第53話 戻ってきた日常とひび割れ


 大学から徒歩10分。家賃7万6千円の2LDK。キッチン付きの広いリビングと8畳ほどの部屋が2つ。1部屋は寝室に、もう1つの方は遊び部屋と物置となっていた。


 寝室が男女混合になってしまっているが、俺は一切かかわっていない。何の説明もなく、さも当然のようにベット1つと布団3枚が運び込まれていた。当然、俺は抗議の声を上げた。しかし、使えるスペースが減るからという理由で俺の意見は3女に握りつぶされた。民主主義など糞くらえだ。


「「猫屋、陣内!! 退院おめでとう!!」」

「2人ともありがとーー!!」


 そんな新しい賃貸のリビングで俺達2人を囲む豪華な料理。平日の日中ではあるが、俺たちの退院記念パーティーが盛大に開かれていた。


「お持て成し、ありがとな」


 料理は和食に粉物こなもの。前者は安瀬作で、後者は西代作。こう考えると俺たちの得意料理は綺麗に分かれているな。和食は安瀬。洋食は俺。中華は猫屋。うどん、パン担当の西代。……なんか西代だけ限定的すぎるな。


「……ここにお酒があればねー」

「言うな猫屋。ノンアルコールがあるだけましだろ」


 どんよりとした目で料理を見つめる彼女。気持ちは俺も同じだ。料理には酒の当ても大量に用意されている。飲酒欲求のせいで唾液が出てきた。


「猫屋、お主も退院したとはいえ1月ほどは禁酒である」

「破ったらどうなるかは……分かってるよね?」

「あ、あはははー、うん、身に染みて分からされましたー……」


 猫屋は顔を引くつかせながら西代を恐怖の目で見る。凄いな、西代さま。猫屋にしっかりと恐怖を刻み込んである。


「でもコレだけは許してあげる」


 西代はテーブルの下からゴソゴソと何かを取り出して、猫屋に差し出した。


「はい、退院祝いのプレゼント」


 丸いフラスコにガラス棒が刺された、ケミカルな物体。フラスコの入口が白鳥の首のようにくびれている。用途が全く想像できない謎の品物だ。


「ぼ、ボングじゃーーーん!!」


 突如、猫屋がテーブルから身を乗り出した。


「何だそれ?」

「陣内、知らないのーー!? 煙草の煙を水で濾過してマイルドな煙を楽しめるっていう!! 有害な物質が水に溶けてー!! 煙が冷えるから喉が痛くならない、喫煙最強アイテムなんだーー!!」

「へぇ、そう」


 猫屋ほど興味を引かれない。煙草は大好きだけど、俺はそれより酒だ。


「わぁーーー!! フォルムが超可愛いーー!! サイズも手のひらサイズでお洒落すぎーー!! 西代ちゃん、いいの!? こんなにいい物貰っちゃってーー!!」


 水パイプをまるで宝物でもみるような目で見る彼女。テンションが跳ね上がっており、うるさい。


「水パイプならそこまで体に悪くないだろう? 猫屋はヘビースモーカーだからさ。我慢できないと思って買っておいた」


 猫屋は俺たちの中では喫煙量と共にニコチンタール量もトップだ。ラキストの重いヤツをまるで呼吸するかのように吸う。


「気に入ってくれたかい?」

「うん、うん、うん!! 超気に入ったーー!! これ高くて買えなかったんだよねーー!!」


 猫屋は早速、どこからか煙草の葉を取り出して水パイプに詰めた。水を内部に溜めて火を起こし、吸い口を咥えてブクブクと煙を吸い始める。


 説明書も見ずによく初見で構造が理解できるな。流石、辛党ヤニカス女。……傍から見ると危ない薬をやっているようにしか見えない。


「ぷはぁーーーー……あ゛ー、おいちーー……うへへー、コレかなり好きー」


 猫屋はご満悦そうに煙に溺れる。その表情は愉悦に塗れており、堕落しきっている。


 俺は彼女がどこかに意識を飛ばしている内に、西代を肘で小突いた。


「おい、あれっていくらしたんだ? お前、スタンガンなんか買ってたくせに金あるのかよ?」

「あぁ、実はとある女の財布から2万ほどスッてね」


 今コイツなんて言った!?


