最終話 どうして私は満たされないの

「行かないと、私が助けなくちゃ!」


 高校時代の記憶を取り戻し、連続殺人事件の犯人を突き止めた純であったが、その実行犯であった真澄に睡眠薬を盛られてしまい、連れ去られて姿を消してしまった。


 紫音は聞き込みを進めていき、ようやく純が監禁されているであろう場所を突き止めた。


「あれは……斉藤さんの車」


 今は使われていない、そして人通りもまばらな所にある空き家。誰かが入ったような形跡はあるものの、人の声や気配はここからでは分からない。


 辺りはもう完全に日が落ちてしまっており、目を凝らせば相手の姿が辛うじて見えるような状態だろうか。


「ここに赤石さんが……」


 門に足を踏み入れ、扉を開けようとして一瞬だけ動きが止まる。


 ここから先に進むのが怖い。覚悟はできていると言葉にしても、実際に直面するとこれ程に恐ろしいのだと思い知らされる。


「よし、行こう」


 それでも今までの自分を信じて、紫音はゆっくりと空き家の中に入っていった。




「あら、誰か来たみたいね」


 一方その空き家の中では、鉈を持っていた真澄が何かの物音に気付いた様子で外の方を見つめた。


「何……!?」


 純も驚いて俯いていた顔を上げる。こんな時に、一体誰が。


「通りがかり……ではないわね。私と純の愛を邪魔する奴は、みんな殺してやらなくちゃ」


「おい、どこへ行く気だ!」


 椅子に縛られた彼を放置し、軽い足取りでどこかへ歩き出そうとする真澄。最後に振り向いて、笑いながらこう告げた。


「ちょっと遊んであげるだけよ、結婚式に来てくれたお客さんとね」


 必死に足を動かして彼女を追いかけようとするが、きつく縛られた縄と床に張り付いた椅子がそれを許さない。


「くそっ、痛ぇ……!」


 さらに睡眠薬の影響でずっと頭の痛みが酷い、疲れもあってか時折意識が朦朧とする。


「あいつは、どこに」


 お客さんとは誰なのだろう。真澄は本当に、その人物を殺しに行ったのだろうか。


 しばらく待っても彼女が戻ってくる気配は無かった。助けも来ないまま、純はずっと椅子に縛り付けられた状態が続く。


「そうか、俺はずっとこのままなのかもな」


 外で何が起こっているのかも分からない。考える力が無くなってきた頭の中に、うっすら死という言葉が浮かんでくる。


 すると今まで感じていた恐怖が、すっと心から跡形も無く消え去った。


「しょうもない人生だったな。失くした記憶を取り戻すために探偵になって、必死に頑張った結果がこれだし」


 あいつに殺されるか、放置されて餓死するのか。手紙にはああやって書いたが、これで殺された人が本当に報われるのだろうか。


「いいや、俺はいつだって最善を尽くしたさ……」


 後悔から手を離し、諦めに身を委ねる。今目の前で起きている何もかもが嫌になって、純はゆっくりと目を閉じる。


 そのまま世界が暗転するかと思われた、その時だった、


「赤石さん、赤石さんっ!」


「み、やま……?」


 誰かの声が聞こえる。事件に巻き込むのが嫌で振り切ったはずなのに、必死に後を追ってきた大切な相棒。


 そうだ、紫音がついに自分を助けに来てくれた。


「お前、どうしてこんな所に」


 答えが来る前に彼女は純の手足を縛っていた縄を綺麗にほどいた。よろめく彼を支えながら、周りに誰か人がいないかを探る。


「逆に私があの手紙を見て、今更赤石さんのことを見捨てると思いますか?」


 話は後で聞きますから、と紫音は周囲の安全を確認して外に出ようとする。だが、純の頭には一つ疑問が残っていた。


 様子を見に行くと言い残して姿を消した、あの真澄は一体どこに行った?


