魔女の懊悩煩悶
薄汚れた雑居ビルの奥にある,知らなければ誰も入ってこないスナックのドアに『closed』と書かれた小さなサインが掛けられていた。薄暗い店内では,常連たちが安い酎ハイで喉を潤しながら,乾き物を摘み,他愛もない話に華を咲かせていた。
煙草の煙で燻された店内はママを中心に政治や経済の悪口を言い合い,時折りお気に入りの女優やタレントの名前が意味もなく出てはまた悪口で盛り上がった。
「それがさぁ,うちの息子から聞いたんだけど同じ大学の生徒四人が突然消えたとかで,大学内を警察官が巡回してるそうなんだよ。まぁ,大学側からのお願いらしいんだけどな」
「おう,その話ならうちのも話してたぞ。うちのは違う大学なんだけど,サークルが一緒だったらしいんだ。で,その四人,どうやらリベンジポルノの被害者らしいんだ」
「まったく,今時の若造はすぐにネットに個人情報をあげるからなぁ」
「物騒な話だ。リベンジポルノに四人の失踪なんて事件だろ? 警察はなにやってんだ?」
ママは黙ったまま面倒臭そうに煙草を咥え,やけに小さな使い捨てライターで火をつけた。細長い炎が糸のように伸び,煙草の先が真っ赤になると,ママの鼻から真っ白な煙が吐き出された。
「あんたたち,その話をよそでするんじゃないよ。その四人,あんたたちの仲間になるかもしれないからね」
店内が一瞬で静まりかえり,客たちは黙ってママを見た。咥え煙草がチリチリと音を立てると,煙草の煙がママの周りを流れて落ちた。
「闇夜の魔女の従者よ。その四人」
客たちは一切表情を変えることなく酎ハイを手にして,なにも聞いていなかったかのように政治への不満と下ネタを話し始めた。
相変わらず下品な話で盛り上がっていると,突然ドアが開き,生暖かい空気が店内に流れ込んできた。
客たちが一斉にドアのほうを振り向くと,真っ暗な入口にやけに若い女が一人で立っていた。長い艶やかな黒髪と白くて細長い脚を見せつけるかのようにしながら,ゆっくりと辺りを伺うように店に入ってきた。
女のすぐ後ろには常連たちもよく知る峻の顔があり,ママが小さく頷くと,客たちは蒸発したかのように一瞬で店内から消えていなくなった。
「「なるほど。ここはそうゆうお店なのね」」
「あら? あなた,新入りね? あなたはどっちかしら?」
「「どっち?」」
ママは煙草をひと吸いで根元まで灰にすると,大きな重たそうなガラス製の灰皿に焼けたフィルターを静かに捨てた。
「闇夜のほうかしら? 月夜のほうかしら? ねぇ,峻。それから仁ちゃん,この子はどっち?」
悠依が驚いて振り返ると,峻の後ろに楽しそうな笑顔の仁が立っていた。仁の瞳からは,この店の中にいる全員を一瞬で消滅させられるほどの強い能力が溢れ出ているのを悠依の本能が察知して,驚くほどの勢いで逃げるように飛び退いた。
暗い店内に飛び込み勢いよくカウンターに身体をぶつけると,その反動を利用して流れるように横に移動した。その間も常に視界に仁の姿を捉えたまま,同時に一緒にいた峻を警戒した。
「よう。随分と雰囲気が変わったな。つい先日までのしょんべん臭い怯えたガキはどこにいった?」
悠依の呼吸が荒くなり,仁への警戒心が異常に高まった。カウンターにぶつけた脇腹が痛み,視界に入るすべてに気を配った。
「あら? じゃあ,こっちが月夜のほうね?」
「ん? ママは以前こいつに会ってるぞ?