「その金でパチンコに行ったら、当たりが止まらなくて…………ふふっ、脳汁溢れる至福の時間だったよ。あの水パイプの資金はそこから出たのさ」

「…………」


 ど、どクズぅ……。


 でもいかん。それは本当にダメな事な気がするんだが相手が相手だけに、良くやった! という気分になってしまった。……まぁ、こっちは殴られまくって骨を折ったんだ。俺の入院費用を返してもらったと思うようにしよう。


「オホン」


 西代の所業に引いていると、安瀬のわざとらしい咳払いが聞こえた。


「陣内にはコレである。……お主は完治するまで使うでないぞ」


 そう言って、安瀬は俺の目の前に木箱を置く。


「え、まじか。俺まで退院祝いを貰っていいのか?」

「いいから、早う開けてみるでござる」


 安瀬はそっぽを向き、俺を急かす。ちょっと恥ずかしそうにしている。


「……じゃあ、遠慮なく」


 丁寧に木蓋を外す。中にあったものは六角形の徳利。注ぎ口の横に、小さな鳥のオブジェが飾られている。


うぐいす徳利とくりじゃねぇか!!??」

「えー、何それ?」


 猫屋がどうでもいい物を見る目で超高級徳利様を見る。教養の無いヤツはこれだから困る……!!


「知らないのか!? 酒を注ぐ時に鳥の鳴き声が鳴るっていう、超いかした徳利だ!! うおっ!? 笛盃まで一緒についてやがる!!」

「それって凄いのー?」

「これクソ高いんだよ!! ……あぁ、柄模様の梅木が渋い。マジでカッコイイ……これで日本酒が飲みてぇなぁ……」


 徳利には新梅木に鶯が羽休みしている絵が描かれていた。惚れ惚れする造形だ。酒器という物は何でこう美しいんだろう。やっぱりお酒様を受け入れる聖杯であるからか。……ぐへへへ、またコレクションが一つ増えたぜ。


「いい目利きしてんな、安瀬!!」

「そうであろう!! お主ならこの良さが分かると思っておった!!」


 酒器に関して、安瀬の古臭いセンスは抜群に発揮される。俺と安瀬が唯一趣味を共有できるのが唐津物の酒入れだ。


「……よく分かんなーい。お酒は好きだけどー、器なんて何でもよくなーい?」

「正直、僕も同意だ」

「はぁ? 目腐ってんのか? あぁ、そっか。品の無いお前らに風流を理解しろって言うのは土台無理な話だった。悪い、悪い」

「……喧嘩売ってるんだよねー、それ」

「アル中の癖して誰に口を聞いているんだい?」

「おう、何で勝負する? 麻雀か、ダーツか、ゲームか。トランプでもいいぞ?」

「止めい馬鹿共」


 一触即発の俺達を、安瀬が一声で制す。


「そんな事より、4人揃ったこの場で話し合っておくべき事柄があるでありんす」

「え、なーに?」

「陣内家や部室では適当に家事を担当しておったが、ルームシェアとなるとそういう訳にはいかん。家事は当番制を採用し、順番を決めておかねばならん」

「「「お、おぉー」」」


 安瀬のまともすぎる提案に、俺達一同は感嘆の声を上げた。まるで一家長。まとめ役として彼女ほどの適任はいないな。


「トイレ掃除はしばらくの間は陣内が担当するとして……」


 ……俺たち4人組のトイレは汚れやすい。原因は4人分のゲロのせい。今から少しだけ憂鬱だ。


「炊事と洗濯、風呂掃除…………あ、あ、後は、入浴の時間なんかも決めておいた方がいいでござるな」


 入浴の時間。それを聞いて凄く安心した。燃えてしまった賃貸の時は風呂の許可は俺が出していた。部室暮らしの際はそもそもシャワー室が男女別だったのでバッティングする可能性は無い。だが、ルームシェアの場合は違う。各々が好きに風呂に入ってよい。そうなると、風呂場で鉢合わせるというラッキースケベが起きかねない。……ラッキーにはならないな。多分、全裸なんか見たら殺される……。


