第84話 なんの奇抜さもない平凡な大学の一日


 入学して丁度15日目の午前。中年の男性教員が黒板に数式を書き連ねていく。


 俺は講義室の最後尾で必修の講義を受けていた。


 最後尾とは、やる気がないヤツの席だ。


 大学の席順は基本的には自由。俺はどんな講義でも一番後ろに座っている。酒を飲んでも、スマホを弄っていてもバレないからだ。


 黒板から少しだけ遠いが眼鏡をかければ見えるので、内容を理解せずに板書を写すだけの作業にも問題は無い。


(数Ⅲとかもう全然分かんね……。というか、なんで入学早々に高校で一番難しい所を復習させるんだ? もっと前の方からやってくれ)


 微分積分とか社会に出てなんの役に立つんだよ、という言葉を高校時代ぶりに心中で吐き捨てる。


 同時に、他のヤツらはついていけているのかと思い、俺は周囲を気にかけた。


 離散的に座る同級生たち。彼らは入学したばかりでモチベーションが高いのか、非常に熱心な様子で勉学に励んでいる。


 ただ、明らかに集中力を欠いている人物が最後尾の同列に2人ほど見えた。どちらも見知った顔だ。


 黒髪の仮病欠席女……そう、たしか名前は西代にししろももだ。そいつは授業なんて全く聞かず、スマホを筆箱で隠しながら弄っていた。


 もう片方はバカの金髪。名前は……イヌ、ネコ……サル? なんだったか忘れたが、そいつは寝ていた。真っ直ぐ椅子に座り、一本筋の通った姿勢でバランスを保ちながら目を閉じている。無駄に洗練されているので恐らく常習犯。


(やる気がないのはこいつ等だけかよ……)


 俺と同じように勉学意識が希薄で暇そうにしている生徒がいれば、声を掛けてみようとも考えていた。しかし、見つかったのは彼女らだけだ。


 周囲への関心が失せたので、視線を黒板に戻す。目を凝らして数式を注視してみた。


(マジでなーんも分かんねぇな。まぁ、別に理解する気もないけど)


 …………隣で話でもしながら一緒に勉強できる友達が出来れば、また違ってくるのかもしれない。


(やっぱり、早いところ友達作らないとな)


 ガキみたいな志を立てつつ、俺は無言で板書をとり続けた。


************************************************************


「よぉーし。全員、プリント届いたなぁ」


 初老の男性教員がパソコンの前に座る俺たち学生全員に確認をとる。


 午後一番の講義はパソコン室Bでの実習だ。学籍番号順に割り当てられたパソコンデスクにA4サイズのプリントが配られてくる。


 この大学の学籍番号は生まれが早い者から名前順に振り分けられている。つまり、2浪組は学籍番号が最後の方であり連番だ。


「………………」

「………………」

「………………」

「………………」


 配線の都合なのかパソコンは4台ごとにテーブルで区切られており、俺はまたクズ女に囲まれる羽目になっていた。


 パソコンを使う講義はずっとこうなのだと思うと、気分がとにかく憂鬱になる。……お酒が飲みたい。


「今日は最初の実習講義だから、タイピングテストだけです。今配った3枚はワープロ検定の過去問をそのままプリントした物で、全部で2400文字ほどあります」


 配られた複数枚のプリントに目を通す。そこにはびっしりと文字列が記載されていた。


「打ち終えて提出した人から退出して結構です。さぁ、始めてください」


 初老の先生が合図をすると、教室内の全員がキーボードを叩きはじめる。


「…………ぐ、ぐぐっ」


 俺がこの大学の、この学部を選んだ理由は、偏差値が低くても就職に有利そうなIT分野であり男性比率が高そうだったから。


 何が言いたいかというと、俺は情報分野に全く興味がなかった。


 そもそもの話、俺はどちらかと言えば文系側の人間だ。テストの点数は理数系より現代文・地理・社会の方が圧倒的に高かった。


(スマホのフリック入力ならともかく、キーボードでのタイピングなんて久しぶりすぎて無理だ!! こ、これはヤバい……!!)


 両手の人差し指を交互に使って、何とか文字を打ち込んでいく。


(RあーるRあーる……キーボード上のRあーるが見つかんねぇ……!! どこだ!?)


