三ノ巻32話 迷うておるな
迷うておるな――
帝釈天はその顔を見、苦く笑ってまたかぶりを振る。
「――迷いなどあらぬ、と言いたげだが。それこそが迷うておるのよ。迷うておることすら分からぬほどにな。……と、それにしてもだ」
縮れた
「――ようも
表情を変えずかすみは言う。
「……確かに、言ったはずです。次に会うときは敵同士と。あなたも、私も言ったはずです。……お喋りの続きを、するつもりはありません」
帝釈天は、ふ、と笑う。
「――やはり、優しい」
真っ直ぐに目を見て続けた。
「――言葉でなく、その行ない自体が優しいのだ。真に戦意、敵意あらば、言葉を交わす暇も惜しんで斬りかかろうに。……いや、汝にも戦意はあろうが。それをも越えて
かすみの指先が震えた。刀を握る毘沙門天の指も、かすかに。
帝釈天はさらに言う。
「――そして。その優しさ故に、汝ほど怖い者はない」
かすみが何か言うより先に、帝釈天は続けた。
「――本地を持たぬとはいえ、地・空、最速の二体が相手にもならぬとは思わなんだが。それにしても――」
足下の怪仏を示した。
眉を上げ、おどけたように笑ってみせる。
「――なんとなんと、怖ろしい
かすみの頬が震える。視線をわずかに落とし、それでも胸の内から言葉を押し出した。
「……これ以上、お喋りするつもりはありません。引いて下さい……あなたも、そうなりたくなければ」
帝釈天はうなずいてみせる。
「――そうよな。もしも我が引かねば、汝はそうするであろう。嘘でも冗談でもなくな。優しき者、誰より情愛深き娘御。それ故に何より怖く、
視線を遠く天に向ける。
「――例えるならば。もしも一人子の命が
かすみの目を見て続けた。
「――汝も、喜んで殺すであろうな。そこな友らや、崇春らを守るためであれば。
その場から体をずらし、示した。倒れた二体の怪仏と。奥でただ震える、鈴下を。
「――かの者をも、殺すか」
弾かれたように、かすみは口を開いていた。
「それはっ……そんなことは、しません。殺……す、
言ってすぐに目を伏せた。いや、目を背けた。
帝釈天は変わらず、悲しげに笑っていた。その視線を
「――そうであれば良いがな。だが現に、怪仏を退けるにこれほどの力を以てした汝ぞ。怪仏の力を持ったかの者を捕らえるに、果たして加減などできようかな。否……」
目を見て続けた。
「――果たして、
「え……」
口を開けたかすみに、帝釈天は指を指した。
「――ゆめ、忘れることなかれ。怪仏と同じ業なくして、人は怪仏の本地とはなり得ぬ。……忘れるな。汝は、あれぞ」
かすみの顔を指していた指を上へと移す。かすみの前にそびえ立つ、毘沙門天へ。四つ並んだ異形の顔を歪め、歯を軋らせ。刃こぼれした刀を土に血に汚し、自らも血を流し。それでもなお吐息も荒く、震えるほどに武器を握り締める、
その目を。横を向いた顔の一つ、涙を流すその目を見て。かすみは息を呑んでいた。
あの目は。見覚えがある、そうだ何度も見た、鏡で。あの目は。
――私だ。
「あ…………」
かすみが声を洩らす、それを待っていたかのように。帝釈天は口を開く。血だまりに沈む怪仏を示して。
「――そうだ、汝ぞ。これを為したは汝」
震えるばかりの鈴下を示す。
「――そしてまた、かの者を殺めるは汝。友らのため、喜んでそれを為すのは毘沙門天ではない。汝ぞ」
「ぁ……あ……」
かすみはただ、口を開けていた。
否定したかった、違う、と、そう言いたかった。なのに、言葉が出てこない。呼吸は荒く音を立て、肩を大きく上下させてさえいるのに。空気が、空気が足りない。まるで息を吐くばかりのように。
喉はかすれる音を立て、なのに。空気が足りない。声が出ない。
帝釈天は目を伏せて、ゆっくりと大きくうなずく。
「――己を責むることはない。我も決して責めはせぬ……ただ事実を言うたまで」
それから黙った。誰も何も言わなかった。ただかすみの呼吸の音と、転がる怪仏が呻く声が時折聞こえた。
やがて、帝釈天は再び口を開く。
「――なれど。どうだ、我と来ぬか」
「……え」
顔を上げたかすみの目を見る。哀れむような目で。
「――それほどの業、抱えて歩むには重かろう。
言われてまた、かすみの胸が痛いほどに脈を打つ。
確かに、そうかもしれない。これほどの業を抱えて、この先――賀来や百見、崇春たちと。歩んでいけるのか?
帝釈天は言葉を重ねる。
「――なれば、ぞ。我と共に来るがよい、谷﨑かすみ。あの御方の
かすみの方へ手を差し伸べる。
「――そして、汝ならばそれができ得る。あの御方の力となり、世を救う
かすみの目を見据え、力強くうなずく。
「――案ずるな。我と共に来い、娘御よ」
立ち尽くしたまま、かすみの手がわずかに震える。
行って良いわけがない。良いわけがない、それは分かるが。
だが、行かないのならば。どうしたらいい? どうしたら?
その答えが出ないまま立ち尽くし。呼吸音だけが荒く、速くすらなって、かすみの内に響き続ける。
どうしたら――。
そのとき、不意に。
かすみの胸から頬に、駆け上がるように。わずかに細く傷が走る。
「痛……っ」
頬に触れると、かすかに血がにじんでいた。
なぜこんな傷が、誰も何も攻撃など――、そう思って辺りを見回す。
目が合った。倒れた賀来と斉藤の横にたたずむ、か細い花のような、吉祥天と。
吉祥天はまるで毒を吸い出すかのように、賀来の頬に――鈴下からの攻撃を受けた箇所に――唇を当てていた。【
吉祥天は何も言わなかった。唇を引き結び、ただ首を横に振った。振り回すように何度も何度も。
それからまた、かすみの目を見る。見覚えのある目――かすみと、同じ目。
かすみは息を呑む。呼吸が止まる。全身の動きを止めてそのままで、何秒かいる。
帝釈天がいぶかしげに眉を寄せる、それにも構わず。
大きく、息をついた。石になったかのように固い体、呼吸にすら苦労するほどこわばった胸のままで、ともかく。呼吸をした。
それから、帝釈天に向き直る。
「お断り、します」
その声は固く、震え、かすれていたけれど。
確かに、言った。
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