「常に俺が先に入る。お前たちはその後。なるべく早く入るようにするから、それで構わないだろ?」


 俺は有無を言わさぬ口調で宣言した。女は男と違って色々ある。残り湯や痕跡を見られたくないはずだ。


「異議なーし」

「そうだね」

「では入浴に関してはそれで可決であるな!!」


 俺が常に一番風呂になってしまうな。まぁ俺はシャワーだけで済ますか。浴槽にすね毛とか浮いていたら、生物学上では女であるこいつ等は嫌がるだろう。


「猫屋、バイトを再開するまで家事全般は俺らが担当しようぜ」

「そーだね。私もしばらくはバイト休むしー」

「え、いいでござるか?」

「どーせ大学から帰ってきたら暇だしねー」


 ちょうどいいリハビリになるしな。


「お前たち2人はこの後バイトだろ? 俺の今日の予定はバイト先に顔出すだけだから、その時ついでに買い物してくる。晩飯は何がいい?」

「僕はシチューが食べたい気分だ」

「おぉ、我も賛成である」


 シチューか。時間があるからシチュールーではなく一から作るか。


「バゲットもよろしく頼むであるぞ!!」

「え、ご飯でいいんじゃないかい?」

「…………シチューにご飯は苦手である」


 西代の言葉に、安瀬は微妙そうに顔を歪めた。


「どうにも白米にチーズや牛乳を掛けるのは好かん」


 俺は酒飲みモンスターズの好物と苦手な物をきちんと把握している。しかし、喰い方の好みまでは把握できていなかったようだ。


「あぁ、なんか分かるぜ。俺もおでんをおかずに飯が食べれない。酒のつまみには最適なんだけどな」

「あー、私も熱々のご飯に生の刺身は無理。あと、沢庵たくわんとかの野菜類がおかずにできないタイプー」

「……言われてみれば、僕も納豆ご飯は苦手だ。納豆単品なら美味しく食べられるんだけどね」


 各々が米のお供に苦手な物を上げていく。こういう話を共有しておくことは良い事だ。ご飯を作る時に参考になる。


「……日本人というものは米を喰って生きてきた人種でござる」


 安瀬が急に神妙な声音で語り始めた。


「江戸時代中期にはご飯のお供番付が作られておったくらいじゃ」

「へぇ、さすが歴女。詳しいね」

「まぁの。せっかく議題に上がったのじゃから、?」

「「「は?」」」

「ご飯に合わないおかず選手権じゃ!!」


 安瀬が突拍子のない事を言うのは今に始まった事ではない……ないけど。


「それ、面白いか?」


 人の恥でご飯3杯いけると自負する俺だが、物理的に飯が不味いのは勘弁して欲しかった。


「……自分で言っておいてなんじゃが微妙かもしれんな」

「まぁ、やるだけやってみたらどうだい? もし食材が余っても酒の当てになるだけさ」

「でもそれだけじゃ詰まんなくなーい?」

「で、あるな…………では最下位だった者は学期始めの集会にメイド服で参加してもらおうかの」

「「「………」」」


 安瀬を除いた俺達3人は顎に手を当てて、罰ゲームに関して真剣に思考を巡らせる。


(いつも思うけど、酷い罰を簡単に言ってのけるね……)

(死ぬほどやりたくないな)

(でもー、他の3人がやってるのは見てみたーい……)


 一瞬だけ3人の視線が交わった。何を考えているか分かる。きっと自分以外のメイド服姿を想像している。俺だってそうだ。コイツ等がメイド服で『お帰りなさいませご主人様!!』なんて言う姿を見て爆笑したい。


