それだけでよかったのに。
「……ぁっ、」
ドアのある方へ向かおうとして、テーブルの脚に躓く。そんなことにさえ感情は沸騰し、燃え立つ怒りに意識は呑まれる。
どうしてみんなして私の邪魔ばかりするのだろう!今日だって──せっかくの舞踏会なのに、嫌なことばっかり!
苛立ちと共に思い出されるのは眠る前の記憶。特に一番腹が立ったのは最初のメヌエット、そこでパートナーとなった相手が酷く癪に障る男だった。習い立ての覚束ないステップを、分かりやすく嘲笑してきたのだ。
『伯爵令嬢はとても大胆なダンスを踊られるのですね』と皮肉を言われて、思わず足を踏みつけてしまったけれど、その時の男の顔といったら傑作だった。ぶん殴らなかっただけありがたいと思ってほしい。
でもムカつくのはその男だけじゃなかった。男も女も──キャンディを見てはヒソヒソ耳打ちし合うのだ。その内容といったら──あぁ!思い出しただけで腸が煮えくり返る!
『ユリウス様とは似ても似つかないわね。顔立ちも、振る舞いも』『そりゃあ養子だからね』『夫人もおかわいそうに。今は臥せってらっしゃるとか』『わたくしだったら気が変になるわ。突然あんな娘ができたりなんかしたら』『そういった心配がないだけ幸せだわ』『それにしてもあんな一昔前のドレスを着てるなんてレンジャー卿も何をしているのかしら』『しょせん養子といったところか』『彼女を相手にしてもいい目は見られないだろうな』……どいつもこいつも好き勝手言うくせ、キャンディが睨みつけると一斉に口を噤むものだから、余計に苛立ちは募った。
そしてその苛立ちは憎しみとなって、ひとりの女へ向けられた。
「メイベル……あいつさえいなければ……」
人々が噂していたのはキャンディに関わることだけではなかった。舞踏会が始まったばかりの頃、話題の中心となったのは、レオナルドのパートナーとして現れた子爵家の娘の方だった。人々は嘲りと哀れみの混ざった目でメイベルを見ていた。
財産目当てで次期公爵に近づいた女。誰もがそう噂した。いったいどんな手を使ったのかと女たちは蔑み、男たちは下卑た眼差しを向ける。──しかしそんな中でもメイベルは表情を変えなかった。
メイベル・ロックウェルは反論のひとつも口にしなかった。口元にたたえるのは微笑のみ、綻びの欠片も見せず、舞踏会の一部を切り抜けた。その涼しげな横顔に、やがて噂するものはいなくなった。言っても無駄だと理解したのだろう。嫌みも皮肉も、彼女には効果がなかった。
だから私がやり玉に挙げられるハメになったのだ──そう、キャンディは信じて疑わない。メイベルさえいなければ──その考えに拘泥し、他のことなど目に入らなかった。酷い頭痛と重たい身体、熱っぽい思考……それらに呑まれ、キャンディは扉が開いたことにも気づかなかった。
「……お目覚めになられたのですね、キャンディ様」
「エミリ……?」
「ええ、そうです。あなたのエミリですわ」
暗くて、よくわからない。自分の肩を抱くその人を、キャンディはぼんやりと眺める。
エミリはどんな顔をしていたのだっけ。エミリは、お母さんは……
「キャンディ様、メイベル様がいらっしゃってます。お会いになりますね?」
「メイベル……メイベル・ロックウェル……」
「ええ、そう。あのメイベル様がキャンディ様にお会いしたいとのことです」
「私に……?」
「心配されているようでしたわ、キャンディ様のこと。お優しい方ですわね、メイベル様は」
「しんぱい……」
エミリの言うことが、うまく、りかいできない。
会いに来た、……誰が?『メイベル様が』心配しているのは、誰?『それも、メイベル様が』お優しい方って、誰のこと?『メイベル・ロックウェル様以外におりませんわ』──
──痛みに苛まれているキャンディの前で、エミリは、わらった。
「わたくし、勘違いをしておりました。……メイベル様は、悪い方ではありませんわ」
エミリは何を言っているのだろう?まるで……まるでメイベルの肩を持つような、そんなセリフ。
信じられなくて、信じたくなくて。キャンディは呆然としたまま、エミリの手でソファへと座らされた。
そんなキャンディを置き去りにして、エミリは部屋を出ていく。
そして入れ違いにやって来たのはメイベル・ロックウェルだった。いま一番顔を見たくない女。憎らしいその女は、偽善者の顔でキャンディに歩み寄る。
「もう起きられても平気なのですか、キャンディさま。お辛いようなら無理をなさらずとも……、やはりお邪魔だったかしら」
女が、なにか、しゃべっている。しゃべっている、らしいけど、よくわからない。
キャンディの目にとまったのは、暗がりの中できらめく銀の火花。頭が痛い。身体が重い。心臓が早鐘を打つ。思考が、まとまらない。
北極星は、掴むと、ナイフの形をしていた。
「あんたさえいなければ……」
「え?」
「エミリを……、エミリを返してよ!」
驚いた顔のその女に向けて、ナイフを突き出した。
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