第8話  その仏、地獄の王

 そうこうするうちホームルームのチャイムが鳴った。先生が教室に来た後、起立と礼の号令がかかる。

 皆が着席して、先生が口を開こうとしたとき。


「先生」

 百見が真っすぐ手を上げていた。


 品ノ川先生は口を開けかけたままそちらを見ていたが。やがて言った。

「……何かなぁ、岸山くん」

「はい、転校して早々うっかりしておりました、申し訳ありません。僕と丸藤くんはまだ、転校の挨拶を済ませていませんでした」

 さすがに先生が眉を寄せる。

「何言ってる、昨日のホームルームでしていただろぅ」

「はい、ですが。まだ四名ほどの方たちには、ご挨拶できておりません」

 百見は表情を変えず、空いた四つの席へ順に視線を飛ばす。


 言葉が喉につかえたみたいに、先生は口を半端に開けて黙った。

 その間にも百見は淀みなく続ける。

「特殊な事情があるとは僕もうかがっております。ですが、それでもクラスの仲間になったことには変わりありません。できれば今日の放課後にでもご挨拶に行ければと。……そのため、四名の方のご住所か、入院されているのであれば病院を教えていただけませんか」

 もちろん、先方のご家族がよければですが。そう付け加えて百見は言葉を切る。


「……」

 先生は口を閉じたまま、眉間にしわを寄せていた。

 さらに百見は言う。

「お願いします。今学校に来られていない方々とも、ごく普通に共に学べる日が来ると、僕は信じています。少なくとも、そう信じたいと思っています。ですので、ぜひ」


 崇春も立ち上がり、勢いよく頭を下げた。

「お願いいたす。わしも同じクラスのもん、いわば同じ釜の飯を食う仲として、何とぞご挨拶をさせていただきたい」

 百見も畳みかけるように頭を下げた。

「先生。お願いします。彼にはよく言っておきますので、僕と谷﨑さんから」


 思わずかすみの肺の底から、ほ、と息が出かけた――私も? 全く何も聞いてないんですけど、私も?――。


「実はこのことも、谷﨑さんと話して考えたんです。三人で挨拶に回ろうって。谷﨑さんは僕と丸藤くんが転校してきて、最初の友達ですから」


 またしても息が出そうになってこらえた――いや、友達はそうかも知れませんけど、家族から情報を集めようというのは分かるんですけど。相談とかなかったんですけど全く?――。


 品ノ川先生はかすみの方を見た後、考えるように視線を泳がせる。

 顔が軽く引きつるのを感じながらも、流れを遮るわけにもいかず。かすみも立って、何も言わず頭を下げた。


 何秒か無言の時が流れた後。

 不意に大きく、手を打つ音が聞こえた。乾いた音で、ぱち、ぱち、と、ひどくゆっくりとした拍手のような。


 顔を上げてみれば。賀来が、無表情でゆっくりと手を叩いていた。

 なぜ彼女が百見を応援するようなことを。そう疑問に思ったとき、彼女の拍手に重ねるように、強い拍手が一つ続いた。まるでグローブを叩き合わせるような重い拍手。

「……ウス」

 振り向けば、一番後ろの席から斉藤逸人そるとが手を叩いていた。


 やがて拍手は一つまた一つと増え、ついには教室中から上がっていた。

「あー……分かった。お前たちの気持ちはぁ、よぉく分かった」

 なだめるように手を挙げ、それから肩を落として、品ノ川先生はそう言った。

「まぁ、そぅだな。向こうのご家庭の都合もあるがぁ、言ってることはもっともだ」


 生徒の視線を避けるみたいに背を向けた。黒板の上、壁にかかっている額縁を見上げるようにして言う。

「『自立と自律』……そうだな、自主的にぃ、かつ、自ら規律に沿って行動する……校訓にかなう行ないだ。分かった、ご家族には先生から確認する。許可が出たらぁ、行っていいぞ。ただし」