「やろうか」

「やってみるか」

「やってやろうじゃーん」


 教養とセンスが試される知恵比べだ。感性が死んでいる酒飲みモンスターズに、俺が負けるわけがない。


「うむ、良い返事ぜよ!! 開催は明日の18時じゃ!! 各々方、全身全霊をもって食材選びに励むがよかろう!!」

「「「ははーー」」」


 正直、そこまで気乗りしていない今回の催し。ひりつくような逼迫ひっぱく感もないので俺たちのテンションもそれ相応。まぁ、退院して初めてのイベントだ。これくらいの緩い感じがちょうどいいのかもしれないな。


************************************************************


「って、事があったんだ。何かいい感じの食材はないか?」

「えぇー、急に言われても思い浮かばないっすね」


 俺はバイト先の店長に復帰時期について報告した後、従業員スペースで大場おおばひかりに相談を持ち掛けていた。


 大場おおばは俺と同じ大学の2回生。学年は俺より上だが、年が下なので敬語を使ってくれる出来た後輩……に見せかけた変人。を掛けて語尾にっす、とつける癖の強いヤツだ。


「というかっすよ……」


 大場がジトーとした片目を俺に向けてくる。


「陣内パイセン、また随分と変な事やってるっすね」 

「……そう思うか?」

「はいっす。話を聞かされるたびに、ヤベー生活してんなって思ってるっす」

「っふ、今回はまだ控えめな方だ」

「何の自慢にもなって無くて草っす」


 大場は呆れたように笑う。彼女には女性の生態関係で相談に乗ってもらう事が多々あった。酒飲みモンスターズが頻繁に俺の家に泊まり始めた際に非常に助けられた。生理用品とか女の風呂場事情とかは、1人っ子である俺には理解しずらい。なので大場は俺と酒飲みモンスターズが同棲している事を知っている。


「あ、いいのを思い出したっす」

「なんだ?」

「そら豆とかどうっすか?」

「……普通におかずになりそうじゃないか?」

「いや、潰した生のそら豆をご飯に混ぜ込むんすよ」


 何が変わるんだろうか?


「私のおばあちゃんが良くやってたんっすけど…………色合いが緑で食欲無くなるし、潰したせいかボソボソで青臭くて滅茶苦茶不味かったんっすよ。本当にげんなりするぐらいに……」

「へぇ、良さそうだなそれ」


 大場は自分の出身を岡山だと言っていたが、郷土料理だろうか。


「しょうゆ豆でやると美味しいっすけどね」

「ふーん、まぁ、助かった。そら豆を出してみる」

「お、採用っすか! ……負けても恨まないでくださいね?」

「分かってるよ」


 大場の顔色からして、結構なトラウマ飯のようだから期待していいだろう。


「じゃ、またな。今度俺がバイトに来るのは5月中旬くらいだ。迷惑かけるけどそれまで頑張ってくれ」

「はいっす! 使に掛かれば、バイト業務なんて赤子の手をひねるようなものっす!!」


 大場が急に眼帯にピースサインを添えて笑った。20歳女子の全力キャピキャピポーズだ。共感性羞恥のせいでサブイボが立った。


「いつも思うけど……その取って付けたような中二病キャラはやってて楽しいのか?」

「え、むっちゃ可愛くないっすか? 中二女子って今、流行ってるんっすよ」


 初めて聞いた。


「どこで流行ってんだ?」

「もちろん、私の中でっす……!!」

「……馬鹿みたいだから止めた方がいいぞ、それ」

「ふっ、天才とは凡夫に理解されないものなんっすよ」

「…………」


 俺の周りに居る女性は変なのしかいない。


************************************************************


 その翌日。


 俺は大量のそら豆が入ったビニール袋を片手に賃貸に向かっていた。もう片手にはノンアルビール。それをグビグビと飲み干している。


「あ゛゛ー、落ち着く」


 麦の炭酸水が喉を通るたびに心が鎮まっていく。酩酊せずに性欲減衰状態に突入する感覚は何とも言えない。


 俺は空き缶をビニール袋に突っ込み、スマホでエロワードを調べる。グラビア、AV、エロ漫画、エロアニメ、ロリ、熟女、貧乳巨乳、SM。高速でスマホを操作してコンテンツを流し見で消費する。目的は体質の再確認だ。病室でもノンアルは飲んだが、ルームシェアはその3倍は危険地帯。ノンアルでの減欲状態は不安定なので、どのくらいの効能があるのかを正確に把握しておく必要があった。