「え? やだ! 全然雰囲気違うじゃない? この子,あの細い可愛らしい子なの?」
ママは嬉しそうに両手を重ねると,拝むように悠依を見た。まるで大好きな女優にでも会ったかのように,はしゃいでその場で何度も軽く跳ねた。
「ああ。俺に会いにきたんだよな」
悠依は警戒したまま店内を見回し,他に誰もいないことを確認すると壁に背中を向けて逃げ道を確保した。
「「あんたが,仁ね……」」
「おいおい,そんなに警戒するなよ。それにいままであんなに懐いてたのに,急にその態度はいくら俺でも傷つくって。思春期の娘から父親に洗濯物をわけろって直接言われるくらい傷つく!」
悠依は警戒しながら仁をまっすぐ見た。すぐにでも逃げ出せる位置を何度も確認し,仁の能力の高さを侮っていたことを後悔した。
「そう警戒すんなって。俺はお前の生みの親だぞ。まぁ,お前は自らハーフみたいな状態を選んだみたいだけどな。ただでさえミックスなのな複雑にしやがって。心の奥のほうにいる半分に俺のことを聞いてみろ」
悠依は峻に視線を送ると,壁に沿って移動した。
「「私はあなたに聞きたいことがある」」
「ああ,なんでも聞け。お前は甦りだが,いまはまだ赤子みたいなもんだ。いま教団の連中とやり合っても秒で殺される。しかも散々犯された後でな」
仁がカウンターに座ると,何も言わずにママが酎ハイを出した。透明な大きな氷がグラスの中でくるくると回り,グラスの表面から雫が垂れた。
「ママ……いま結構いいシーンなんだから,ここはもうちょっといい酒とかなかったの? これ,いつもの安い酎ハイじゃん」
「はいはい。ちゃんとお代をいただけるなら,高級なお酒も出しますよ」
言い返すこともできず,不貞腐れるようにして酎ハイに口をつけた。
「別に俺は酎ハイ好きだから,これでいいけどね」
峻に促されて仁と二席空けて悠依もカウンターに座った。ママは嬉しそうにオレンジジュースを悠依に出すと,二人の顔を交互に見た。
「若い子のこうゆう距離感が傷つくんだよなぁ……」
「さて,いまのお前は聞きたいことだらけだろう。時間はある。整理しながら話していこうか。峻も座って飲め。今日は奢ってやる」
悠依は仁の横顔を見ながら,なにから話すか考えたが考えがまとまらなく言葉に詰まった。
「ほら,仁ちゃん。悠依ちゃんが困ってるじゃない。こんなに若い子を困らせちゃって,ほんと,相変わらず女心がわかってないわね」
仁は苦笑いを見せると申し訳なさそうに悠依を見た。
「そうだなぁ,じゃあ,最初になんでお前が選ばれたか話しておこうか?」
悠依は黙って頷くと,仁と峻を交互に見た。
「簡単に言うと遺伝だ。隔世遺伝って知ってるか? いくつもの年代を飛ばして引き継がれる遺伝現象だ。先祖がえりもこのうちの一つだ。お前の中に眠る魔女の遺伝子がお前の代で色濃く出ている。お前,マッチングアプリで俺のコメントの最後の一文を読んだだろ。あれは普通の人間には読めないんだよ。で,遺伝の強いやつに俺の血を与えると,過去の記憶とともにそのときの人格と能力が甦る」
ママが悲し気に悠依に向かって微笑んだ。
「マッチングアプリって……相変わらずのセンスよね……。仁ちゃんはね,三百年ほど前にこの実験を成功させてね。それ以来,色んなミックスに自分の血を与えてね,血の量を調整したり,与える相手の特徴を研究したりしてね。まぁ,最初の一人,私以降は全敗だけどね」
「もうさ,ママは奇跡だと思ってたよ。それから闇夜だの月夜だのって名称にも意味がある。魔女ってのは限定された条件下でしか,その能力を発揮できない。俺はお前たちの条件を与えられる。これは俺がオリジンと呼ばれるすげぇ魔術師から与えられた甦えらせる能力の一つだ。ちなみにママは雷光の魔女だ。かなり限定される不便な条件だろ。こう見えてママは三百十五歳だよ」
「おい! お前,マジでふざけんな! なに勝手に人の歳バラしてんのよ! 予想はされてたかもしれないけど,いきなりバラすとかほんと,デリカシーないったらありゃしない!」
「あ……マジでごめん……ほんと,マジで……」
仁が顔を赤らめて謝ると,峻が申し訳なさそうに下を向いた。そんな仁たちのやり取りを見て,ようやく悠依も緊張が解けた。
「「私には魔女狩りの記憶がある。だけど,なぜ人間は私たちを襲い殺したのかがわからない。あのとき私はまだ幼かった。ただ恐怖しかなく大人たちに犯され,串刺しにされ,焼かれ死んだ。誰も助けてくれず,犯されている間,大人たちは笑いながら見ていた」」
