通報ゲーム(仮)
軒下の白猫
第1話
狂気の世界の始まりは、穏やかな春とともにやってきた。
ここは東京、花の都。時は3月。冬に積もった雪を、初春の優しい陽が溶かしてゆく頃、大手パチンコ店の一画で、まるでリオのカーニバルのように、ピカピカと光り、爆音を響かす筐体きょうたいと格闘する一人の若い男がいた。
きらびやかなパチンコ台、その横にある黒くて地味な紙幣の挿入口。男は霊に憑りつかれたかのようにズボンの後ろポケットから、二つ折りの財布を取り出すと、男の全財産である最後の諭吉をぬっと筐体に取り込ませていった。
この男の名前は及川渉おいかわわたる。年は22歳。H大学法学部の4年生であり、今は普通より一回分余計な春休みを送っている真っ最中であった。
渉が留年をしたのには、彼自身も自覚している原因がある。
彼は入学当初、住んでいた山梨の実家から東京の大学まで電車で通っていた。片道3時間、軽い旅行である。遊び盛りの大学生にとって、この3時間というのは辛いもので、渉はずっと一人暮らしをしたいと思っていた。
ろくにバイトの時間も取れず、友人との飲み会はいつも早帰り。通学時間は大学の課題で潰れ、平日の平均睡眠時間はたったの3時間。睡魔と闘いながら通学し、教授の長い説法を夢見心地で聞く。
そんな毎日に嫌気がさしていた渉は、大学2年目の春から一人暮らしがしたいと両親に懇願こんがんし続けていた。だが、親は猛反対。お前に一人暮らしは無理だと散々に言われ続けた。心配だとか言ってはいるが、渉にはそれが建前であるように思えた。それはまさに、大義という名のもとに独裁者の意思に従わされる独裁国家の国民にでもなったような気分だった。
そんな中で迎えた大学3年の春のことだった。父親の転勤が決まった。場所は広島県。現実的に電車通学ができなくなった。それではやむなしということになり、彼はついに念願かなって親元を離れ東京で生活を始めることとなる。
人生21年目にして初めての一人暮らし。言わば長年の独裁国家から解放されたようなものである。渉は、突如与えられた自由な時間に歓喜し、その時間を謳歌おうかしていくのだった。
しかし、それは堕落への転換点であった。長い間付いていた足枷あしかせの外れた反動はあまりに強く、その足はあまりに軽い。多くの自由な時間を得た渉は、大学の友人に誘われギャンブルに行くようになった。元々無類のゲーム好きだった彼にとって、はまるのに時間は必要無かった。
一人暮らしを始めてすぐの頃には、まだ授業にも出席していたのだが、そのうち授業をさぼって1日中パチンコ店に入り浸るなんてこともあった。まるで本分はギャンブルであるかのような生活。それはまるで絵に書いたようなクズ学生であった。
そんな状況で大学の単位など取れるはずもなく、留年が確定。さらにはギャンブルで負けては、次こそは次こそはと取り返そうとして借金を繰り返し、わずか1年で400万円の借金を抱えていた。
彼自身何度も立て直そうとしたことはある。が、それは思っただけに過ぎず、どれも行動に及ぶことができなかった。学生の彼にとって、400万という額はあまりに高すぎる壁となっていた。
1人暮らしを始めてすぐに、コンビニのバイトを始めていたが、バイトだけで返して行くには現実的な額ではない。夜勤フルタイムで入ったとしても、返せるのはほんの一部だけである。そもそも渉の性格上、コツコツというのは苦手であった。
ギャンブルの快楽は、いつしか義務感に代わり、気づけばそれは生活になっていた。ギャンブルをやめればいいことぐらい、渉にだってわかっている。しかしながら根っこまで絡みついた依存心には打ち克てなかった。
かといって、自分の理由で作ったゴミの山。借金のことを誰かに相談するのは、いらぬプライドが邪魔をする。つまりは、渉はただただ自分の行いによって膨らんでいく借金の額を、呆然と眺めていることしかできなかった。
むしろ、開き直りさえしていたのかもしれない。というより開き直ることでしか、現状を見ることができなかった。大雨によって氾濫したダムの濁流を眺める、そんな気分だ。いっそダムすら壊してしまえば流れきってしまうのでは?そんなことを考えてしまっていたのだった。
最後の諭吉が銀色の玉に溶け、パチンコ台のアクリル板越しをかたかたと流れてゆく。生活のかかった重い重いパチンコ玉が、一個また一個と落ちてゆく。ハンドルにかけている手は震えていたが、渉にはそんなことさえ気付く余裕はなかった。
「兄ちゃん。ちょっと兄ちゃん。」
誰かが肩をたたき、渉を呼んでいる。筐体に吸い込まれていた意識が我に返り、自分を呼ぶ方へと移る。渉が声の方に目を向けると、中背でニット帽をかぶった、やせ細った老人が立っていた。
「すまねぇけど、なんでもいいから口にするものを恵んでくんねぇか?」
いわゆるたかりというものである。普通であれば、景気がよさそうなドル箱を積んだ人のところに行くのであろうが、今日は平日。客の入りも少ない。たまたま目に入ったのが渉だったのだろう。
渉にとってはなけなしのパチンコ玉であった。借り物ではあるが全財産をかけた、言わば命の玉である。渉は少し考えたが、痩せ気味の老人の姿を見ると、親切心が利己心を上回った。
渉はパチンコ玉を数個片手に取り、老人に手渡す。老人はそれを受け取ると、両手でパチンコ玉を包み込むようにして握りしめると、額のところに運び、そのままくいっくいっと両手を振り、会釈を1回。感謝の意を伝えているようだ。
渉は片手で、大丈夫だよとジェスチャーで返事する。いろいろ言ってやりたいこともあるが、今はただ何も言わず、親切な人でいたかった。まるでダメな自分にいいところがあるとするならば、そんな親切心だけであったからだ。
また筐体に体を向け、パチンコ台に向き直る。時間と共に減ってゆく銀色の玉。命が削れてゆく、そんな気持ちだ。でももう後には引けない。だが、期待に反して借り物の命は、あっという間に光る筐体の中に吸い込まれていった。
冷や汗と共に体から血の気が引く。生きてはいるが、死んだような不思議な感覚。もう何度も繰り返しているはずだが、慣れない感覚である。思考は完全に停止。感情は辛いわけでも悲しいわけでもなく、「無」。そうただの「無」なのである。
とりあえず家に帰ろう。そう考えることができたのは、しばらくしてからだった。帰って寝よう。とにかく今は何も考えることができない。何も考えたくない。何もしたくない。ネガティブな欲望、それだけが渉を支配していた。
着ているウインドブレーカーのフードをかぶり、ポケットに両手を突っ込むと、俯いてとぼとぼ出口へ向かう。一面ガラス張りの出入口からは、今にも雨が降り出しそうな濃い灰色の雲が見えていた。俯いていた渉はそんなことにも気付かず、出入り口までの長い道のりを歩く。
「お兄ちゃん。ちょっとお兄ちゃん?」
途中で、ちょっと前に聞いた老人の声がしたが、渉が気付くことはなかった。無視をしたわけではない。ただフードで耳がふさがり、声が聞こえなかっただけだ。速足なのは元からで、別に意識していたわけではない。ただそれだけ、ただそれだけなのだ。渉はパチンコ店を後にし、アパートへの帰路を急いだ。
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