「……深山、ここに来るまでに真澄の姿を見たか?」


「いいえ、この空き家には赤石さんしかいませんでしたよ」


まあ良いだろう。もし何かの事情で真澄が本当にいなくなったのなら、今こそが安全な場所に逃げるチャンスだ。


 痛む頭を必死に抑えながら、純は紫音と共に空き家を出て助けを求めようとした。


「よし、取り敢えず人通りの多い所に……」




 だが、そううまくいくはずは無かった。


「こんな時間にどこに行くのかな、純に紫音ちゃん?」


 紫音は突如として後ろから聞こえてきた声に震え上がった。強い力で肩を掴まれ、前にも後ろにも動くことができない。


「お前、わざと待ち伏せしてたのか……!」


「そうよ。本当は紫音ちゃんを呼び出して殺してやるつもりだったのに、まさかそっちから来てくれるなんてねぇ!」


 紫音を純から引き剥がし、躊躇いなく殴りつける。さらに起き上がろうとした彼女を嘲笑うように、真澄は何度も何度も蹴り続けた。


「どうしていつもいっつも私の邪魔ばっかりするのかな紫音ちゃんは……純のことを何にも知らないくせに大切な相棒だとか言って気持ち悪いったらありゃしないわ。どうせ私のことが憎たらしかったから私から純を奪って大切なものを全部横取りして私を貶めたかったんでしょ!? 大したこともできないし人付き合いも嫌いなくせに陰口だけはジメジメジメジメと。私ね、あんたみたいな人間が一番大っ嫌いよ! いいや、あんたなんて人間じゃないわこの人でなしっ!」


「やめてっ……下さい、斉藤さん!」


 苦しみながらも必死に真澄の足を掴んで叫び続ける紫音。純は咄嗟に止めようとしたが、先程よりも悪化した痛みでもう立っていることも困難になってきた。


「私がどれだけ辛かったと思ってるのよ。あんたのせいで純に近付けないしお喋りもできないし、なのにあんたは私のことをちっとも気の毒に思わずに自分のことばっかり。はぁ……」


