第3話 悲しみが満ちる時
「依頼をしたいのですが、大丈夫ですか?」
通り魔事件が起き、未だに不穏な空気が漂う小野の街。赤石探偵事務所に訪れたのは、一人の妊婦の女性だった。
彼女の名前は
「今はマンションに住んでいるんですけど、近々子供が産まれるので、大きめの一軒家に住もうと思ってるんです」
相手が妊婦であることを考慮し、純は麦茶を出した。
「なるほど……あっ、私は赤石純といいます」
「私は深山紫音です」
「純さんに、紫音さんですね……よろしくお願いします。」
満は麦茶を一口啜り、ほっと息をついた。
「そこで、ここに来た理由なんですけど」
「婚約指輪を落とした、ということですか?」
笑顔で聞いてきたのは、紫音だった。
「えっ……!? どうして分かったんですか?」
満だけでなく、純も目を見開いて驚いた。
「ど、どうしたお前!?」
「簡単なことです」
紫音は満の目を見つめて、こう説明した。
「佐渡さんはここに来た時、少しだけ慌てた顔をしていましたね。どちらかというと……自分の手に負えないことがあって、助けて欲しいと考えてます。例えば、落し物とかね」
紫音はそこで、満の両手に視線を落とした。
「妊娠はしておられるので、間違いなく婚約指輪はつけているはずです。なのに、佐渡さんにはそれがない。ここから考えられる結論は一つです」
紫音は右手の人差し指を一本、天井に向けて立てた。
「家で何かをしている際に、婚約指輪を落としてしまった。捜索しようと考えても、妊婦さんですので激しい動きができず、家中くまなく探すのは難しいです。だから佐渡さんは、この探偵事務所に依頼しに来たんじゃないですか?」
「凄い……全部、合ってますよ」
満はかつて自分が指輪をはめていた手を見て、彼らに笑顔を見せた。
「そうなんです。指輪を家で落としてしまったんですけど……夫は遅くまで働いているし、誰にも頼めなかったんです」
そして、頭を下げた。
「お願いします! 家に落とした指輪を、探してくれませんか!?」
「……紫音、お前も手伝うよな?」
純はその姿を見て、紫音に小声で尋ねた。
「確かに二人なら、すぐ見つかりますね。協力して依頼を解決しましょう」
紫音も、指輪の捜索に協力する旨を述べた。
「お任せ下さい! 赤石探偵事務所の探偵、赤石純が! 貴方の依頼を、確実に解決しましょう!!」
妙に勇敢な態度で、純は依頼を快諾した。
(まぁ、コイツだけじゃ確実に見つけられなさそうだし? 私も協力するしかないよね……)
紫音もくすっと笑いながら、椅子から立ち上がった。
「ここの一〇二が、私の家です」
かくして、三人は満の住むマンションまで向かった。このマンションは三階建てで部屋は四つと小さめだが、管理人がいる。
「こんにちは」
「はい、こんにちは~」
管理人は優しそうな男性で、満が挨拶をすると挨拶を返してくれた。
「おっと、失礼します」
階段からは四十過ぎくらいの男性が降りてきて、純たちの間を通って外へ出ていった。
「じゃあ、開けますね」
管理人室から満の部屋へはすぐそこだった。満がドアを開け、紫音と純は中に入った。
「片付いてますね……」
「まぁ、引越し前ですし。ちょっと前までは散らかってましたよ?」
純と満が話している中、紫音は部屋を見回した。
(粟生駅はすぐそこにあって、駅近。築浅というわけではなさそうだけど、南向きで少し広めの物件を選んでる。周りに高い建物もないし、スーパーも徒歩圏内と。引っ越すのが惜しいぐらい、ちゃんと選んでるんだなぁ……)
リビングの窓からは日が指していて、日中は照明が必要なさそうだ。夫婦でちゃんと考えた結果だろう。
婚約指輪を無くしたという依頼を受けて心配していたが、少なくとも夫婦仲は悪くないようで、紫音は安心した。
「早速婚約指輪の捜索に入りますが……具体的に、どこで落としたとかは分かりますか?」
前回の失敗から学んだようで、純はまず婚約指輪がありそうな場所を聞いた。
「お風呂に入る時に、取り込んだ洗濯物の上に置いた気がします。その後指輪に気付かずに洗濯物を片付けたんですけど、そこから……」
「なるほど。洗濯物のポケットに誤って入った可能性もありますね」
純は目の前にある、大きな木目調のタンスに目を付けた。
「洗濯物って、ここに入れてますか?」
「はい。それと、そこのクローゼットにも……」