 キー配列など中高生の時に一度か二度習った程度。当然覚えていないので、わざわざ打ちたい文字を探し出さなければならなかった。講義終了時刻までまだかなり時間があるが、ちゃんと打ち終わるか不安になるようなタイピング速度になってしまう。


「う、ぅ、ぅぎぎぎぎぃ……」

「う、ぅぐぐぐぅぅー……」

「「…………ん?」」


 隣の席を見ると、金髪が俺と同じように苦しんでいた。彼女は口で唸り声を上げながら両手の人差し指を宙にとどめている。その姿は実に滑稽だ。


 死にかけのハエの様に情けないクソ雑魚タイピングを見たせいか、思わず吹き出しそうになる。


「「ぶっ、ふふふっ」」


 同じタイミングでバカ金髪が俺を嘲笑った。


「「…………………………」」


 しばし無言で睨み合う。そして10秒ほど敵意をぶつけ合った後、互いが勢いよくキーボードに視線を落とした。


 目を皿のようにして、必死に文字盤から次のアルファベットを探し出す。


(あんな派手な髪色したバカそうなヤツに負けてたまるかよ……!! 絶対にアイツより先に打ち終えてやる!!)

(私、アイツ超嫌いー!! あからさまにバカにしてさー……!! あんなのに絶対負けないんだからー!!)


 ──カタカタカタカタカタカタカタ


「ん?」

「んー?」


 息巻いている俺たちの耳に、規則正しくキーボードを弾く音が聞こえてくる。対面の座席からだ。


「…………ふん」


 薄赤髪の女が無表情で華麗なタッチタイピングを披露していた。


 ホームポジションを保ちながら一切淀むことなく正確に文字を打ち込んでいる。その作業工程は『これくらい、出来て当然ではないですか?』と言わんばかりに涼しげだ。


(うっわ、アイツやっぱムカつくわ)


 その様を見て、嫌悪感を抱く。仏頂面がとにかく鼻持ちならない。


 カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタッ────


「え?」

「……は?」

「えぇー??」


 けたたましい打音に、3人の手がピタリと止まる。


 斜向かいに座る西代にししろもも。そいつが詰まらなそうな顔をしながら、下品なまでに早い速度でキーボードを叩き鳴らしている。


 冗談みたいな早打ちに、俺たちは度肝を抜かれていた。


「…………はぁ」


 ため息を1つ付いて、西代はマウスを少しばかり操作する。タイピングを止めたのを見るかぎり、打ち終えた文章を提出しているようだった。


 パソコンの電源を落とした西代が席を立つ。

 教室内で誰よりも早く課題を終えた彼女は、目立つのを嫌ったのか急ぎ足で退出していった。


「………………」

「………………」

「………………」


 な、なんだアイツ。


 実直な感想が俺達を包み込んだ。


 普段は不真面目だが、やる気を出せば優秀とか、よく分からない女だ、西代にししろもも……。


************************************************************


「すぅー……はぁー…………」


 提出課題を何とか時間内に終えた俺は、次の講義までの合間を縫って喫煙所でヤニ休憩をとっていた。


 ブラックデビルの過剰に甘い煙が、凝り固まった脳を優しくほぐしてくれる。


 普段はウィンストンの優しい甘さで十分だが、疲れている時は甘すぎるほどの煙草が好ましい。加えて言えば、これはタールとニコチンが強めなので、ヤニクラで脳が茹だる感覚も最高だ。


「え、えーと西代にししろちゃん? で、いいんだっけー?」


 ヤニの陶酔感に身を委ねていたその時、勘に触る間延びした声音が聞こえてくる。反射的に目をやると、うちのチュータ班の2名が煙草を吸っていた。


「さっきのタイピング早かったねー! 私、見ててビックリしちゃったよー!!」

「あ、うん。どうも……」


 いきなり話しかけられた西代は面を喰らって一瞬だけたじろぐ。


「てか煙草吸うんだねー!! ちょっと意外ー!! ねぇー、何吸ってるのー?」

「…………」


 陽キャオーラを全身から振りまいている金髪カールのゆるふわ女と、どことなく暗めな陰キャオーラを醸し出す素朴な女。


 端から見て、ダル絡みされている現場にしか見えなかった。


「こ、これだよ……」


 西代は懐から煙草の箱を取り出す。


「あー!! ゴールデンバットじゃん!! 珍しいの吸ってるねー!!」


 パッケージを見た瞬間、金髪は楽し気に銘柄を言い当てた。


 喫煙所を利用している人間の大半は男性だ。その中で、女の声は煙幕を裂くように響き渡る。


(ゴールデンバット? なんだそれ? 聞いた事ないぞ……)