 ふと真澄は足を止めて、紫音の襟首を掴んで強引に起き上がらせた。


 それでも彼女は必死に抵抗しようとしたが、もう片方の手に握られている大きな鉈を目にすると表情が凍り付く。


「私と純のために犠牲になりなさい、そうすれば私の愛は完璧になるわ」


「深山に、手を出すな!」


 想像していた中で最悪の光景だった。必死に起き上がる純だったが、この距離ではどう考えても間に合わない。


「よぉく見ててね純。貴方にとっての大切なパートナーは紫音ちゃんじゃない、この私よ!」


 相手の首を狙って真澄は鉈を構えた。この距離なら、どう避けようとしても一撃で殺せる。


「さようなら、探偵気取りの泥棒猫ちゃん」


「くうっ……!」


 もう無理だと目を瞑る紫音に、もう終わりだと真澄は嘲笑う。誰の邪魔も受けること無く、彼女は遂に鉈を振り下ろした。


「深山ぁぁぁっ!」




 だが、彼女の持つ鉈は紫音の首に届く寸前で静止していた。


「ぬ、ぅっ……!?」


 真澄は何が起きたのか分からないといった表情で困惑した。純でも警察の者でもない、誰かが力を込めてこちらの腕を掴んでいる。


「赤石さんが捕まったとお聞きし、最初は何が起こったのかと思って来てみれば……」


紫音は顔を上げてほっと一安心した。そして、力が抜けたようにその場に座り込む。


「御影さん、来てくれたんですね!」


「貴方までこの私の邪魔を……うっ!」


 反撃をしようとした真澄に回し蹴りをして牽制する。狙いを定められた紫音を庇うような形で、いつものメイド服を着た御影清良がそこに立っていた。


「まさか貴方が真犯人だったとは、本当にすっかり騙されましたよ」


 鋭い、怒りに満ちた目線。川田製作所と相対した時すら見せなかった激情が、物言わぬ背中を通じてこちらにも伝わってくる。


「小野市連続殺人事件実行犯、斉藤真澄。二人の探偵の想いを背負って……今ここでお前を止めてみせる!」


「お前って……言うなぁっ!」


 鉈を向ける真澄と、構えの姿勢を取る清良。先に足を踏み込んで向かってきたのは真澄の方だった。




 監禁された純を救出するために聞き込みを進めていた紫音は、現場に向かう直前に清良に連絡を入れていた。


「御影です、どうなさいましたか?」


 もしかしたら何かの用事で出ない可能性もあったが、一蔵のお見舞いの帰りだった彼女はすぐに電話に出られた。


「御影さん……赤石さんが連れ去られてしまいました!」


「何ですって、どうしてあの方が!?」


 どこから話せば良いかなんて分からなかった。それでも純を助けたいという一心で、今できる精一杯の言葉で彼女に伝える。


「赤石さんの記憶が戻ったんです。連続殺人事件の真犯人は、日岡さんを身代わりにして殺したのは斉藤さんです!」


 このままでは赤石さんが助からないかもしれない、だからお願いしますと紫音は叫んだ。


 清良も最初は戸惑った様子だったが、こちらが全てを話し終えるとすぐに車を走らせる音が聞こえてきた。


「……分かりました。私もすぐに向かいますので、無茶はしないで下さい!」


「はい……!」


 そう言い残して切れた電話をポケットに入れて、紫音も再び走り始めた。


 結局あの人の言ったことを無視して、赤石さんのために私は無茶をしてしまったけど。




「くうっ……!」


 清良に足を掬われて真澄の身体が大きくよろめいた。隙を見て繰り出した蹴りを、彼女は鉈を突き出して相殺する。


「私だって、こんな所で諦めるわけにはいかないのよ!」


 こちらが押し切ろうとしても彼女は何度も立ち上がってくる。一回、また一回と、こちらの首を狙って刃物を振り回す。


 猛烈な殺気と気迫を感じる、せめて鉈を奪って無力化することができれば。


「どうして、お前はここまで……」


「終わらない、絶対に終わらせない。私と純の愛の物語は、いつまでだって続く!」


 斬撃が清良の顔を掠め、その短い髪をほんの少しだけ切り落とした。


「そう、蒼のマーガレットはね!」


 清良は少し下がって外の方を見る。警察にも連絡は入っているだろうが、まだ彼らが来る気配は無い。


「わけの分からないことを!」


「きゃあっ!」


 それでも二人に手は出させない。どうにか真澄の懐に潜り込んだ清良は、手刀で素早く鉈を叩き落とした。


 後ろに倒れた彼女の腕を掴む。これでもう、向こうは何もできないはず。


「これで最後です」


 清良はとどめに相手を気絶させようとしたが、そこで動きがピタリと止まってしまった。




「お願い清良ちゃん、私を助けてぇ……!」


「な、何?」


 真澄が涙を流してこちらの腕をしっかりと握り締め始めたのだった。今まで刃物を振り回していたことが嘘だったように、悲しそうに表情を崩して。


「私……ひぐっ、本当はこんなことなんてしたくなかった。それでも、ううっ! みんなにいじめられてた私を純が助けてくれて、大好きって気持ちが収まらなくなっちゃってぇ!」