「ああ……それが六百年経っても復讐心が消えるどころか,一日一日と人間を殺したいという気持ちが増幅していく理由だ」
「「なぜ人間は私たちを敵視するの? 私たちがなにか悪いことをしたの?」」
悠依の真っ白な細首に艶やかな黒髪が垂れた。仁はその黒髪の毛を見ながら,ため息をついた。
「お前たちじゃないよ。殺されたのは,ほとんどが普通のなんの罪もない人間だ。魔女を理由にして大虐殺を楽しんだ連中がいるんだよ。それを阻止したかったのが三人のオリジンと呼ばれる魔術師たちだ」
「小さな虫や魚,そこから動くことのない植物まで,小さな弱き者たちが自らの身を守るために身に付けた毒を人間は敵視した。人間は自分たちにそれが向けられる可能性があるというだけで弱き者たちを認めず,許さなかった」
「手が被れる,目が痒くなる,くしゃみが出る,そんな理由で無抵抗の植物は引き抜かれ処分される。刺されたら腫れる,呼吸困難になる,死ぬ,そう言って弱き者たちが進化の過程で身に付けた身を守る能力のせいで虫も魚も悪いことなどしていないのに人間に悪とみなされ駆除されてきた」
「彼らの世界に踏み込んできてたのは,人間のほうなのに。弱き者たちは身を守るための能力を身に付けたために殺される。刃向かえば皆殺しにされる」
「だから我々のような術を使える者は弱き者を守るために,彼らの毒を薬にし,樹液や棘を道具にし人間のために提供した。しかし今度は利用価値があると人間たちに乱獲され,絶滅した生き物もたくさんいた」
一方的に話す仁を見ながら,悠依は髪の毛をかきあげ,妖艶な眼差しをまっすぐ向けた。目の前で熱く語る仁の右眼は激しく色が変わり,感情とリンクしているのがわかった。
「「で,なぜあなたは私たちを復活させたの? これからなにをしようとしてるの?」」
仁はひと息ついてから,背筋を正して両眼を覆うようマッサージをした。まるで自分でも瞳の色が変わっているのを知っているかのように,ゆっくりと眼の周りを指先で押しながら,口を堅く結びうな垂れた。
「我々,個々の能力など微々たるものだ。しかし人間はそれを酷く恐れ嫌った。魔女だの悪魔だのと呼び,我々を同じ人間として扱うことを拒否した」
「我々自身もサキュバスだのインキュバスだのっていう名称を使っているが,そもそも我々は悪魔でも魔女でもなんでもないんだ。彼らと同じのはずだった。だが正直この呼び名を気に入ってもいる。こうして人間が我々を恐れて名付けたこの名称を使い,復讐をしようと思っている」
髪の毛をかき上げるたびに艶のある黒髪が柔らかくなびくと,甘い香りが辺りを包んだ。その行為は仁を落ち着かせようとしているようにも見えた。
「「あなたはなにを怖がっているの? あなたは私たちを復活させる能力をもっているのよ? あなたは特別な存在なのよ?」」
「確かに,俺のこの甦りと生き返りの能力は人間には脅威だろう。だけど,この能力以外は人間となにも変わらない。むしろ俺より身体的に優っている人間のほうが多い」
「「確かにあなたのその華奢な身体じゃ,部活動をやってる中学生にも勝てなさそうね」」
「ああ。きっと負けるね」
「「で,あなたが本当に怖がっているものはなんなの?」」
仁はゆっくりと顔を上げて悠依を見た。その瞳は悠依ですら直視できない不思議な能力が宿っていて,その瞳で命令されたら逆らうことができなかった。
「怖いんだよ。あの時,俺はなにもできなかった。隠れるのが精一杯だった。人間たちから見つからないために瓦礫の下に逃げるしかできなかった」
「「そう……六百年前の魔女狩りでは,あなたのその眼には魔術師だけじゃなく人間たちの恐怖や怯え,怒りや憎しみが焼き付けられているのね……」」
「そうだな……目の前で大切な家族が人間たちに犯され,無惨に殺されていくのを見て,怒りや憎しみと同時に恐怖心が心を満たしていった」
「「だからあなたは人間に非道になりきれない」」
「確かにそうかもしれんな。なぜ人間は人間にも魔術師にも,これほどまでに残忍になれるのか,なぜ数日前まで一緒に過ごした仲間を平気で犯し,無惨に殺せるのか。人間には罪悪感はないのかってね」
「「だから逃げたのね」」
「ああ……あの時代,あのときの人間たちの我々に対する残忍さは異常だった。我々はなにもしていなのに……人間たちのほうが悪魔だった。そしてなにより,数の差がありすぎた」
「「なぜ,いまになって復讐を?」」
「あるとき,久しぶりにオリジンの夢を見た。彼らがくれた条件がはっきりしてね。それから俺の中の恐怖が薄れ,憎しみと怒りが増した……。俺の復讐心が膨れ上がるのとは逆に人間は感情を放棄し,昔のような剥き出しの殺意や欲望を失ったからなのかも知れないが……」