「なるほど。確かに量が多くて、一人で見つけるのは難しそうですね」
クローゼットの方へ向かった純は、引き戸に手をかけた。
「深山、タンスは頼んだ。俺はクローゼットを探るから」
「はぁ……どうして量の多い方を私に任せるんですか?」
紫音は渋々、そして純は黙々と。衣服のポケットを探りながら、婚約指輪を探し始めた。
「あっ、見つけましたよ!」
そして指輪を見つけたのは紫音の方だった。少し赤みがかったスカートのポケットの中に、指輪が入っていた。
「何で俺じゃなくてお前が見つけるんだよ!?」
「日頃の行い、それにここの差ですよ」
「は、はぁ!?」
分かりやすく自分の頭を叩いた紫音に、純が怒りの声を上げた。
「どうぞ」
「ありがとう、紫音ちゃん」
「どういたしまして。それ、綺麗な指輪ですね」
透明で透き通った、ダイヤの指輪。デザインもシンプルかつ洗練されていて、価値の高さが伺える。
「夫が私にプレゼントしてくれた指輪なの。本当に、見つかって良かった」
満は指輪をうっとりと見つめ、人差し指につけた。
「ん?」
純はそこで、本棚に目が入った。
「そこの本棚、何かアルバムみたいなものが入ってますよ。」
「えっ? ああ、片付け忘れたのね」
引越しの準備のため本棚の中は空になっていたが、端に1つの本が残っていた。それは、アルバムのように見える。
満はそれを取り出し、テーブルに置いて広げてみた。
[新しい家族が加わった。とても嬉しいし、この子がこれからどういう人生を生きていくか、本当に楽しみ! よろしくね、満!]
赤ん坊の頃の満の、微笑ましい写真。それに、両親の姿があった。
「わぁ……!」
あの時の自分にはよく分からなかったが……子供ができた時、彼らはとても嬉しかったのだろう。
同時に、どういう人生を送っていくかドキドキしていたのかもしれない。
「父さん、母さん……私、もうすぐ子供が産まれるんだよ」
今は実家にいる両親に、満は優しくそう告げた。そして、自身の膨らんだお腹に優しく触れてそっと撫でた。
「大事な大事な私の赤ちゃん……もうすぐだから、待っててね」
お腹の中にいる赤ん坊に、それが通じたかは分からなかった。でも、きっと笑ってくれてるはずだ。
「あっ、何か暑くなってきたな……」
純は袖で汗を拭い、窓まで向かった。
「開けていいですか?」
「もちろんです」
「すいませんね。まだ真夏でもないのに、何だか蒸し暑くって。」
純は窓を開け、息を大きく吸い込んだ……
「何か、臭くないですか?」
満は困惑の表情を浮かべ、純の後を追いかけてベランダへ出た。
「確かに臭いですね。おかしいなぁ、昨日は臭くなかったのに……」
洗濯物の匂いというよりは、どちらかというと食べ物が腐ったような匂い。匂いを辿ると、真上の部屋の換気扇から漏れ出しているような気がした。
「この上って、誰か住んでます?」
「確か、横田さんって人が住んでますよ。以前までは商社に務めてましたけど、会社が倒産になってからは家にいることが多くなりましたね。そういえば最近、姿を見ませんよ」
紫音もベランダに出てきて、匂いを嗅いだ。
「腐った匂いなのは間違いないですけど、何だか嫌な予感がしますね……食べ物が傷んだ匂いにしては強過ぎます。」
紫音はベランダから部屋に戻り、少しだけ早足になった。
「管理人さんを呼んでください。上の部屋、二〇二号室が危ないかもしれません!」
「マジか!? 分かった、呼んでくる!」
紫音と満は階段から上に向かい、純は管理人を呼びに走った。
「横田さん?」
満が部屋をノックしたが、反応は無かった。紫音は扉の隙間から匂いを嗅いだ。
「匂いの元はここで間違いなさそうですね。鍵はかかってますか?」
「かかってますね」
その時、マスターキーを持った管理人が、純と共にやって来た。
「匂いは?」
「ここです。鍵はかけられてるみたいですが、腐敗臭が強いです」
今度は管理人がドアを叩いたが、またも反応は無い。
「横田さん、大丈夫ですか!? 開けますよ!」
しばらく経っても反応がなかったため、管理人は鍵を開けた。
「横田さ~ん?」
そして、腐敗臭が増した後……
男がリビングで倒れていた。血は出ていないが、肌は青白くなっていて生気がない。
さらに口から無造作に垂らされた涎が、事態の深刻さを物語っている。
