第47話 猫屋李花の受難⓪


 お父さんがいなくなった。


 私がまだ、小学2年生の頃。両親が離婚した。悲しかったが、喧嘩ばかりする2人に嫌気がさしていたので清々したのをうっすらと覚えている。それにお父さんに会おうと思えばいつでも会えた。別居に近い離婚。他の家庭に比べたら円満な家庭崩壊だったと思う。


 ただ片親がいなくなるとやっぱり私は寂しかったのだろう。代替品になったのはスポーツ。それに、のめり込んだ。


 ママはキックボクシングの選手だったが、お父さんは空手家。その為、幼い頃から私は空手を主軸として習い、妹はキックを習った。格闘一族としては当然の二分だったのだろうと思う。


 私には才能があった。

 小さい頃から誰にも、男子にも負けなかった。努力すればするほど自分が強くなるのが分かった。それにスポーツ空手というものが自身の性格に合っていた。キックボクシングも相当やっていたが、私は強すぎた。同年代の子が私のパンチやキックで、泣いたり、顔を歪めてこちらを睨む姿はどうにも嫌いだった。


 防具越しに殴る、または寸止めで評価してもらえるノンコンタクトな伝統空手が私の性根にあっていた。もちろん、格闘技である以上は殴打はするし、怪我もする。それが楽しいのだけど、度合いの違いで私は空手が気に入っていた。


 それに……えっと、自分で言うのも恥ずかしいけど……私は無敵だった。連戦連勝で同世代では最強。どこまでも突き抜けて行けるような全能感が堪らなかった。取材なんかも受けちゃったりして、スポーツ新聞に載ったりした。空手の実力より、容姿が取り上げられてたのはちょっとだけ不服だったけど……まぁ、本当に全てが上手く行っていた。


 そんな順風満帆だった私が躓いた小石。肘の開放骨折。


「せんせー? それで私、いつ復帰できる感じですかー?」


 私は大きなギプスを装着して、ベットに横になりながら担当の医者に問いかけた。先生は優秀な外科医であり、お父さんの後輩で空手家でもあるらしい。そんな先生なら、私の復帰時期など難なく答えてくれると思っていた。


「…………」


 お医者さんは、私の問いに直ぐに答えなかった。


 肘を折った時の事はあまり覚えていないが結構な大怪我だったらしい。私は痛みと出血ですぐに意識を落とした。手術も全身麻酔だったため、うろ覚え。気が付いたらベットの上に居た、というやつ。


 だから……自分の怪我の事は何も分からない。返答が遅いのが少しだけ怖かった。


「……李花さん。あなたの過去の試合映像を見させてもらいました」

「え、えぇー……、な、なんか恥ずかしー……」

「非常に可動域のある肘と、優秀な反射神経。……ボクシングも習っていたおかげか打撃に肩が入っていて良く伸びる」

「あ、あははー、ありがとうございまーす!」


 褒めないで欲しかった。この後、良くない事を言われる前振りの様だったから。


「まず、肘が動かせるようになったとして……縦拳での打撃は禁止です。あれは横拳より肘に負担がかかりますから」

「あ、はーい。……結構なハンデになりそうですねー」


 縦拳はモーション無しで打てるので重宝していた。


「あとは、全力での突きは絶対にやめてください。インパクトの瞬間、反動で肘に大きな負担がかかりますから」

「……ま、まぁそれもだいじょーぶ!! どうせ寸止めするしねー!!」


 まだ……まだ、何とかなる。


「最後に……」


 お医者さんの話がほんの少しだけ止まった。


「恐らくですが……神経が損傷しています。麻痺や感覚の消失といった症状が出る可能性が高いです」

「…………え?」


 "麻痺"と聞いて、私は一気に怖くなった。


「そ、それって、治るんですよねー?」

「……神経系の回復速度は非常に遅い。症状が出てしまった場合は長く付き合っていく覚悟が必要です」

「長くって……どのくらいですか?」

「10年や20年といった単位です」

「あ、あははー……!! そうなったら、こ、困っちゃうなー!! り、リハビリで何とかなりますよね……?」

「肘の伸縮に関しては努力次第で何とかなるかもしれませんが、神経の麻痺に関しては難しいかと」

「…………」


 結論から言えば、私の右手には後遺症が残った。右腕を伸ばしきった際に末端神経に痺れが流れるようになった。日常生活にはあまり支障をきたさないが、それは腕を伸ばせば伸ばすほど強くなる。耐えがたい、神経をなぞる強烈な電流。突きを本気で打てば、動きが止まってしまうほどの強い痛み。