 一瞬戸惑っていた清良はすぐに我に返った。こんなものには騙されてはいけない、きっとこれは罠だと。


だが、どういうわけかとどめを刺すことができない。


「警察にもちゃんと行って罪を償うから、だから許して……」


 初めて会った時の彼女を思い出すと、どうしても手に力が入らなくなってしまう。きっと何か理由があるのかもしれない、ここまでの行為に至った要因が。


「言ったでしょ、清良ちゃんの力になりたいって。私は貴方のこと、好きよ。また困ったらいつでもおいで」


 あの時の言葉と優しい表情が、心に突き刺さっていつまでも離れない。


「御影さん!」


 完全に油断し、一度は警戒を緩めてしまった清良。


 だからこそ、真澄の動きを察知した純の声が聞こえてくるまで彼女は身構えることができなかった。




「本当にあんたって人は……甘過ぎて話にならないわねぇっ!」


 いつの間にか鉈を拾っていた真澄は、僅かな隙を見て清良の腹部を切り裂いていた。


「う、ああっ!」


 致命傷は何とか避けられた。だが手で押さえても出血が止まらず、鋭い痛みと熱があっという間に全身を襲う。


 それでも何とか顔を上げようとすると、真澄は既に次の一撃を加えようとしていた。


「八つ裂きにしてやるわ。こんなに可愛い私を蹴り飛ばしたあんたも、散々私の邪魔をしてきた紫音ちゃんも二人まとめて!」


「……!」


 咄嗟に首を庇って振り上げた腕に鉈が突き刺さる。右の肘から血が滴り、徐々に力で押し負けていく。


「このまま、では」


 自分が殺されてしまえば紫音や純もきっとただでは済まないだろう。額から冷汗が噴き出す、ようやくここまで犯人を追い詰めたのに。


「さあ、とっととくたばりなさいよ!」


 首元に向けて鉈が迫り、今まで感じたことの無かった死が近付いてゆく。


 そんな中……清良は今ここにはいない、置いてきてしまった大切な人のことを思い浮かべていた。




「芦屋様、お身体の具合は如何ですか?」


 清良が病室のドアを静かに開けると、幸せそうな表情を浮かべた一蔵がベッドの上で座っていた。


「ああ、お陰様で随分と楽になったよ」


「退院まではまだ少しかかりそうですが……手術を無事に終えられて良かったです」


 入院してからまだそこまでの期間は経っていなかったが、一時は心配されていた彼の容体もこの数日で快方に向かっていた。


 きっと肉体的な問題だけではなく、伊織の死ともようやくしっかりと向き合えたからだろう。


「ああ。時間をかけてでも治してみせるさ」


 自分の帰りを待ってくれている人たちのためにも、と一蔵はこちらに微笑みかけた。


「川田製作所が残した爪痕は大きいが、今だからこそ私たちが神戸を立て直すために頑張るべき所だろう」


 迷うよりもまず先に動く、失敗しても次に得られるものが必ずある。清良は一蔵の悲しんでいる表情よりも、何かに挑戦している時の勇敢な表情の方がずっと好きだった。


「そうですね。一人一人の力は小さくても……」


 そうして話し合っていると、清良の携帯に連絡が入っていたことに気付いた。相手はどういうわけなのか、赤石探偵事務所の紫音とある。


 もう少し一緒にいても良かったが、そう落ち着いていられないかもしれない。


「探偵の人からか?」


「はい。殺人事件に新たな動きがあったのか、あるいは……」


 そこまで伝えると、一蔵は特に引き留めることもせずにすぐに行くように促した。


「私は心配しなくても大丈夫だから、あの人たちの力になってあげなさい」


 自分にはまだやるべきことがある。主人と寄り添って川田製作所を止めて、そこからが本当のスタートなのだ。


 一蔵に深くお辞儀をして、清良は一歩ずつ踏みしめてその場を立ち去った。


「ありがとうございました……行ってまいります」


 彼と同じように、清良もかつて自身の在り方や将来に不安を覚えたことがあった。だが、あの人の想いを背負っているうちに段々と分かってきた。


 いつだって、自分が信じたいと思える人のためにひたすら頑張っていけば良いと。




 だから、こんな所でくたばっているわけにはいかない。


「……私だって、守りたい人がいるのです!」


 清良は増していく痛みに耐えながら、腕に突き刺さった鉈を振り払った。


「う……ぁぁっ!?」


 まさかここで持ちこたえるとは思わなかったのだろう、真澄は体勢を崩しながら驚愕の表情を浮かべた。


 自分だって不思議だからだ。全身から力が溢れ、今ならなんだってできるような感覚。


「私も紫音さんも自分以外の誰かのために戦っている。独りよがりな感情を押し付けるお前に、負けるわけが無い!」


 一蔵の笑顔に背中を押され、清良は助走と共に高く飛び上がった。


「犠牲になってしまった方たちの無念と、行きたいと願う方たちの平和のために……考え直しなさい、もう一度!」


「その命は私に使い捨てられるために、あるんじゃないのかぁぁぁ!」


 真澄も共に叫びながらこちらに向かってきた。ここで当てなければ後が無いと自分を奮い立たせて、清良は足を振り上げる。


「天地流奥義、竜虎醒遂りゅうこせいすいっ!」


 鋭かった真澄の目がほんの一瞬だけ見開かれる。血塗れになった清良が、自分を倒すために高く上に跳ぶ姿を映しながら。


 かかと落としは彼女の持つ鉈を弾き、肩に命中させて吹き飛ばした。


「きゃあああぁっ!!」




「私の積み上げてきた愛が、心が、想いが、夢がぁ……」


 こんなはずじゃなかったのに。叫び声と共に真澄は倒れ、清良は血を吐き出しながらも何とか着地した。


「大人しく警察に行って罪を償うことです、そうすれば……」


 もう抵抗する力も残っていないだろうと清良が思っていたその時、満身創痍になりながらも彼女が立ち上がった。


 思わず息を呑んでしまった、今の真澄のどこにそんな力が。


「あんたのせいよ。ああ、全部全部あんたのせいよ」


 生気の無い、まるで幽霊のような立ち上がり方。ゆらゆらとした動きで地面に落ちた鉈を拾い、ただ一心に標的を狙って走り始める。


「ひいっ……!」


「私はただ運命の人と結ばれたかっただけなのにさぁ。あんたがふざけた探偵ごっこなんてしなければ、私の周りをチョロチョロしなければ、私の邪魔さえしなければ私の愛は純への愛は……」