 聞き馴染みない銘柄を遠巻きに聞いたので、俺は思わず首を傾げた。


「たしかー、昔の有名な小説家たちが好んで吸ってたやつでしょー?」

「う、うん……。ちょっとどんな味か気になってね。この前、通販で取り寄せたんだ」

「そっかそっかー。西代ちゃんってよく本読んでるもんねー! なっとくー!!」


 何が琴線に触れたのか分からないが、金髪はとにかく嬉しそうにしていた。


「あ、私も気になる煙草は直ぐに通販で買っちゃうんだー! ほらこれもそう! うるまUruma!!」


 特徴的なパッケージの煙草を金髪は懐から取り出した。紅白な色合いにタツノオトシゴ。目を引く配色だが、その煙草にも見覚えはなかった。


「ちょっとタールが重たくてヤニクラが止まんないけどー、吸いごたえがあって悪くないんだよねー、これ!!」

「……へぇ、そう」

「バットも同じぐらいのタール量だったよねー? 私も前に吸ったことあるけどー、甘めな感じで美味しかったー。昔は雑味が強かったらしいけどー、今のやつは全然そんな事ないよねー! てか、よくよく考えたらバットとうるまって3繋がりじゃーん!! なんか巡り合わせがいいねー!!」

「う、うん。そ、そうだね。そうかもね……」


 散弾銃のように飛び出る熱量の籠った語り口。


 なにか……こう、背徳感がほとばしっていた。後半は何の話をしているのか分からなかったくらいだ。西代も熱量の違いに引いている。


「……でも、これは僕にはまだ重すぎるみたいなんだ。吸ってみたけど、かなりキツイ」


 そう言って、西代はゴールデンバットのボックスを丸ごと金髪に差し出す。 


「煙草が好きならこれ、引き取ってもらえないかな?」

「え!? いいのー!? 本当にー!?」


 目を爛々と煌めかせて、ヤニカスは煙草を受け取った。


「ありがとー、西代ちゃん!! 私、まだバイト始めてないから超助かるよー!!」

「気にしないでくれ。じゃあ僕、もう行くから……」

「え、あ、うん……。またねー、西代ちゃん!」


 西代はまだ吸い掛けの煙草をスタンド灰皿に放り投げて、軽い別れの会釈と共に去っていった。


「…………んー」


 立ち去る西代の背中を眺めながら、金髪は未練がましそうな声を上げる。


「ちょっとぐいぐい行き過ぎたかなー?」


 彼女は寂し気な様子で、ポツリと小言を漏らした。


「はぁ……早く誰かと仲良くなりたいなー……同性の友達ほしぃー……」


 惨めな独り言がバッチリと俺の耳に入った。一人きりの生活をしていると、独り言が増え、声量が大きくなりがちだ。恥ずかしいので、俺は気を付けるようにしよう。


「すぅー……ふぅー………」


 気怠そうに目を細めて、金髪ヤニカスが一服を付ける。緩く巻かれた金糸の周りを紫煙がかすみの様に纏わりついた。


 今更だが、その姿を見て『意外だ』と思った。


 世間一般的に煙草を吸う女は少数派だ。煙の臭いが服に付きにくい加熱式ではなく、紙巻きを吸っているという点も珍しい。


「…………」


 俺は彼女の吸っている"うるま"とやらが気になったので、スマホを使い検索してみる。日本産の煙草のようで、概要を説明しているサイトをすぐに見つけた。


『沖縄県内専用銘柄・タール17mg・ニコチン1.2mg』


(おっっも!?)


 有害物質の比重がブラックデビルの比ではない。いつんでもかまわないと言うジジイが吸うような代物。"わかば"に迫る重さだ。


「あ゛ぁ゛ー、これ、超きくー、幸せぇー……あんまり吸い過ぎないよーにしないとー、元のラキストに戻れなくなーる……」

(ある意味スゲェなアイツ)


 女嫌いの俺でも、その垢抜けた外見には100点満点をくれてやっても良いと思っていた。だが、ヤニクラでパキパキにキマッている表情を見ていると、2点ぐらいが妥当ではないかと思う。


 悪いカレシの影響で煙草を始め、そのままドハマりした、とかなのだろうか?