「死んでる……!?」
「きゃぁぁっ!!」
満は驚いて、後ろに転びそうになった。
「佐渡さんっ!」
それを紫音が必死に支え、起き上がらせた。
「大丈夫ですか?」
「はい……」
だが、この光景は紫音にとっても衝撃的な光景だった。
右腕を斬られて殺された、あの男を見た時も同じ感覚に襲われた。不純物を口から流し込まれ、そのまま胃に到達した時のような不快感。
「私を見ないでよ! 私をこれ以上、傷つけないでっ……!!」
そして、あの時の記憶が呼び覚まされる。
「警察を呼んでください、早く!!」
「毎度、お疲れ様です」
パトカーでやって来た三木巡査部長に、純が頭を下げた。三木は純の姿を上から下まで見つめ、部屋の入口に貼られた黄色いテープを手で少し上げた。
「犯人確保!!」
「ちょっと!?」
現場を調べている警察官にそう叫ぼうとしたため、純は慌てて止めた。
「だって、本日二度目だぞ? どう考えても怪しいに決まってるだろ。」
「俺だって、好きで事件に出くわしたわけじゃないですし……下の人の依頼で、家に落とした指輪を探してたんですよ」
「ほーん……?」
遼磨は現場に戻って事件の概要を聞き、純に伝えた。
「被害者は
「ということは、自殺?」
「だろうな……」
そこに、紫音がふと尋ねた。
「すいません。気になることがあるんですけど、中に入っても良いですか?」
「はあ!?」
純は当然素っ頓狂な声を上げて、紫音を不思議そうに見た。
「お前、そんなことできるわけないだろ!? これは警察のだな……」
「お嬢ちゃん。何か、分かったことがあるのかい?」
「はい。お願いします、中を見せて下さい!」
紫音は遼磨に頭を下げて頼み込んだ。
「分かった……証拠品については、不用意に触らないようにな」
遼磨はしばらく考えた後、テープを上げて紫音を誘い入れた。
「おい、待てって!」
それを純が追いかけ、現場に入っていった。
(うぅ、近くにいるとやっぱり臭いなぁ……)
腐敗臭が強さを増し、遺体の存在を強烈に主張している。料理や飲み物がテーブルに置かれ、その横に遺書がある。
金が無く、借金を滞納しているため自殺することにした、と簡単な内容だった。これらに毒が入っており、自身で摂取して死に至ったというのが彼らの見解か。
換気扇は台所に着いていて、付けっぱなしのまま放置されているようだ。
「ちょっと、何してるんですか!?」
さらに純も入ってきたが、若い警察官に止められた。
「この人たちはここら辺で有名な探偵、赤石探偵事務所の人間だ。どうやらこの事件で、気になることがあるらしい」
遼磨が警察官に説明を加えていた。……人が全く来ないという意味で有名だとはとても言えない。
「だとしても、一般人を事件に介入させるわけにはいかないでしょう!ここは殺人事件の現場ですよ!?」
「落ち着け、恵比寿君。彼らは第一発見者だし、どの道部外者ですからと追い出すわけにはいかないだろう?」
(それに、この女の子……分かっている顔をしている。)
遼磨は紫音から何かを感じるようで、体を小刻みに震わせた。それは恐怖もあるが、高揚感も混じっているかもしれない。
「赤石君、何か分かったか?」
「密室だし、誰かが入った痕跡もない。警察の皆さんが仰る通り、これは自殺じゃないですか……」
「いえ、これは他殺です」
純の発言に割り込むような形で、紫音がそう言った。
「ほう……? どうしてそう思うんだい?」
「まず、この遺書です」
遼磨が首を傾げる中、紫音はテーブルの上の遺書を指さした。
「そこの冷蔵庫に、買い物のメモがありますよね?」
「ああ」
メモには、[ほうれんそう、鶏肉、ブロッコリー]と書かれていた。恐らく、買う予定のものをメモしていたのだろう。
「……筆跡が違います。その遺書と、そのメモ」
「何っ!?」
遼磨は驚いて、遺書とメモを見比べた。
「メモは乱雑で強めの書き方ですが、そこの遺書は、元々丁寧な書き方なのを無理矢理荒っぽい字にしている痕跡があります。つまり、書いた人は違うんですよ」
「言われてみれば、そう見えなくもないが……メモだから乱雑に書いているだけでは?」
「なら、もう1つのポイントを。台所を見て下さい」
「台所? 見たところ、何も無さそうだが。」
フライパンや食器も完全に収納されていて、換気扇が付いていること以外には何も...