 結果は上々。


 直接的なアダルトを視聴しても俺の愚息はピクリとも反応せず、どこまでも広く深い性欲の大海はなぎだ。これなら、あの見目だけは麗しき3女と一緒に暮らそうが何も問題は無い。というか……


(なんか前より効き目が強くなってる気がする)


 性欲の小さな火種すら感じられない。理由は分からないがラッキーだ。きっと日ごろの行いが良かったのだろう。


「西代ちゃん、急いで!!」

「わ、分かってる!!」


 自分の体質を確認していた俺は、気が付けば賃貸前に到着していた。

 

「何やってるんだお前ら?」


 猫屋に肩車された西代が換気扇をガムテープで塞いでいた。その横の玄関口は大量の荷物類で封じ込められている。まるで部屋を完全に封鎖しようとしているようだ。ゴキブリでも出たか?


「じ、陣内君、お、おかえり」

「ただい……ん? なんか硫黄の匂いが────くっさ!!??」


 俺の鼻腔にあり得ない汚臭が飛び込んできた。

 

「おぇ゛゛!? な、なんだこの匂い!? ドブ川の匂いがするぞ!?」


 肉や魚の腐臭にチーズ等のキツイ発酵臭が混じった最悪の香りが賃貸から匂ってくる。


「あ、安瀬ちゃんがー、部屋内でを開封しちゃってー……」

「……なんだそれ?」

「ニシンの缶詰さ………」


 顔を青くした西代が猫屋からゆっくりと降りた。


「世界一臭い食べ物で有名だよ。あまりに臭すぎてテロ行為に使われた事があるくらい危険な劇物だ」

「……あ、あの気狂いめ」


 なんて物を部屋内で開封してくれてるんだ。異臭騒ぎになって隣部屋の方に通報されたらどうしてくれる。


 ガンガンガン──!!


「あ、開けてくりゃれ!!」


 玄関を叩く音と共に安瀬の悲鳴に似た大声が聞こえてくる。どうやら彼女は室内に取り残されていたらしい。


「死ぬ゛゛!! 臭すぎて、臭し゛ぬ゛ッ!! 後生の頼みであるからドアを開けて……うっ゛゛!?」

「安瀬、君をこの匂いが完全に消えるまで監禁させてもらうよ」

「な、何じゃと!?」


 扉を一枚挟んで、西代が安瀬に終身刑を宣言した。


「成約したばっかの賃貸でー、なんて物開封してんのさーー!!」

「うっ、だって……そっちの方が面白いと……」

「「臭すぎて面白くないよ馬鹿!!」」

「うぅ……」


 2人の怒声に押し負けたのか、安瀬は黙り込んでしまった。


 俺は扉越しの彼女に話しかけるため、少しボリュームを上げて声を出した。


「どんまい。まぁ喰ってしまえば匂いも消えるんじゃないか?」

「……あ、あれを我に食せと?」

「お前が開けたんだろ? それなら責任取って食べるのが筋ってもんだ」


 安瀬が好みそうな言葉を使い、彼女に発破をかけてみる。この強烈な異臭ではもうおかず選手権などやっている場合ではない。早急に事態を収めるべきだ。


「…………やれるだけやってみるでありんす」


************************************************************


 安瀬を監禁して、2時間が経過した。俺たちは激臭の中動くわけにもいかないので各自が持ち寄ったご飯に会わないおかずをつまみに酒を飲んでいた。もちろん俺と猫屋はノンアルコールだ。