 だけど、私はまだ前向きだった。右が不完全でも、左がある。蹴りがある。これまでの努力と栄光を簡単に手放すつもりはない。


 再起までの日々は本当に地獄だった。

 必死にリハビリをしたが、肘を曲げ伸ばしする事だけで半年は掛かった。初心者のような下手くそな突きを出せるようになったのは、そのさらに半年後。そこからはリハビリで衰えた自分を徹底的に虐め鍛える。地道にマイナスを0に戻す作業。苦痛ともどかしさに、歯噛みした。健康体だった頃との対比に心が軋んだ。


 だが、私は戻ってこれた。努力して、本当に頑張って何とか再起まで取り付けた。


 試合結果は惨敗だった。


 楽に勝てる試合もあった。だけど、誤魔化しのきかない強敵と当たった際、私は本当に何もできなかった。特に相手が右構えになると酷かった。


 私は基本的には左構えオーソドックスのスタイルを貫く。その為、右構えサウスポーが相手になると前手が被ってしまい左手による突きが当たりずらく、右で有効打を取りに行かなければならない。


 そう……欠陥品の右で。蹴りは打てた。左も打てた。だが、右が重要な場面でそれだけがポンコツだった。


 その日最後の試合は一番ひどかった。相手は私の右肘の怪我を知っていたのだろう。蹴りは警戒されて有効打にならず、キレの無い右は逆にカウンターの餌食。何もさせてもらえずに8ポイントの差が発生して、試合は終了した。私の1年半の努力は3分も持たなかった。


************************************************************


「…………」


 負け犬が逃げ込んだ先はトイレの個室。1年半も頑張ったのに、何も結果を残せなかったゴミ。私にはお似合いの場所。


「…………っ」


 咄嗟に両手で口を塞ぐ。嗚咽と涙が止まらなかった。


「……っひ、……っ」


 弱い。


「…………ぅ」


 弱い。


 客観的に自分を評価する。1年半も頑張った。それで、復帰戦で惨敗した。辛くて泣く。


 ……仕方ない。仕方のない事。だが、それをバネにしなくてはいけない。敗戦をバネにして次、頑張ればいい。一流の選手の中にはケガから復帰して成功を収めた人が大勢いる。その人たちも最初の復帰戦で勝てたわけではない。敗戦の悔しさを燃料にして、再び自分を鍛えたはずだ。


 だけど、私は弱かった。


「もう……やだ……」


 心が弱い。


「……ひっ、………っぐ………」


 涙と嗚咽が止まらない。胸が痛い。もう何もしたくない。頑張りたくない。空手が楽しくない。何も楽しくない……!!


 何もできなかった。私の1年半は……なんだったの?


「……うっ、ひっく…………」


 惨めったらしく泣く子供。それで誰かが同情してくれるとか、助けてくれるとか、許してくれるとか、理解してくれるとか、そんな事を心の奥で考えて泣く、狡猾で浅ましいガキ。


 気持ち悪い、私。


「もう……いらない……」


 気持ちが悪くて弱い私も、今までの努力も、才能も、過去の栄光も、何もいらない。こんな思いするくらいなら、全部捨てる。本当に全部を捨てたい。何もかもから逃げ出してしまいたい。


 涙で滲む視界に入ったのは、体に引っ付いているだけの右手。ちっとも役に立たないジャンク品。


「…………」


 情けなく震える体を起こして、トイレの狭い個室でファイティングポーズをとった。……こんな所で拳を振るうために私は10年以上空手をやっていたのだろうか。そう思うと、惨めで変な笑いがでそうになった。


 ゆっくりと、右腕を大きく振りかぶる。狙うのはタイルのような固い壁。怪我をしてから、一度も本気で振り抜いた事の無い右の正拳。壁を撃ち抜けば反動に耐え切れず肘は砕ける。いや、どうせ壊すなら派手にいこう。縦拳だ。医者に止められた右の縦拳を打とう。


 それで、もう、頑張らなくていいんだ。


「っ」


 意を決して、床を軸足で蹴った。腰を廻して、本気で拳を振り抜く。


 しかし、拳は壁に到達する直前で止まった。私の心では、臆病風の逆風を打ち破ることはできなかった。無理して急制動したせいか、右小指に強い痺れが走る。


「…………ははっ」


 キモい。何なんだろう、私は? 敗戦を受け入れて進む勇気はなく、自分の体を壊す勇気もない。


「ははっ、………ぅ、……ひっ…………」


 泣いてもいいよ。


「う、う……っ、あ、ぁ……」


 だけど……立ち上がってね? これからも頑張ろうね? 壊さないなら、まだ続けられるよね?


