19
「……どうすればいいの」
常に迫られるのは二つの選択。諦めるのか抗うのか。
「ネアン……」
側に立つ実験体へと顔を向けると、彼にしては珍しく不安そうに瞳を揺らし一華の指示を待っていた。
「私が、決断しなければ……という事よね」
実験体と研究者の距離が近すぎるためか、追ってきた人間達と二人の間の距離はまだ十分にある。だが、彼等は諦める事をしないだろう。構えられた銃口がこちらを向き、少しずつ、少しずつ縮まりつつある距離。だからこそ、選ばなければならない。今度こそ、間違うことのない決断を。
「今度は間違えたりしないわよ」
一華は決意するように低く呟くと、改めてネアンと向き合った。
「ネアン。我が儘な私を許して頂戴」
繋いでいた手を静かに外しながら、一華は言葉を紡ぐ。
「貴方を救いたいと願いながらも、貴方の存在を恐しいと感じている私は、きっと狡いんでしょうね」
「一……華……?」
まるでそこに誘うように相手の腕を引き立った絶壁。自分の背後に迫る追っ手を。相手の背後に広がる空を。そうなるように調整し、腕から指を剥がしていく。
「でもね、私は色々な可能性を見てみたかったのよ。貴女という存在に、私の願いや希望を重ねてしまっているの。だから貴方がここで終わってしまう事は私の本意なんかじゃない」
触れる者を失った両手を、今度はネアンの胸の位置に来るように持ち上げる。
「私が取る行動がどういう結果に繋がるのかは、それが起こった後になってしか判らないと思う。それでも、もし、もう一度生きて会う事が出来るのなら、その時は貴方の存在を今度こそ受け入れるから……だから……」
まるでワンカットずつ切り取られた動画フィルムのように、ゆっくりと流れていく時間。確かに手に伝わる感触を確かめた後、一華は両腕に力を籠て勢いよく相手を突き飛ばした。
「今はさよならよっ!」
「一華!?」
足場を失った崖の向こう側。強く押されたネアンの身体は、ゆっくりと傾いていく。
ふわりと宙に投げ出された身体は、一瞬だけその場に留まり、次の瞬間重力に引っ張られるようにして真っ逆さまに降下し始める。幸いにも下にあるものは大量の水だ。運が良ければ命だけは助かるはずだと。
本の小さな可能性ではあったが、背後から迫る確実な死から逃れる方法は、これしか思いつかなかった。
「じゃあね。ネアン」
降下していくネアンが一華に向かって、必死に何を叫んでいる。しかし、その声は一華の耳に届くことは無かった。
ピリオド。
視界が暗転する。
次に目覚める時は、一体どんな世界が広がっているのだろう。
それは思い描いていた甘い夢なのか、それとも願う事を嫌がった辛い現実なのか。
今はその答えが見つからない。
ゆっくりと落ちていく意識。
次に目覚める時は……
どうか……もう一度……
「タチバナ、イチカ」
崖の上で立つ相手へと向けられた銃口。彼女がゆっくりと振り返る。
「君は自分が何をしでかしたのか理解しているのかね?」
肯定も否定もしない。一華はただ、真っ直ぐに、言葉を吐き出した相手を睨み付けていた。
「実験体は……」
「此処から落としたわ。回収したいのならさっさと行けばいいじゃない」
既に視界からその存在が消えてしまったことを確認しながらそう呟くと、どうぞと場を明け渡し施設へと戻るため足を動かす。
「尤も、見つけられるかどうかなんて、貴方たちの運によるとは思うけれども」
この話はここでお終い。向けられた銃口の軌道を避けるようにして人の間を抜けると、背後から大きな声が響く。
「待ちなさい! タチバナ!!」
「疲れたの。説教なら後で付き合うから、今は一人にしてくれなかしら」
振り返ることはしない。背後から慌てて指示を出す怒鳴り声が響くが、それを気にすることなく、一華はその場を後にした。
「……と、いうわけ」
ロカビリーな音楽が流れる店内。酒場という環境でどういう訳か、紅茶を頼みミルクを垂らしていた奇妙な女性を見かけたから何となく声を掛けただけ。軟派をしようと思った訳では無いが、あわよくばと考えなかった訳でも無い。そんな小さな好奇心だったのに、まさかこのような話を聞けるとは。男は持っていたグラスを回しながら口を開く。
「随分突拍子もない話だったが、君は、小説家か何かなのかい?」
余りにも現実離れすぎていて、俄に信じがたいと感じてしまうその話は多分、今度新作として出すシナリオか何かだろう。男はそう考え彼女に問い掛ける。
「好きなように解釈して貰って構わないわ」
女性は特に興味もないと言う風に呟くと、カップに残っている、白く濁った茶色の液体を一気に飲み干す。
「面白い話を聞かせてくれたお礼に、一杯奢ってやるよ」
もう少しだけ会話を続けたい。そんな気持ちから彼女にそう持ちかけてみたのたが、それはあっさりと拒否されてしまった。
「何だよ? 断ることはねぇだろ?」
「ごめんなさい。お酒は余り得意じゃないの。気持ちだけ受け取っておくわ」
