21
「ねぇ。聞いても構わないかしら?」
「どうぞ」
手の中に在る一冊のフォトブック。それをそっと閉じながら一華はブレナンに問いかける。
「あの子を何処で見つけたの?」
向かいの席に座る男の手元では、随分と短くなった煙草から立ち上る一筋の煙。それがゆらりと動き、何もない空間に緩いで波線を描く。
「ああ。それはな……」
それを見つけたのは偶然だった。
突然鳴り響いた電話のベル。それは、随分久しぶりに連絡を寄越した叔母からの呼び出しで、突然任命されたドライバーとして遠出をすることになってしまったその帰り道。予定よりも早く用事が終わったことに安堵を覚えつつ、ブレナンはのんびりと車を走らせていた。
長時間の運転をしていたせいで覚えるのは身体の怠さだ。迫り来る眠気に耐えるのが難しくなってきたと判断したところで、適当な場所を見つけ停車させる愛車。開きっぱなしの窓の向こうに広がる景色は、普段見慣れた無機質なビルの集合体などではなく、穏やかに広がる海である。鼻孔を擽る潮の香が少し強い気はするものの、頬を撫でる風はとても心地良かった。
気分転換にでもと、ポケットから煙草を取り出し運転席から抜け出すと、車体に寄りかかるようにして身体を預け、咥えたそれに慣れた手つきで火を点ける。
「そういやぁ、こうやって海を見るのも随分と久しぶりだっけか」
今日の天気は快晴で風もそんなに強くはない。繰り返される波の打つ一定のリズムに耳を澄ませると、自然と緩んでいく表情。幾ら不健康だとはいえど、慣れ親しんだ味が体内に取り込まれると、頭がスッキリとしてくるから不思議である。
落ち着いた波をぼんやりと眺めていた時だった。
「ん?」
視界に入る違和感に気が付き寄せる眉間の皺。その場所には似つかわしくない異物がある気がして、ブレナンは目を懲らすそれを捜す。渚に寄せる波の上。ゆっくりと揺れるそれは、よく見ると人の形をしているようで驚く。
「マジ…かよ…」
吸っていた煙草の火を携帯灰皿に擦りつけながら消すと、ブレナンは慌てて浜辺へ降りそれに駆け寄った。人命救助なんて柄ではないと思いながら、見つけてしまったものを放って置くことも出来い自分に対して打つ舌打ち。元々見捨てるという選択肢を選ぶつもりはなかったが、知らない振りをして翌日の報道で生死を知るなど堪ったものではないと愚痴を零しながら足を動かす。
「クソっ! 何だってこんな……」
波は穏やかとは言え、水温は決して高くはない。幸い、浅瀬まで流されてきてくれたお陰で、大きな波が起こらない限り、それが沖へと戻される可能性は低かった。靴を脱ぐのも面倒だと海水に足を突っ込んだお陰で、水を吸って纏わり付くズボンの裾が鬱陶しい。重くなった両足を動かし何とかそれに近寄ると、両腕で引き上げ、改めてそれが何であるのかを確認し表情を歪める。
「やっぱり、人で間違いはねぇんだな」
長身の成人男性が一人。完全に意識を失いうつ伏せに倒れている。それが勘違いではなかったことに複雑なものを覚えつつ、ブレナンはそれを担ぎ上げ砂浜へ向かって足を動かす。行きの時と違い帰りは大きな荷物があるせいで、余計に足がもつれて動きにくいと感じる。やっとの思いで波から逃げ出すと、担いでいた人間を砂の上に放り、倒れ込むように隣に両手を突いた。
「はぁ…………はぁ…………」
自分と大して変わらない体格の男性にプラスされた濡れた衣服の重さ。更に動きを妨げるように纏わり付く水抵抗が加わったのだから、たった数メートルの距離を移動するだけでも体力を消耗してしまう。ただでさえ日頃の運動不足で身体が鈍っている状態なのだ。こんな肉体労働は予想外だと悪態を吐いてしまう。
「全く……一体何に巻き込まれたんだってんだ? 沖の方で転覆事故が起こったなんてニュース、全く聞いた覚えはねぇぞ」
身体を反転させ砂の上に腰を下ろすと、上がってしまった息を整えるように大きく深呼吸。動悸が落ち着いたところで手に着いた砂を払い、後改めて助けた相手の方へ視線を移し、声を掛けようと口を開いたときだった。
「なっ……」
信じられないものがそこに在ると。
ブレナンは掛けようと思っていた言葉を呑み込み口を噤む。
砂の上に放り出した身体をひっくり返し、改めてみる相手の顔を見て、覚えたのは動揺で。今、目の前にあるモノが信じられない、と、それを否定するかのように横に振られる首。煙草を咥えていたのなら、間違いなく落としていたに違いない。
「何で……嘘だろ……」
数年前までは、それを見るのは当たり前だった。
だがある日を境にそれは、目の前から居なくなってしまったのだ。
今その姿を見ることが出来るとすれば、過去を閉じこめた記憶の媒体に頼る以外方法がなく、それが確かに触る事の出来る肉体を伴って存在することはあり得ない。しかし、今目の前に在るものは確かに自分の記憶の中に残る姿をした何かである。
ブレナンは一度考えることを放棄した後、ゆっくりと自分の身に起こったと思われる状況を整理していく。
「……アイツが生き返ったとか? いいや。そんな筈はない。だって、俺が自分でアイツの体の中から取り出された色んなモノを色んな所に渡したんだから」