(……やっぱ見た目通りの、軽そうな女)


 気づけば、俺の煙草はフィルターギリギリまで燃焼していた。


 近くにある別のスタンド灰皿で火をもみ消して、俺は喫煙所を後にした。


************************************************************


 ニコチンを給油した俺は、軽い足取りで次の講義室へと向かっていた。


 大学の敷地は広い。さっきとはまた別の講義室に行くため、外の街路樹を歩く。


 今日は次の講義を受ければ大学は終わりだ。夜にはバイトがあるので、俺は構内道路脇で立ち止まり、スマホでシフト表を確認する。


 俺は大学入学を機に一人暮らしを始めたわけだが、その引っ越し時期は2月の終旬頃。生活に慣れるために早めに越してきたのだ。金を貯めてバイクを買いたかったので少し前から居酒屋でバイトを始めている。


「さっき、喫煙所で同じ学科の女子見たわ。ほら、あの金髪の子」


 バイトの開始時間を確認して再び歩き出したその時、立ち止まっていた俺を追い越した男子学生の集団が気になる話題を口にした。


 恐らく、彼らは同じ学科の男子たち。そして、彼らの話題はさっきのヤニカス女の事だ。


「え? なにそれ、未成年喫煙ってことか?」

「マジか。あの子、派手な見た目どおりの感じなんだな」

「美人だけど、それ聞くとちょっと怖いわぁー」

「いや。あの人、たぶん2浪してんだよ」


 男子集団の1人が端的に核心を突く。


「俺、あの人が大学内のコンビニで煙草買ってる時、年確ねんかくされてるのを見た。普通にもう20歳なんだよ、きっと」

「あぁ、なるほど」

「……ふーん、そっか。そう言う事か」


 そこで金髪の話題は終わる。


 その後、彼ら別の話題を広げて雑談に興じた。会話は途切れることなく、楽し気な雰囲気は依然として続いている。


「………………」


 俺は、彼らから少しだけ距離をおいた。


『ふーん、そっか』


 その言葉の間の取り方が、実に絶妙な物だったからだ。


 自分が所属するコミュニティのはずを、肯定するわけでなく、否定するでもない。興味が無いのではないだろうが、口さがない話のネタには決してしない。


 良識的で、一般的に、やんわりと事実として受け入れる。


(まぁ、うん、分かるぜ。そんな当たり障りのない反応になるよな、普通)


 ……たぶん、へだたりというのは、ちゃんと存在する。 


************************************************************


 その日の夜22時過ぎ。


 コンビニで買った缶チューハイで喉を潤しながら、自転車を押して夜道を歩く。バイト終わりで疲れきった体に人工甘味料が駆け巡る。


 まだ慣れていないせいか居酒屋のバイトは大変だ。大学や企業の新人歓迎会シーズンであり、目まぐるしい勢いで入ってくるオーダに四苦八苦。酒の知識はあるのだが、注文を捌く力量が圧倒的に不足していた。


 バイト仲間とお喋りする余裕など、とてもなかった。


 押し歩いている自転車のかごには、既に4本の空き缶。体はどんよりと重いが、9パーセントを2リットルぶち込んだので、脳みそだけは心地いい浮遊感を感じていた。


「うぼぁー……」


 浮き上がりそうな心地に任せて空を仰ぐ。火照った体から蒸気を排出するように、大きく息を噴き出した。


 そうすると何の変哲もない夜空が目に入る。


 薄く光る星と中途半端に欠けた月、吸い込まれてしまいそうな真っ黒な中空。


 この時、何故か無性に孤独感に苛まれた。

 

(なんか……大学って思ってたよりも普通だ)


 身の丈に合っていない勉学。どこか純朴で壁を感じてしまう年下の同級生。うだつの上がらない日々。


 大学に入学して二週間、俺はまだ一度も、心の底から笑っていなかった。


(最近毎日、つまんねぇなぁ)


 何かが決定的に欠けている。漠然と、そうした考えにたどり着く。


(…………でもまぁ、たぶん何とかなるだろ)


 まだ入学して2週間と少しだ。


 きっとすぐに仲の良いヤツもできて、上手くやれる。高校の時の様に、友人に囲まれて、下らない馬鹿をやり、どこか遠くへ遊びに出かけ、楽しい4年間を過ごす。


 このまま大学生活が終わる、なんてことは絶対にない。人生の夏休みとまで言われている大学生活が、このままの調子で続いていくはずない。そのはずだ。


 失った2年の歳月は、必ず、別の何かで埋まるはずなんだ。


「んっ、んっ、んっ…………」


 不安感をかき消すように酒を呷り、俺はとぼとぼと帰路についた。

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