猫の選択と巨神戦争
にんべんもうす
第1章:邂逅編
01:参上
静かな夜だ。
澄み渡った星空に満月が浮かんでいる。
月光が谷間に濃い影を落とし、深いコントラストを描いていた。
谷底は緑に覆われ、所々に木が生えている。
中には大木と言えるような立派な木もあった。
谷の両脇は切り立った崖だ。
その崖の中腹にせり出した岩棚から、小さな影が谷底を見下ろしていた。
猫だ。
珍しい豹柄の、美しい毛並みの猫である。
ベンガルという品種の特徴的な柄だ。
ただの猫では無い。
二本足で立っており、マントを羽織っている。
腰にはベルトが巻いてあり、左右に一本ずつ剣を差していた。
手首と足の脛も防具で保護してある。
旅の剣士と言った装いだ。
猫は左手を剣の柄に乗せていた。
そう、『前足』では無い。『手』である。
指が伸びやかで、如何にも器用そうだ。
この手ならば、剣を十全に扱うことが出来るだろう。
猫は宝石のような瞳で谷底の闇を見つめている。
視線の先には焚き火らしき炎が揺らめいていた。
炎に照らされ、闇の中に幾つかの影が浮かぶ。
「さっそく荒事か……」
呟くように言った。
二本足、剣士の装い。
ただの猫では無いのは明らかだ。
だがそれ以外――体のサイズ、顔つき、毛並み、そして長い尻尾――全くもって猫なのである。
それが当然のように言葉を発していた。
猫は少し顔をしかめ、張りのあるひげを動かした。
夜目が利くので、状況が克明に見えるのだ。
焚き火は谷底でもひときわ大きな木の根元、少し拓けた場所で燃えている。
旅の一団の野営地らしかった。
その野営地が、賊の襲撃を受けているのである。
炎の明かりの中に縛り上げられ転がされている者達が見えた。
賊は皆抜刀している。
残った者に剣を突きつけ拘束しようとする者、荷物を物色している者もいた。
これ以上ここから眺めていても、状況が好転しないことは明らかだ。
「間に合ったのか、間に合わなかったのか、さて……」
猫はそう呟くと、するりと音も無く岩棚から身を躍らせた。
◇◇◇
大木の前の野営地で、兎の女が賊に追い詰められていた。
真っ白な毛並みの、美しい兎だ。
丸く黒い瞳、長い睫毛。
ピンと張った耳の先は、僅かにグレーである。
先程の猫の剣士と同様、二本足で立っている。
白を基調とした服に、白いマント。
神官や僧侶のような服装だ。
小さな銅製のナイフを胸前に構え、じりじりと後ずさる。
とん、と背中が大木に触れた。
「近寄らないで」
精一杯声を張る。
すると兎を取り囲む賊の一団から下品な声が上がった。
「へへへ、こりゃベッピンさんだ」
「平野住まいの女は、お上品な格好してやがるぜ」
鉈のような、大ぶりの山刀を突きつける三人の男達。
いずれもずんぐりと太く、灰色~茶色の毛並みであるが、よく見るとそれぞれ違う種族である。
狸、穴熊、ハクビシン。
皆二本足だが、基本的に何も身につけていない。
麻布らしきボロを頭に巻いているだけだ。
それにしても、どうした事か。
先程の猫、この兎、そして狸、穴熊、ハクビシン……皆当然のように二本足で立ち、喋っている。
そう、この世界を闊歩するのは人間では無い。彼等『
ここは毛民達の世界なのだ。
狸がボリボリと出っ張った腹を掻く。
見るからに不潔で、おそらく蚤だらけなのだろう。
それを見た兎が眉をしかめて言う。
「もう、汚いし、下品!」
男達から大きな笑い声が上がる。
狸が愉快そうに腹を揺すりながら返した。
「くっく。そりゃ、ちげぇねぇや」
ニヤニヤと厭らしい表情。
兎が不快そうにするのを楽しんでいる感がある。
「そりゃそうとな、おとなしく縛られてくれねえかな、ネェちゃん」