 崇春を指差して続ける。

「その服ぅ。縁起でもな――いや、ご家族の誤解を招く。着替えて行け。それにぃ、絶対に失礼のないように。それから遅くならないように」


 崇春が音を立てて手を合わせる。

押忍おす、ごっつぁんです先生!」

 百見はうなずく。

「分かりました先生。――崇春、ジャージは持っていたね。それと放課後は、一言も喋るな」


 先生は小さくうなずき、頭をかいた。面倒くせえなぁ、そう小さくつぶやいたとき。


 教室の反対側から声が上がる。非難がましい響きを持った高い声が。

「フ。……偽善だな」


 教室中の視線が集まるのを待って、おもむろに賀来が立ち上がる。それから、ぱち、ぱち、ぱち、と、再びゆっくり拍手をした。それをやめてから一つ息をつく。

「フ。――偽善だな」


 何だこれ。そうかすみは思ったが、とにかく賀来の言葉を待った。


 賀来は百見を指差す。

「偽善よ、偽善。貴様、ずいぶんと綺麗ごとを言っているようだが。挨拶などして何になるというのだ、目を覚まさぬ者を相手に。……しょせん、貴様が善人ぶりたいだけであろうが」


 ああ、とかすみは思う。発言の内容は置いておいて、なぜ彼女が拍手をしたのか。自分に注目を集めつつ百見をこき下ろす、そういう演出がしたかったのだろう。それが、他の子が百見へ賛同する拍手をしてきたので上手くいかなかった。だから拍手のところからやり直した――なぜそこまでしてそうしたかったのかは分からないが。


 百見は穏やかな顔を向ける。

「綺麗ごと、というのはよく分からないね。どうやら誤解があるようだ。僕らは別に、他人のために行くわけじゃあない。休んでいる方たちのために行くんじゃあない。逆に、僕らが挨拶をしたいだけなんだ。つまりただの我がままさ。もちろん、ご家族が気分を害するようなら行くつもりはないよ、魔王女たるカラベラ嬢」


 黙った賀来の歪めた頬が、見る間に赤くなる。だがやがて、振り払うような勢いで顔を背けて言った。

「フン……! いいだろう、好きにするがいい。だが覚えておけ、次に地獄の王が標的とするのは貴様かも知れんぞ」

 その言葉を聞いたとき、百見の眉がわずかに動く。


 それに気づいたかどうか、賀来は続けて言った。

「大した見世物よ……呪われる者が呪われた者を見舞うとはな。呪われよ。呪われよ呪われよ、愚かなる、傲慢ごうまんなる人の子よ! フフフ……クク、アーッハッハッハ!」


 ひとしきりの高笑いの後、賀来は普通に席に座り。教室中が沈黙した後――かすみたちは未だ立ったままだ――、辺りを見回しながら、ようやく先生が言ってくれた。


「あー、そろそろぉ、ホームルームをぉ……してもいいかな。……いいよなぁ?」


 クラスのほぼ全員は、感謝するような微笑みを向けてうなずいた。




「彼女、どういう人なんだい」

 休み時間、かすみと崇春を教室から連れ出し、百見は廊下の隅でそう尋ねた。


「どうって……ああいう人ですよ」

 そうとしか言いようがない。大体、同じクラスになって一ヶ月ほどだ。親しいわけでもなく、詳しくは分からない。


 崇春が笑って百見の肩を叩く。

「なんじゃ、今朝のことを気にしちょるんか? 百見らしゅうもないのう」

 百見はにこりともせずに言う。

「結論から言おう。彼女が怪仏の正体ではないか、そう疑っている」

「え……」


 かすみは息をのんだが、さすがに笑った。

「考え過ぎですよ、そりゃ呪うとか言ってましたけど」

「確かに考え過ぎかもしれない……が、無視できない言葉があった。『地獄の王が標的とするのは貴様かもしれんぞ』」

「言ってましたけど……適当に言っただけじゃないんですか」

 悪魔の王女なんて自称するような子だ。何人もの生徒が倒れている件を悪魔だの何だのと結びつけるぐらいは普通にするだろう。


「かもしれない。が、一つ聞こう。仏教において『地獄の王』といえば?」

 崇春が答える。

「そりゃあもちろん、閻魔えんま様じゃろうのう」

「そう、閻魔えんま大王こと閻摩天えんまてん、またの名を閻羅えんら王。だが……それがある仏と同体である、とする説がある」

 かすみは息をのむ。

「まさか……」


 百見はうなずいた。

「そう、地蔵菩薩。経典『地蔵菩薩発心因縁十王経ほっしんいんねんじゅうおうきょう』にはそう説かれている。罰する十王――閻羅えんら王を含む十人の王――と、救わんとする地蔵菩薩ら、十尊の仏は同体であり、人々を正しく導くためにそうしている、と。そう考えれば、地獄を模した世界を地蔵の姿をした者が操る……このおかしな状況にも違和感はなくなる」


「むう……」

 崇春は考えるように腕を組む。

 百見は言う。

「まだ決まったわけじゃあない、が。探りを入れる必要はありそうだ」


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