 最後に紫音だけでも殺さなければと、彼女は血走った目で睨んできた。


「あんたの、せいだァァァ!」


 一歩、また一歩と後ろに仰け反る。だが足が凍り付いたかのように地面から離れず、背を向けて逃げ出すことができない。


 ようやく純を助けられたのに、今度は私が……


「深山は大切な相棒だ……俺が絶対に守ってみせる!」


 すると今まで動けなかった純が最後の力を振り絞って走り出し、紫音を庇おうと両手を広げて立ち塞がった。


「ダメです、赤石さんっ!」


 真澄が立ち止まるのか、純が刺されてしまうのか。紫音が思わず目を瞑った時、ようやくそれが聞こえてきた。




 こちらに向かって走ってくる車の音と、静かな町に鳴り響くパトカーのサイレン。


「あと少し……だったのに」


 紫音が通報していいた警察がようやく現場の状況を把握し、場所を特定して純たちを助けに来たのだった。


 そして、それは長らく続いた殺人事件の終わりを示していた。


「これで終わったと思わないことね」


 紫音の方に向かっていた真澄は突然立ち止まり、空き家の裏に回り込んで亡霊のように去っていく。


「待ちなさい……ううっ!?」


 清良は逃げた彼女を咄嗟に追おうとしたが、出血と無理に動いたことによる激痛ですぐに蹲ってしまった。


「赤石君、無事か!?」


 空き家の前に停まったパトカーからは数名の警察官が出てきて、駆け寄ってくる。その中には三木遼磨や恵比寿伸也の姿もあった。


「無事じゃないですよ、ギリギリ過ぎますって……!」


「随分と待たせてしまったな、私たちが来たからにはもう大丈夫だ」


 力が抜けてその場で倒れ込んだ純を遼磨が覗き込み、手を貸してゆっくりと立たせた。


「被疑者はこちらの方で捕まえる。取り敢えず、何があったのかを聞かせてくれないか?」


 彼のその言葉で張りつめていた恐怖心が少し和らぎ、代わりにこの状況を呑み込むための冷静さがやっと戻ってきた。


「私たち、本当に助かったんですか?」


 背後で恐る恐る紫音がそう聞いてきた。純はしばらく黙り込んだ後、振り返らずに答える。


「一応何とかな。全員無傷……とはいかなかったけど」




 怪我をしている清良については素早く救急車を手配してもらい、純たちも安全な警察署で事件の説明をすることになった。


「でも純さんが無事で何よりでした。てっきり斉藤さんに殺されてしまったのかと」


 純と紫音を乗せたパトカーは夜になって車の通りが少なくなった道を走っていた。とはいえ、先程のような恐怖はもう無くなっていた。


「あのまま放置されてたら危なかっただろうな。手紙にはああやって書いてたけど、実際真澄に捕まった時は本当怖かったし……」


 だからお前が来てくれて嬉しかった、と言いかけた純はふと違和感に気付いた。


「おい待て、お前今俺のことを名前で呼ばなかったか?」


「嫌でしたか? じゃあこれからはずっと名前で呼んであげます、勝手な行動をして私を心配させた罰ですよ」


別に嫌というわけではなかったが、改めてそう言われると恥ずかしくなって目を逸らした。


「じゃあ俺も……紫音、これからもよろしくな」


 正直、純にはきっと怒られるだろうと紫音は思っていた。勝手に行動したのはこちらも同じだし、もし清良が助けに来るタイミングがずれていたらと思うと恐ろしい。


 だからこそ、彼の僅かに緩んだ表情を見るとほっと安心することができた。


「はい。これからは探偵として、隠し事とかも無しでお願いしますよ」


 何度もぶつかり合い、誤魔化し、対立してしまうことも多かった二人の探偵。だが最後は手を取り合うことによって、殺人事件の解決という一つのゴールに辿り着けた。


「ははっ、やっぱり相棒には適わねえな」


 車はもうすぐ警察署に辿り着く。純がかつて目を背けてしまった過去を語り、みんなの力でそれに打ち勝つ時だ。


「今までのゴールにありがとう、そしてこれからのスタートによろしく」




「それじゃあ話していきます。俺が小野東高校で体験した、記憶を失った時の出来事を」


 遼磨がノートを構えている。紫音に静かに見守られながら、純はほんの少し声を震わせて言葉を紡いでゆく。




 第一章 完

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