シングルトラック ~あの山の向うへ~
T.KANEKO
第1章 出会い
1 吹き抜ける風
芦ノ湖の湖面を吹き抜ける風は、ひんやりとしている。
道端には一週間ほど前に降った季節はずれの雪が、ところどころに残っている。
四月に入ったと言うのに、季節を春と呼ぶのはまだ少し早い。
それでも、空の青さを映しだす湖面の色は、モノトーンだった冬の色ではなく、蕾のほころびや、春の花の色彩が加わり、緩やかに春が近づいている事を感じさせてくれる。
アウトドアシーズンにはまだ少し早いようで、芦ノ湖キャンプ場は閑散としていた。静まり返った湖畔に佇んで、大きくひとつ深呼吸をすると、肺の中に取り込まれた清らかな空気が、身体の中で淀んでいたものを浄化し、細胞のひとつひとつを蘇らせてくれるような気がする。
「先に行くよ、10分待ってね……」
葉山航は、うしろから響いてきた透き通った女性の声に耳を傾ける。
白いサンバイザーを被り、小さな黒いザックを背負った彼女は二、三度軽くジャンプをすると、湖畔の小道を走り出して行った。
左右に揺れるポニーテールの様子が、軽快さを醸し出している。
ゆっくりと振り返ると、大きな声で叫ばなければ届かないほどに、彼女の姿は遠ざかっていた。
「爽夏、ゴールは山伏峠のレストハウス! 負けた方がソフトクリームの驕りだからな!」
大きな声で叫ぶと、彼女は振り返らずに右腕を横に広げ、親指を立てるポーズを取った。了解の合図だ。
しかし次の瞬間、その親指を下に翻す。負けるもんかと言う挑発だろう……
爽夏の負けず嫌いな性格が伝わってきて、航は、思わず笑みを零した。
航は、緩んだ頬をじわじわと戻しながら真顔になり、木製のベンチに腰を掛けて、左手首に巻かれたストップウォッチのスタートボタンを押した。
そして、前かがみになり、薄緑色のトレイルランニングシューズの紐を結び始める。解けないように、しっかりと確実に……
紐を結び終えて、視線を湖の方へ走らせると、さくら色のソフトシェルジャケットに身を包んだ爽夏は、水門の上を滑らかに駆け抜けていた。
しなやかで無駄な動きのない美しいランニングフォームが、湖面からの照り返しを受けて輝き、オーラを放っているように見える。
大学3年生の
航は、その声が気になって視線を巡らせ、その存在を確認しようとした筈なのだが、どういう訳か、その時の映像は記憶に残っておらず、彼女の声だけが耳に残った。
当時の航は、爽夏に対して特別な思いを抱いていた訳ではない。
爽夏とは高校の三年間ずっと同じクラスだったが、特別な思い出は何も無い。そもそも、爽夏の事を異性として意識する事が無かったのだ。
爽夏だけではなく、クラスメイトの女子を恋愛対象として見ていなかったのかもしれない。航にとって爽夏は、ただのクラスメイトであり、それ以上でも、それ以下でもなかった。
しかし、爽夏が航に対して抱いていた思いは、だいぶ違っていた。
航は、ずっと後になって、その事に気付かされる……
航はベンチに腰を掛けたまま、ボンヤリと湖を眺める。湖面から、時折吹き付ける冷たい風は頬を強張らせるが、背中越しの太陽は暖かく、日差しに包まれている事を実感できる。
「このまま、のんびり過ごすのも悪くないな」
航は、ぼそりと独り言を呟く。でも、そんな気はさらさら無い。
森の中を疾走する爽夏を思い浮かべ、キラキラと光る湖面に目を細めながら、左手の腕時計を覗き込んだ。ちょうど九分を過ぎたところだった。
「ぼちぼち、行くかぁ」
自らに言い聞かせ、ベンチから立ち上がる。
トレイルランニング用のザックをひょいと背負って、一度大きく背伸びをしてから、ゆっくりと歩き出す。
青い空を見上げると、小さな雲の塊が、ゆっくりと流れていくのが目に留まった。航は、空に向かってフーッとひとつ息を吐き、頭の上に乗せていたサングラスを装着して、ザックの胸のバックルを留め、腰のアジャスターを引き絞った。これで走り出しても、ザックが揺れる事は無い。
一連の動作は、走り始める時のスイッチのようなものだ。これで気持ちが切り替わる。ハイドレーションの水をひと口含み、ストライドを徐々に広げながら、伸びやかな走りへと移行していく。右手で腕時計のラップボタンを押すと、10分ぴったりで表示が数秒間止まり、また、せわしくなく動き出していった。
湖の西側は、水門から登山口まで、なだらかなハイキングコースが続く。距離は10キロ、そこから芦ノ湖スカイラインに沿って、起伏があるハイキングコースを進み、山伏峠にあるレストハウスが、最初の目的地だ。
芦ノ湖キャンプ場から15キロ、登山マップの標準コースタイムによると、4時間程になるが、航は、それを1時間30分以内で走ろうとしている。
爽夏よりも先に着くために……
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