それなら今、目の前でぐったりと横たわる物体は何だ? 横目でそれの姿を確認しながら必死に考えながら捜す答え。
「……もしかして」
それはどう考えても一つしか思いつかず、辿り着いた可能性にブレナンは目を見開き口を押さえた。
「そう考える方が一番しっくりくるとは思うんだが……それは違法も良いところだろう? 現実としてそれを作り出すことは可能なのか? 判んねぇ……」
自分の口を覆っていた手の平をゆっくりと話すと、相手の口元へ翳してみる。微かに触れる微弱な空気から、それが確かに呼吸をしているのだということが判り、彼の頭は益々混乱してきた。
「おっ……おい、アンタ……」
試しに肩を掴み揺さぶりながら声を掛けてみるが、相手から反応が変え冴えることはない。手に伝わる確かな弾力と体温は、水にさらされていたため冷たく感じるものの、しっかりとした質量を持ち存在しているのだと言う事を再認識させられてしまう。何度触って確かめても、それが幻の様に消えて無くなることは無いのだから、次第に泣きたくなってきた。
「くそっ……」
もう一度だけ。声を掛けようとして感じた違和感。頭部に滲み出る色に思わず伸びた手が、そっと髪の毛を掻き分けることで感じた奇妙な感触。
「……血?」
それが何で有るのかを確認するために自分の掌を覗き込むと、水に濡れた指が紅く染まっていることに気付いた。当然、これは自分が負った怪我から流れ出るものでは無い。だとすると、可能性として考えられるのは、横たわる相手が頭部に裂傷を受けてしまっているということだろう。試しに後頭部に手を差し入れ持ち上げてみると、先程よりもはっきりと滑る感触が伝わり顔を顰める。
「やばいな……頭部に怪我をしているのか……病院に連れて行かねぇと拙いかも」
携帯を取り出し緊急コールを押そうとしたところで、この場所をどう説明すれば良いのか分からなくて止まった指。どうするべきか悩んだ決断の答えは、思ったよりもあっさりと決まる。
完全に意識を失ってしまった人間はただでさえ重たいのに、水を吸った衣服が更に重さを足してくる。それでも何とか担ぎ上げると、車まで何とか歩き、無理矢理助手席に乗せて病院へと急いだ。
「生きてるか! おい!」
何度も意識のないそれに話しかけるのは、相手が事切れないようにと配慮した結果だ。成るべく揺れを抑えるように注意しながらハンドルを操り、慌てて駆け込む救急病院。
「スマン! 助けてくれ!!」
建物の中に飛び込んだと同時に、声を上げ目のを歩くスタッフを呼び止める。その場に居合わせ相手は始め、何が起こったのか判らないという表情を浮かべ近寄ってきた。
「どうされたんですか?」
「コイツ、怪我してるみたいなんだ! 見てやってくれねぇか!?」
ブレナンの言葉と抱えられた相手の状態。状況を理解したスタッフは、慌てて誰かに連絡を取り始める。直ぐに奥から数人のスタッフが現れ、用意したストレッチャーにその人物を乗せると、慌ただしく施設の中へと移動し始めた。
「すいません。どう言うことか、説明していただけますか?」
「ええ、実は……」
怪我人を連れて現れた彼を案内しながら問いかけてくるスタッフの女性。彼女に今までのことを簡単に説明しながら、ブレナンは彼らの後を追い足を動かした。
これほどにまで時間が長いと感じた事は何年振りだろう。
「別に。付き合う義理なんざねぇのになぁ……」
喫煙スペースで身体に悪い煙を吸い込んでは、それを吐き出す。
その単純な行動を繰り返してどれくらい経ったのだろうか。すっかり暗くなってしまったガラスの向こう側を眺めながら、ブレナンは小さく呟いた。
「あー……そう言えば……」
ズボンのポケットから携帯端末を取り出しディスプレイを覗き込めば、何件かの着信履歴とメールが届いているというアナウンスが目に飛び込んでくる。
「一体何だよ?」
履歴にあるのは付き合いの長い友人の名前。メールの内容を確認する前に相手の番号をタップし呼び出せば、数コールも経たない内に電話の相手は着信を受けてくれた。
『遅せぇ!』
「煩せぇ! ってか、何の用だよ?」
受話器越しに聞こえてくる賑やかな音楽。相手が騒がしい空間に居る事は分かるが、連絡を寄越してきた意図が分からず投げる質問。
『今、暇か?』
仲間内で集まって飲んでいるからお前も来るかという誘い。それが連絡を寄越してきた理由らしい。
「悪い。ちょっと面倒事に巻き込まれちまってさぁ……」
何も用がないのなら二つ返事で向かっていたことだろう。しかし、今はそれどころではないと、簡単に状況を説明する。
『随分大変なことになってんなぁ』
向こう側に伝わる静けさに何かを感じ取ったのかも知れない。相手はその説明で納得したのか、それ以上注文をつけてくることは無かった。
「この埋め合わせは今度ちゃんとすっから、今日は勘弁。じゃあな」
それだけ言うと短い通話は呆気なく終わりを告げてしまう。
「あーあ。憑いてねぇの」
いつの間にかボックスの中身は最後の一本に。それに手を付けようとして手を止めると、開いたボックスの蓋を静かに閉めてから、ブレナンは冷たく白い壁に背を預け瞼を伏せた。
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