 西代は臭さを緩和する為かハイスピードで酒を煽り、猫屋は常にブクブクと水パイプで煙を吸っている。……禁煙中だが煙草が吸いたくなってくる。


酒盗しゅとうって、この臭さの中で食べると全然生臭さを感じないね……臭いけど」

「分かるぜ。生でもそら豆が全然青臭くない…………臭いけど」

「……扉越しで、この臭さってマジでやばいよねー」


 口を開けば臭い、臭いと言い続けてしまう。それぐらい臭い。生ごみの隣で宴会している気分だ。


「安瀬ちゃん、随分と大人しくなったねー」

「諦めてニシンを食べてるんだろう」


 外でこの臭さだ。中は確実に阿鼻叫喚の悶絶地獄。そこで匂いの源である物質を1人で完食するのか……。


 身から出た錆とはいえ、ちょっとだけ可哀そうだな。


「……俺、中に入って様子を見てくるわ」

「え、まじー? やめといた方がいいと思うよー?」

「一度中に入ったら出てこれないと思ってくれ。僕らは異臭が収まるまでこの扉を開ける気はないからね」

「は、薄情だなお前ら」


 まぁ女というの生物は男以上に臭いのが嫌いだ。そういう反応は仕方ないか。


「はぁ……まぁ、匂いなら段々慣れてくると思うから素早く処理してくる」


 俺は彼女達にそう言い残して、扉を塞いでいる荷物を除けて中に入っていった。


************************************************************


「う゛、お゛ェ゛!? くさっ、お゛く゛っさ゛い!?」


 玄関を開けて室内に足を踏み入れたその瞬間、人生で初めて感じる汚臭で横隔膜が痙攣して吐き気が込み上げてきた。


(呼吸できないッ!! というか息吸いたくない!! く゛せ゛ぇえええええええええ!!??)


 俺は自分の軽率な行動を後悔した。安瀬なんぞ放って置いて外で待っていた方が100倍ましだった。


 この汚臭は慣れる事ができるような甘っちょろいモノじゃなかった……!!


「ウえ゛゛、う゛、ぉえ゛……く゛さ゛い゛゛ッ」


 俺は苦しみながら何とか足を進ませる。

 激臭に悶絶しながらリビングの扉を開けた。すると、テーブルでチマチマと魚の切身っぽい物を箸でつつく安瀬と目が合った。


 その瞬間、彼女はハイライトの無い暗い目を一瞬にして輝かせた。


「じ、陣内~~~!!」


 大声を上げて涙を流しながら、安瀬は俺に近寄ってきた。普段の彼女からはあまり考えられない行動だ。死ぬほど臭かったのだろうな。


 でも、今近寄られるのはまずい。安瀬はあの嗅覚破壊物体を食べていた。


「こ、心細くて゛死ぬかと思ったでありんす゛!!!! 臭くて不味くて寂しくて欝になりそうであ゛った゛ぁあ~。うぇええええん!!」

「ば、馬鹿!? 近寄るんじゃ──」


 幼児退行してしまったかのように、俺にすり寄ってくる彼女。俺の鼻腔に今世紀最大の汚臭がぶち込まれた。


「く゛゛っっっさあ゛!!??」


 普段の女らしい甘い匂いは一体どこに消えた!!??


「うっ、ひっく……お、お主なら来てくれると思っておったぞ!! さ、流石我の見込んだ男であるな!!」 

「ウェ゛゛ッ!!?? 臭すぎっ゛、お゛、お゛、お゛?! る……漏れ出るぅ!!」 


 目に染みるように臭い。人間の匂いじゃない……!!


「お、女に対して臭いとはなんじゃ!?」

「し、仕方ないだろ臭いんだから!! …………ウ゛゛ッ!!??」


 ボンッ!! と俺の頬袋が膨らんだ。


「おろろろろろろろろろろ」

「うぎゃああああああああ!!??」


 俺は安瀬の頭に向かってゲロをぶちまけた。


************************************************************


 ざぁーー、ざぁーーー


 背後からシャワーを当てて色素の薄い髪についた汚れを取り払う。髪質が良いのか一切の引っかかりなく指が通った。それでも女性の洗髪っていうのは男と比べて大変だ。時間がかかる。


「ひっく……うっ……ひっく……」

「いや、その……本当にごめんな?」


 俺は安瀬と一緒に風呂に入っていた。


 当たり前だが、全裸ではない。安瀬も俺も水着に着替えてから入浴している。……冷静に考えてかなりヤバい事をしている自覚はある。これは友人のラインを逸脱している行為だ。しかし、当然だが安瀬は俺の吐しゃ物に触れるのを嫌がった。となると、それを綺麗にするのは俺の役目だ。この状況は仕方がない事なんだ。