「何も無いことがおかしいんですよ。」
紫音は収納を開け、フライパンや鍋を一通り確認した。
「換気扇を付けているということは、ここで料理をしている。でも、フライパンも鍋も洗って乾かした後、収納に全て入っています。包丁やその他の道具も」
その言葉に、周りの警察官も驚いて彼女を見た。正直、この視線は不愉快極まりないが。
「確かに、鍋やフライパンも乾かし終えて収納に入れているのはおかしいな。普通だったら、そのまま放置されて流しに置いているはずなのに」
「そもそも、食べ物に毒を混ぜている時点で怪しいんですよ。自殺なら、そんなややこしいことはしないはずです」
紫音はさらに、ゴミ箱のペダルを踏んだ。そこにはマスクと、細かい毛のゴミしか入っていなかった。
「使われた毒に関しても、痕跡を消されています。ここから考えられる結論は、恐らく一つでしょう」
紫音はジェスチャーも織り交ぜ、分かりやすく説明をした。
「犯人は横田さんと親しい人物。手料理を作り、そこに何らかの毒を混ぜて殺害しました。でも慌てた犯人は判断力に欠け、敢えて使ったフライパンや包丁は全て洗って乾かした。換気扇を消し忘れたのも判断ミスですね」
そして、再び遺書を指さした。
「遺書を書いた後鍵を盗み、施錠して逃走した可能性が高いです」
「……!」
最初は相手にしていなかった警察官たちも、頷きながら紫音の方を見ている。
「なるほど、確かに筋は通っているな。この家の鍵はあるか?」
警察官の一人が被害者のカバンを取り、キーケースを取り出した。だが、そこには郵便受けの鍵しか無かった。
「三木さん、二〇二号室の鍵がありません!」
「誰かがこの部屋に鍵をかけて、持ち出した可能性があるな……横田さんと関わりの深い人物を探せ!」
「はい!」
「三木巡査部長。本当にあの人たちは信用できるんですか?」
「実際、この事件は他殺の可能性が高い。彼らの言っていることは正しかったろう」
結局遼磨たちは警察署に戻り、事件の調査を進めることになった。
殺害された横田がどこから金を借りていたか、さらに務めていた会社関連のことも調べる必要がありそうだ。
「確かにそうですけど、そのうち一人はまだ小さな子供ですよ?」
「恵比寿君。例え子供だとしても、彼女は我々よりも遥かに早く事件の概要を突き止めた。そこは、しっかりと評価するべきだろう」
遼磨は新米の警察官……恵比寿伸也にそう言った。
「彼らなら、連続通り魔事件を解決できるかもしれない。私は何となく、そう感じたんだ」
「それはあくまでも警察の役目です。私たちが探偵に引けを取るなんて、あってはならないことですよ」
伸也が厳しい表情で言うのを見て、遼磨も眉間にシワを寄せた。
(恵比寿君は悪い人ではないがな……少し真面目すぎるか?)
「何だか、凄いことになりましたね……」
一方、紫音と純は探偵事務所に戻っていた。満はマンションに残り、あの事件に動きがあったら伝えると言われた。
「でも、早く見つかって欲しいですね!事件の犯人」
「あのさ……」
無理に明るく振る舞おうとした紫音を見て、純が真面目な顔をして言った。
「今日のお前、何かおかしくないか?いや、今日だけじゃない……」
純はうっすらと気付いていた。紫音は他人の目を妙に気にする上に、時々とても悲しい顔をすることがある。
彼女の異様な洞察力、推理力も勿論気にかかったが……純はそれよりも、紫音が自分に何か隠しているのではと感じて、何故か不満に感じる。
「お前、何か隠してるんじゃないか……」
「赤石さん!」
その言葉を遮るように、紫音が悲痛な声で叫んだ。
「そんな顔、しないで下さい。私は他の人がそんな顔で私を見るのが……見られるのが、私は嫌なんです!」
そして、紫音はそそくさと事務所から立ち去ろうとする。
「すいません、私もう帰ります!」
「おい、待てって!!」
純は止めようと叫んだ。だがドアの閉まる音と共に、純は一人になってしまった。
「アイツまで、あんな顔を……私、信じてたのに!!」
涙で顔が崩れているのが、自分でもよく分かった。いや、分かってしまった。
「嘘つき……私をこれ以上、軽蔑しないで!!」
紫音は無我夢中で走り、探偵事務所から離れていった。
「……」
電柱の裏から、とある人物が見つめている。黒い布切れとフードに身を包んだ、怪しい怪しい「影」。
その者は鉈を上げ、逃げるように走る紫音に……遠く届かないと分かっていながら、刃先を向けた。
「フフッ……」
そして振り返って、歩き去った。
感情もなければ力もなく。まるで宙に浮いているかのように、幽霊のように「影」は歩き去る。
その右手に鉈を持ち。その左手で、自らの目的を遂行するために。
続く
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