「「そう……」」
「あのとき逃げ隠れしていたくせに,人間が弱くなった途端に復讐だの言い出してる自分が情けない。だが,ようやくだ。ずっと昔に目覚めていたこの能力が使えるようになったのが三百年前だ。随分とかかった……」
「「そうね。でも,もう仲間はいないんじゃない?」」
「確かに絶滅したといっても不思議じゃないくらい現生にはいなくなったよ。でも,世界各国に僅かだがオリジナルの生き残りはいるんだよ。警戒しあってて,お互いに連絡は取り合うことはないけどね」
「「あなたの能力みたいにサキュバスやインキュバスを復活させることができる人は他にもいるの?」」
「それはわからない。本来,我々も人間もなにも変わらないんだよ。身体の造りだってほぼ同じだし,身体能力だってほとんど差はない。違うのは我々はほんの少しだけ生き物たちの声を聞けて,その声に応えられる。そして一部だが,俺のように他者の肉体を器として何度でも生き返りができる者もいる」
「「そうね,その生き返りはやっかいだわ。そして私たちは人間の心の奥底に眠る欲求を聞き出し,それを増幅させられる能力も偏ってる。あくまで精神的欲求に限られてるのに。まぁ,お互いに必要なモノを与えあってた頃は共存共栄だったのにね」」
「共存共栄か……それを疑いもせずにいたのは我々だけだったってことだ……。人間は快楽と不老不死を望み,我々を喰う連中まで出てきたからな」
「「確かに不老不死を求めて,人魚だの天狗だのって言われてたわねぇ。私たちを喰ったって,なにも起こらない,ただのカニバリズムみたいなもんなのにね」」
「ああ。人間はまさに悪魔そのものだ。俺の能力は,直接人間をどうこうはできないが,使い方によってはこの魔女を生み出す甦りと,自身が甦る生き返りは人間にとって脅威になるはずだ」
「「じゃあ,その能力で甦ったもう一人の魔女は,いまどこにいるの?」」
「真弓のことか……あいつはお前と違い,人間として三十歳と人生経験がある。そのせいか魔女として目覚めても人間として会社に通い,いままでの生活を変えることなく人間社会に溶け込んでいる。もう一つお前と違うところは,もともとあった人間の人格と魔女の人格が完全に統合している。ただ,魔女の人格が強過ぎて淫獣堕ちしかけてもいる」
「「そう……詳しいことは,よくわからないけど。あと,なんで……私はあなたのことを覚えていない?」」
「さあな……俺もわからないことだらけだ」
悠依は不思議そうにママを見ながらなにか言いた気な表情をした。その視線を受けてママが微笑んでから仁に視線を投げると,仁は申し訳なさそうに苦笑した。
「あら? なんでも聞いていいわよ。いまさら隠すことなんてなはずよ。仁ちゃんだってよく酔っ払って失礼なことも言いたくないことだって遠慮なく聞いてくるんだから」
悠依は口をきつく閉じたかと思うと,一呼吸ついてから唇を震わせて,慎重に言葉を選んで仁を睨みつけながら話し始めた。
「「私も,悠依もセックスが大嫌い。死ぬほど嫌い。幼い頃から大人たちに無理矢理犯され,私は殺された。なのにサキュバスというこの体質は男を見境なく発情させる。これは悪意があるとしか思えないし,魔女狩りの地獄が永遠に続いているのと同じ」」
「ああ……わかってる。だがお前と同じ感情をもつ者しか甦えらせることができないんだ。これも皮肉というか,なんとも残酷な条件だ。そしてその苦痛,耐え難い責苦である
「「だから私たちは統合を拒否したの。お互いに,それぞれが男から与えられた憎しみと苦痛を共有し,すべての人間に復讐するために。仁,あなたには感謝と殺意の両方がある。この耐え難い苦しみを与えていることと,人間に復讐する機会を与えてくれたこと」」
「そうか……」
「「私たちは敢えてあなたを
仁とママは驚いてお互いに顔を見合わせた。同時に誰にも気付かれることなく,ほんの一瞬,まるで神話の龍のような,もしくは酷く下等な獣のような,聖書に出てくる悪魔のような姿が仁の内側から顔を出し悠依を覗き込んだ。
「驚いたな……俺にその条件を出したのは,お前たちで二人目だよ。その条件,確かにのんだ。お前たちが人間を滅亡するときは,この俺も一緒に消滅しよう。人間がいない世界など,俺にはなんの意味ももたないからね」
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