 というか俺のせいだ。マジで、本当に、ごめん。


「……うぅ、もう臭くないかえ?」

「あ、あぁ!! もう大丈夫だ!! ゲロは洗い流せたし、シャンプーのいい匂いがしてるぜ!!」


 嘘だ。正直、泡の香りに混じってほんのりとゲロと腐った匂いがする。安瀬には金輪際、嘘をつかないようにするつもりだったが早くも約束を破ってしまった……いや、でも、これは……許して欲しい。優しい嘘というヤツだ、大目に見てくれ。


「……でもまだ、少し臭い気がするでありんす」

「え、あ、そうか。ならもう少しだけ洗うか。目、つむってろよ」

「う、うむ」


 俺は彼女の生糸のような髪を梳くように洗い解す。彼女の髪に触れるたび、脳内から謝罪の言葉が山のようにあふれ出てくる。


「ど、どうじゃ陣内?」

「綺麗で艶のある髪だからシャンプーがよく馴染む。本当にごめんな。こんな綺麗な物を汚しちゃって」

「っ……そ、そうではない。その、えっと、ほれ……前の方にも汚れがついておらんか?」

「前?」


 そう言って彼女は少しだけこちらに身体を向けた。よく見ると結構きわどい水着だ。海に着ていくような物ではなく、先ほどスマホで見たグラビアアイドルが着ていそうな物。罰ゲーム用にでも購入したのだろうか?


(こ、この水着を着て、どうやって風呂場に突貫しようかと思っておったが……怪我の光明である…………)

「汚れてないな」

「しょ、しょうであるか」

「?」


 安瀬は俺の返答を受けて、何故か少しだけ肩を落とした。


(状況が最悪すぎて一切反応が無かったでござるぅ……)

「ほら、前向け。髪が洗いにくい」


 安瀬は俺の言う通りに前へ向き直った。

 少し視界に入っただけだが、彼女の水着姿は多分ドエロい。もはやその程度の低俗な表現しかできないほど、男の欲情を誘う危険物だろう。性欲が滾る感覚こそないが水を弾く玉の肌を見て、これは自分とは根本的に違う生き物なのだと強く自覚させられた。ノンアルを摂取していて本当に良かった……。


 無敵状態でなければ即座に襲い掛かっていただろうな。


 ピシッ──


「?」


 どこからか音が聞こえてきた。体の内側に響くような、亀裂の入る音。


「なぁ、なんか変な音が聞こえなかったか?」

「え、拙者は何も聞こえなかったでござるよ」

「? そうか」


 空耳か。


「はぁ…………風呂から出たら、2人であの劇物を処理するか」

「……今回は本当に申し訳ないでござる。つい好奇心が優ってしまった。に、二度とあんな物買わんぜよ」


 いや、本当にな。まじで臭い。臭すぎて失神するかと思った。


「反省してるならいい。次はもっと面白い企画を頼むぜ。毎度、楽しみにしてるんだからな」

「……ふふ、そうかえ? うむ、次は任せて欲しいでござる!!」


 安瀬が笑いながら俺の身体に背を預けてくる。人にしてもらう洗髪は気持ちがいいものだ。心地よさに任せて力を抜いたのだろう。彼女は俺を性欲無しの安心人間だと思ってくれているようだ。


 その信頼が嬉しい。……やはり性欲なんて俺には要らないな。俺は恒久的こうきゅうてきにこうやって振る舞い続けていればいい。そうすれば、きっと、彼女達は太陽のようにずっと明るく笑ってくれる。


 そんな事を考えながら、俺は彼女が満足するまで綺麗な長髪を優しく洗い続けた。


************************************************************


 風呂から出たその後、俺たちは5回ほど吐しゃ物をぶちまけながらシュールストレミング缶を処理した。風呂に入った意味など一切なかった。


 食べ物系の企画は二度とごめんだ……!!

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