「まあ縛るときに偶然、いろんなトコを揉まれたりする事はあるかもだが」
「へっへっへ、そりゃしょうがねえ。そういう事もあらぁな」
男達は好き勝手に、さらに下品な言葉を放つ。
兎は足をタン! と強く地面に打ち付けてから、吐き捨てるように言った。
「これだからサンカは……!」
サンカというのは山間部で暮らす毛民を指す呼び方だ。
山窩と書く。少々差別的な言い回しであり、本来であれば山の民とでも言えば良いのだが、古くから語句として定着していた。
狸や穴熊といった雑食の毛民は狩猟と採取で食糧が確保できる。
平野の集落で他の毛民と暮らす者も多いが、時折、狩猟を中心に山間部を渡り歩きながら暮らす者が出てくる。
それが山窩と呼ばれる集団を形成するのだ。
打ち解ければ気の良い者も多いのだが、中には荒っぽい連中も居る。
そういう輩が、このような山賊まがいの略奪行為を行うのだ。
ややあって、男達三人の後ろからチッと舌打ちが響く。
「遊んでねえで、とっととふん縛れ。いただくモンいただいて、ずらかるぞ」
声をかけたのは背中に大剣を携えた狐の男だった。
長身で、抜け目の無い目つき。
堅い樫の木を加工した胸当て、籠手、脛当てを装備している。
戦士然とした風貌だ。
狐は
縛り終えると乱暴に蹴り転がし、地に伏した栗鼠は短い苦悶の声を上げた。
あたりには他にも縛り上げられた者が、いくつも転がっている。
とくに一行の護衛であった犬の剣士は、念入りに
犬は苦しそうな、悔しそうな声を上げて唸っている。
「ぐぐぐ……お、おのれ……」
狐は野営地を襲撃した際、最初に護衛の犬と対峙した。
対峙と言っても一瞬だった。
上段からの大剣の一撃で犬が構えていた剣を叩き折り、一行に降伏を促したのだ。
格段に腕の立つ男である。
その鋭い眼光に、狸達三人は震え上がった。
「へ、へい。残月のセンセイ」
「いやその、多少の役得はあっても良いかなって」
「そんな怖い顔しないでくだせえよ、センセイ」
残月がこの狐の名らしい。
センセイとは『用心棒の先生』といった意味合いである。
狐の種族は、どちらかというと平野で暮らす毛民だ。
ただ他の毛民との交流が少なく、また狩猟のみで生活している事から、概ね山窩の一部と見做されていた。
残月も狐らしく他の山窩とつるむことは少ないが、その腕の評判から時折こうして荒事の助っ人を頼まれることがある。
そうして奪った荷物の何割かを、報酬として貰い受けると言うわけだ。
この荒事専門の助っ人に凄まれると、狸達三人は従うしか無い。
「しゃあねえ、お楽しみはほどほどにして、ふん縛るぞ」
「俺が押さえつける。逃げ道塞げ」
「応、縄の準備は出来てるぜ」
兎はナイフを構え直し、抵抗の意志を固めた。
「くっ……!」
その時、兎の頭上、大木の梢が音も無く揺れた。
何か柔らかな塊が梢からするりと落ちてくる。
そして今まさに兎に飛びかからんとする狸の目前に、ふわっと着地した。
「「「!?」」」
その場の全員は一様に驚き、塊を見やった。
すると、その塊は見る間に高さを増し、首をもたげた。
猫だ。
先程崖から様子をうかがっていた猫である。
柔らかで滑らかな身のこなし。
音が、殆どしない。
猫は少し後ろに顔を向け、兎に声をかけた。
「無事か?」
「あ、あなたは……?」
「陽だまり集落の剣士ベルハイド」
それを聞いた兎は、すぐに思い当たったようだ。
「まさか、あのとき留守にしてた剣士さん?」
「ああ、詳しい話は後だ。護衛を遂行する」
そう言うなり猫、ベルハイドは賊に向き直り、剣を構えた。
両手に剣を一本ずつ。
二刀流だ。
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