この話は此処で終わり。そう断ってから、彼女は酒場を出ていってしまった。
季節はもう、秋から冬へと変わろうとしている頃だ。
頬を撫でる風が思ったよりも冷たく感じ、女性はコートの衿を立て小さく肩を寄せる。
「何もかも……上手くはいかないものね」
結局、研究を続ける気にはなれず、今までの記録として残していたデータは改竄してしまった。その際、自分の存在を抹消する手続きを行い、そうして彼女は研究所から逃げ出したのだ。
正規の手順を踏んでいる訳ではない為、真っ当な職に就くとは難しい。仕方なしに場所を点々としながら、日々の生活を繋いでいると言う現状に乾いた笑いが零れる。
それでも、この生活は嫌いでは無かった。これはこれで案外悪くないわなんて。何よりも自分を縛るものが存在しない分、自由に動ける時間が確保出来たのが有り難かった。
そうやって手に入れた時間で、探しているのは一つの存在。あの日、自分から手放したあるものの姿を、彼女はずっと探していた。
「生きているのか死んでしまったのか……せめて、それだけでも判ることが出来れば……」
そう呟きながら、口の前で広げた掌に息を吹きかけ擦り合わせたときだった。
「……あれは……」
視界の隅に捉えた、見覚えのある姿。
慌ててそちらに視線を向けると、とても良く見知った後ろ姿が目に入る。
「ネアン!!」
会いたいと願った人物が目の前にいる。彼女は見失わないように駆け出すと、無意識にその人の腕を掴んでいた。
「待って!」
「……んー……何だよ?」
だが、その人は、決して良い返答を返してくれるわけじゃなかった。
返される反応が違うことに驚き言葉が出てこない。想定していた状況と違う現状に戸惑い、掴んでいた腕の力が緩む。
「誰?」
「あ……なた…………ネアン……じゃ……ない、の?」
あれから随分時間が経っているのだ。姿形が多少異なることは覚悟はしていた。だからこそ、こんなにもそれに似た雰囲気を持つこの人が、探し求めている本人に違い無いと思ってしまうのに、何故かこの人は自分の事を知らないと言い切ってしまう。
「もしかして……」
記憶が無くなってしまっているのだろうか。確かにそれは、可能性として有り得ない訳ではない。
「貴方、自分が誰なのか分かっているのかしら?」
その質問が失礼なことだとは思ったが、どうしても確認したくてたまらなくて。だからこそ、後先考えずにその質問を目の絵の相手にぶつけてしまう。
「からかっているのか? だとしたら、質の悪い冗談だな」
それを快く思わないのは当然だろう。聞かれた相手は嫌そうに表情を歪めた後、盛大な溜息を吐きこう付け加えた。
「悪いが人違いだ」
出来るならその可能性は考えたくなかった。
「……ごめん……なさい」
それでも、目の前の男が纏う雰囲気が、自分の探しているものにとてもそっくりで、掴んだ腕を放すことが出来ない。出来る事ならこう言って欲しい。『冗談だよ。驚いた?』と。
「あのさぁ」
「……………………」
離してくれない? と相手が訴えるのに、中々動き出せないで居るのは、未だ自分の気持ちに見切りが付けられないせいだ。
これが自分に与えられた罰だとするのなら、何と残酷なことだろう。懺悔の言葉を呟くことすら許されないと言うのだろうかと涙が溢れてしまう。
「アンタが探してるのはネアンってやつみたいだけど、完全な人違いだぜ」
「…………」
空いた方の左手で涙を拭いゆっくりと顔を上げると、目の前の男は困ったように眉を寄せる困り顔で笑ってみせる。
「俺はブレナン・マクハティって言うの。残念だがアンタが探してるヤツのことは知らねぇな」
「人、違……い?」
「ああ」
やっぱりそうか。相手がそう言い切ったことで漸くその事実を認められる。まだ上手く力の入らない指を無理に動かすと、掴んでいた腕を開放し一華は再び俯き小さく謝った。
「……そう。ごめんなさい。吃驚させてしまって」
他人の空似は良くあることだ。世界には、最低三人は自分とそっくりな人間が居るのだという。そう考えればこういう事があったところで、何の不思議もないのだろう。肩は落としたものの、納得はできると。諦めてその場を後にしようと男に背を向けると、今度は相手から声を掛けられ引き留められてしまった。
「一寸待てよ。アンタ……さっきネアンって言ってたよな?」
一度はされた否定。それなのに何故かこのブレナンという男は、その名を持つ者の事を確認するように一華に問いかけてくる。
「……言ったけれど、何で?」
直ぐには返されない答え。彼は一華から視線を逸らすと、何かを考え込むようにして視線を上に上げたまま黙り込んでしまった。
「なぁ、アンタ名前は?」
次に彼が口を開いたときに出した言葉は、名前を問うものだ。
「一華……よ。橘一華」
「タチバナ……イチカ……」
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