12

 なんとなく、酒を飲みながら「うしお」でぼんやりしたいと思った。歩いていける距離だから宿舎に原付を置いて、暗くなりつつある浜辺を通ると老警官が水面を見つめて立っていた。その先に遺体があるのかと思って視線を追ったが、どこにもそれらしきものは見あたらない。

「どうしたんですか?」

 思わずぼくは彼に尋ねてしまった。

「ああ、君か。なんだか、ここ最近あんまり流れ着かないなと思ってね」

 老警官の影はこちらを向いたけれど顔はよく見えなかった。ぼくは少しずつ距離を詰めた。

「遺体が?」

「そう」

 確かに、シオマソニックが終わってから遺体に遭遇したことはないし、老警官に出会ったのもこれがはじめてだ。

「まあ、流れ着かないということはつまり、少なくとも死亡した人間が減ったということで、いいことには違いないんだろうけどもね、ここでいろんなホトケサンを見送っててね、こんなに長い間ひとりも流れ着かないというのは、長いことなかったからな」

「どれくらい流れてないんですか」

「もう一ヶ月になるね。その間、ここでは無事故ということになっている」

 あれは事故なのだろうか、とぼくは少しだけ疑問に思ったけれど、もし一ヶ月もの間流れていないのだとしたら、ぼくの感覚と一致する。

「海の流れが変わったとか」

「うーん、何十年も変わらない流れがそう簡単に変わるもんかね。もちろんあり得るだろうけども」

 老警官はかろうじて釈然としない表情をしているようにみえた。そこにだれもいないと思っているかのように、言葉も少なく声も小さい。

「まあ、もっとも、ある日突然流れなくなる、というのも、そういうもののような気もしますけどね」

「ああ、まあ、確かにそうかもしれんな。おれは毎日のように流れ着くことをなんとも思っていなかったけれど、よくよく考えたらそっちのほうがずっと異常だったなあ」

「それに、海の流れだったとしたらまた急に流れ着くようになるかも」

「そういうもんなのかもしれんな。近頃温暖化だとか地球環境だとかいろいろ言われてるし、潮間にもそういう変化があっても確かにおかしくはない」

 けれどやっぱり老警官は納得していないようだった。しかし、どうにか納得をしないことには自分を収められないようなふうで、いかにも落ち着いた風体であるにも関わらず、その葛藤が表に出てしまうくらいに納得していないということが、表情がよく見えなくてもなんとなくわかってしまうことにぼくは何かだいじなものを見たような気がした。おそらく重要なピースのうちの何かなのかもしれない。合わせてみなければわからないが。呆然と海を見つめる老警官に挨拶をして、ぼくは「うしお」へと向かった。

 扉を開けると、珍しく知っている顔がいなかった。奥からハヅキが出てきて、ぼくは真ん中の座ったことのない席に通された。ほどなくしてポテトチップスとハイボールが並べられた。他のひとたちと違って彼女だけはいつも普段着だと思っていたが、持ってきたウーロン茶を見てその理由に気づいた。彼女は酒を飲んではいけないのだ。

「何か聞きたいこと、あるんですか?」

 独特の口調でハヅキは自然にとなりに座った。

「髪、染めたんだ」

 聞きたいことはなかったが、今しがたびっくりしたことをそのまま言葉にした。純朴な少女を絵に描いたようなハヅキが、まばゆい銀色の髪をしていても実は全く違和感がないということにむしろ驚いた。

「うん。なんとなく。真珠っぽい色にしてって言ったの」

 短く切った髪を薄暗い照明にかざすと、わずかに虹色に反射しているのがわかった。

「すごいね。そんなことができるんだ」

「ね。びっくり」

 なぜ、そんな色にしたのかぼくは聞いてはいけないような気がした。あの浜辺と同様、まだぼくが聞くべきではないもののように思った。そして、三島の様子を聞くのも同じように、どこか「ルール違反」のように感じた。けれど、彼女と他に交わすべき言葉はどこにもない。

「ショウくんね、シオマソニックがうまくいき過ぎちゃったみたい」

 その言葉で、三島に何が起こったのかぼくはわかりすぎてしまった。それくらいハヅキの言葉は重たかった。

「潮間の男、というのはそれだけ、かれにとっては重いことなのか」

 だれに向けるでもないようにぼくはつぶやいた。

「そう。潮間の男、ということばはショウくんの誇りにはならなかった。だってショウくんのことはこのまちのだれにもわからない」

 だれにも、というのにハヅキも含まれているのだろうか。

「ドラムもずっとわからない。叩けば叩くほどわからなくなる。ショウくんも、潮間も、ドラムも、あなたもみんな同じ。わからない。それだけのはなし」

 ハヅキはぼんやりと独り言のようにつぶやいた。

 ぼくは彼女がいちばんわからなかった。三島も、葦山氏も、市ノ瀬主任も、真理もまったくわからないけれど、目の前にいる、突然真珠色の髪の毛にした彼女のことがおそらく、きっと、だれよりもいちばんわからなかった。けれど、三島がなぜ彼女とだけ音楽をやりつづけているのか、なぜアコヤガイはあれだけこちらを向いていないのに、潮間のステージで反響したのかがなんとなく「腑に落ちた」気がした。それはきっとわからないことをおそれてわかろうとするのではなく、「わからない」をわからないままで抱きしめることなのだ。ぼくは「わからない」をおぼえた。「わからない」を抱きしめることをおぼえた。ぼくが潮間にやってきたのはだからきっとつまり運命だった。潮間はわからないぼくをあの浜辺の穏やかな波よりやわらかくつめたく抱きしめた。

 ハヅキはそれを「わからない」ままで教えてくれた。ふれることなく、だれに向けられたものでもないその自由な言葉によって。

 その瞬間、いったいなぜぼくが小説を書いていたのかを思い出した。それはわからなかったことをわかりたいからだった。けれど、言葉はわからないことをわかるためにあるものではなかった。もし、そうであったなら、世界にこれほどおおくの言葉が満ちあふれているはずがない。言葉は、「わからない」を「わからない」のまま受けとめるためにぼくらが作り出したものだった。小説は言葉の集合にして言葉そのものだ。だからぼくはほんとうの意味で小説を書いていたわけではなかった。ぼくが小説だと思って苦しみながら書き続けていたものはつまり、別のものだったのだ。そして、わからないことをわかろうとする姿勢に疑問を持った結果、ぼくは小説に似たなにかを書けなくなってしまった。きっと原因はあの万年筆だ。ぼくはハヅキにありがとうとお礼を言った。ハヅキは何もわからないまま、ほほえみだけを返してくれた。

 酩酊する脳を引きずりながら部屋に戻ってきたら、スマートフォンが大きな音を立てて防災情報を知らせた。同時に市ノ瀬主任からメッセージが来ていた。明日出勤後、緊急ミーティングを行うとのことだった。

 ネットニュースでは日本史上最大となるであろう台風の発達を伝えていた。それが潮間に直撃すればどうなるか、想像できないほどではなかった。

 けれどぼくはなぜか落ち着いていた。市ノ瀬主任に適当にメッセージを返して寝ることにした。頓服の薬剤を使うのはやめた。

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