第19話 正体見たり
「うおおおおお! どこじゃあああっ!」
崇春は走っていた。校舎の廊下を、ぺちぺちぺちと裸足の足音も高く。靴箱に行く暇も、上履き――用の別の
教室には探している者の姿はなかった。ならばどこだ、帰ったか――帰り道を待ち伏せる気ならそうかもしれない――。
だが、その者は見てきたはずだ。今日一日、崇春が賀来を説得し続けるのを。ならば放課後も、崇春たちの動向を見ていたはず。だとしたら今、そうすることのできる場所は。
やがて崇春は足を止めた。化学室など特別教室の並んだ、人の気配がない三階の廊下。その窓から下をのぞけば、ちょうど裏門が――今もその横では、谷﨑と賀来が話している――見える位置。
正にそこに、その者はいた。隠れようとしたのか、窓際の柱の陰から、その巨体をはみ出させて。
「おう、こんな所におったんかい! 探したぞ」
「……ウス。何、スか」
同じクラスの巨漢、斉藤
崇春は笑って言う。
「いや、何。大したことじゃあないんじゃ。ただ、ちょっと呪いを解いてほしゅうての。お
「……」
斉藤は視線をうつむけたまま何も言わない。
崇春は言う。
「ときにお
右手に巻いた包帯――手の甲と手首を覆い、袖に隠れた腕の中までおそらく続いている――に、ちらりと目をやり、斉藤は答えた。
「ウス、ちょっと、故障で……昨日、今日も、欠席、ス」
「なるほど……しかし、はて。昨日はそんな物巻いとらんかったの」
包帯に覆われた手が、ぴくり、と動く。
崇春は続けた。
「故障で休んだ
そこでわずかに、斉藤の方へ、裸足の足をにじり寄らせる。
「いったい
「……!」
表情をこわばらせた斉藤が、滑るような足取りで身を引こうとしたが。一瞬早く突き出していた、崇春の錫杖の先が包帯をさらった。
その下には、太く筆で払ったような跡が二筋ついていた。いや、一筋というべきか。手の甲には黒々と、強く起筆を打った跡。手首の辺りには――ちょうど拳一つ分ほど――跡がなく、その先、前腕の辺りから、急に生えたみたいに跡が続く。急いだように、かするように払った、収筆の跡が。
その二つの跡の間に、百見の手に残った筆跡を添えたなら。起筆、送筆、収筆を備えた――本来なら収筆で払う字ではないが――、一の字が完成するだろう。
「そもそも妙じゃったわい、百見ほどの
崇春は右腕を胸の前で横たえる。
「お
左手で、その手首をつかんでみせる。
「さらに不意打ちと考えるなら、こうではないかの」
崇春は自分の首に、巻きつけるように右腕を沿わせる。手首をつかんだ左手は、それを引き
「背後から柔道の締め技をかけられ、それに抵抗する百見の手……そこをまとめて、広目天の筆が走ったか。そのせいで奴の腕には、起筆も収筆もない線のみが残っとった。とっさに
「……」
斉藤は何も言わず、視線をうつむけたままだったが。墨の跡が残る手を、今は強く握り締めていた。
崇春は続ける。
「
「……」
斉藤は何も言わなかった。ややうつむけたままの視線を動かすこともなく、ただ上着のボタンを外した。その下のワイシャツも。それらをまとめて脱ぎ捨て、アンダーシャツも同じく脱いだ。でっぷりと垂れて見える脂肪の奥に、それ以上の体積と質量を持つ筋肉を備えた、力士かレスラーにも似た
斉藤は後ろを向く。
「なるほど、一昨日百見が
錫杖で軽く自分の肩を叩く。
「じゃが、ま。そんなことはどうでもええ、皆の呪いを解いてくれんか。お
「……!」
ぴくり、と斉藤の筋肉がこわばり、脂肪が震える。そうして背を向けたまま、ズボンの尻ポケット――背中の筆跡のちょうど先――から、スマートフォンをつまみ出した。広目天の墨を浴びたか、画面は真っ黒に汚れていた。
斉藤はそのボタンを押し、画面を指で操作しようとしたが。画面が明るくなったのが分かるのみで、墨で何も見えなかった。
「そう、スか……知らなかった、スね……一昨日から、こんななんで」
崇春は言う。
「なるほどのう。それではガーライルが呪いの文を消しても、分からんっちゅうことか……ん?」
崇春は首をかしげた。
「一昨日から分からなんだとしたら。昨日は何で百見を襲うたんじゃ? 呪われよだの何だのと、ガーライルも喋ってはおったが……呪いの文自体は見れとらんはず」
錫杖を床について鳴らし、声を上げる。
「一つ聞く。
左足を前に踏み出しながら問う。
「――怪仏の力。いったいどこで手に入れた」
背を向けたまま斉藤が言う。
「ウス……それ、は――」
そのとき、その声にかぶさるように。別の声が聞こえた。地の底から響くような、石を擦り合わせたような。
「――それ、は。お前の意思ぞ、斉藤
斉藤の動きが止まっていた。スマートフォンを手にしたまま、まるで石になったように。
「――お前の意思ぞ。お前の守りたい者を守る、当然の意思ではないか。この世の誰も、それを否定できはせぬ」
「むう……!」
崇春は身構える。
さらに声が響く。
「――さあ、遠慮は無用、我が許そう。石の如く堅きその意思を以て、存分に振るえ我が力。唱えるがいい我が
「ウ……ス」
斉藤の手が震え、スマートフォンが離れた。それが音を立てて床に落ちる。
ゆっくりと振り向く。その両手が胸の前に上がり、太い指が不器用に組み合わせられる――手を合わせた、いわゆる合掌の形。だがその指のうち、伸ばされているのは親指、中指、薬指のみ。人差指と小指はそれぞれ向かい合わせに内へ曲げられ、爪を合わせるような形――。
「……オン・ヤマラジャ・ウグラビリャ・アガッシャ・ソワカ……
ぴき、と、ひび割れるような音が斉藤の足元から上がった。と思う間に、その音は巨体を駆け上がる。床から靴、脚、腹、腕、組んだ手へと。まるで凍りついてゆくかのように、その全てを石で覆いながら。
さらに肩、首、頭までも石に覆われ尽くした、その姿は大きな地蔵だった。崇春がかすみと出会ったときと、次の夜に戦ったのと同じ。
だがその姿が完成しても、ひび割れるような音は止まらない。まるで怒り狂うようにその全身を震わせ、柔和な顔にひびが走った。割れ落ちたその顔の下から、盛り上がるように石作りの牙が飛び出し、
震えが収まったそこには。体は地蔵のそのままに、古代中国風の冠の下、憤怒に歪んだ顔をした、石の
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