「あ、あぁ、ぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!」


 そこで私は完璧に折れた。


 家に帰り、道具を捨て、賞状を破り、空手に関する物は全て視界から消した。練習なんて一切しなくなった。物や名誉を捨てるのは簡単だった。けど、最後に残った体は、壊す勇気がなかった。


 だから、煙草。

 煙を吸って痛みなく、ゆっくりと選手として戻れないように自分を壊していった。


 心の弱い私は煙草の中毒性に一瞬で飲まれ、体力はすぐ落ちた。そこからは自分の最大の長所を失った分を取り戻すように、おしゃれして、自堕落に遊んで、働きもせず、それを見かねた親にたいして偏差値の高くない大学に入れてもらった。少なくはないお金を支払ってもらって……今は自堕落で楽しい大学生活を送っている。


 あれー?? 情けなく逃げた癖に、ずいぶんと楽しそーに過ごしてるんだねー? 


 臆病で弱虫、救いようがない脆いガキ。死ねよ、私。大嫌いだ。

 

************************************************************


「な、なに考えてんだよ……」


 勝美さんとの話を終えた頃には既に辺りが暗くなっていたので、俺は猫屋家に泊まらせてもらっていた。今は猫屋の部屋で持参したノートパソコンを使い、陽光さんから貰ったUSBメモリーの内容をもう一度確認している。


 その中に、いぬい黒羽くろはの資料の他に2つの動画ファイルがあった。


 その中身の1つは猫屋が怪我した試合、1だった。


 見たくは無かったが、これから乾と黒羽を追い詰めるためには見なければいけないと思った。


 乾との試合の方は、猫屋と乾がもつれるように重なった際に動画は止まった。中途半端な終わり方ゆえに、その後の悲惨さが強調されるようだった。


 問題は復帰戦の方だ。


 猫屋が一方的に負けた相手。そのだった。


「ふざけんなよ……」


 素人目で見ても分かった。なぶるように、猫屋で遊んでいた。


「自分が命令して壊した相手だろうが……」


 勝った時、嬉しそうに笑ってやがった。


「何考えてんだよ、テメェ……!!」


 許されるのなら、本当に殺してやりたい。


 その日は強い怒りのせいで寝つきが悪かった。持参していた酒を飲み、復讐の決意を抱いたまま気絶するように無理やり眠った。


************************************************************


 翌日の3時10分。約束の時間を少し過ぎたあたり。猫屋家を朝早くに出て、色々とやっていたら時間に遅れてしまった。


 まぁ、構わないだろう。自己保身のクソ乾を待たせたところで、俺の心は全く痛まない。むしろ、清々とする。


 ……昨日見た動画のせいで気分が荒んでいる気がするな。


「早く済まそう」


 俺は乾家のインターホンに手を伸ばした。


「桜庭さん、ですよね?」


 そこで、突然、俺に対して声がかけられた。桜庭は偽名のため、反応がややおくれてしまう。


「……えっと、どなたですか?」


 声の主はガタイのいい、。もちろん、知り合いではない。


「少し、ついて来てもらっても?」


 男は名乗ることもせずに、俺について来いと言う。男の背後には黒くて大きな自動車が駐車している。薄暗くて見えないが車内には人影が複数確認できた。



 待ち伏せされていた。



 冷や汗が背を伝う感覚を感じ取る。得体のしれない悪寒が俺を包み込んだ。


「……貴方は乾さんの友人ですか?」


 男は俺の質問に答えない。ただ、その眉間に皺を寄せてめんどくさそうにこちらを睨んでくる。


 とても嫌な予感がする。


「それになぜ、私の名前を?」


 この偽名を知るのは陽光さんと乾のみ。


「乾さんから聞いたのですか?」

「……めんどくせーな。どうでもいいから、一緒に来い──」


 俺は男に背を向けて、全速力で逃げ出した。


「あ、おい! 待てや、コ゛ラぁ゛!!」


 この状況で大人しくついていく馬鹿はいないだろう。


「はぁ……はぁ……くそッ!! 大人数はダメだろ……!?」


 身の危険に任せてとにかく走る。それと同時に脳をフル回転させて現状を分析した。奴らの目的は俺の拉致だ。正しく言うなら、俺の手に入れた傷害の証拠。それの破棄だろう。


(だがどうやってあんな連中を集めたんだ!?)


 恐らく乾が用意したんだろうが、方法が分からない。陽光さんの情報によれば乾は既に空手部を退部してあるはずだ。違法行為に手を染める覚悟を決めた複数人の男共を集められる人脈などとてもないだろう。


「逃げられると思ってんのかッ!!」 


 背後からの怒声が思考を吹き飛ばす。男は俺を追いかけてきている。


(こりゃ、撒けないな……!!)


 首だけで振り向き、背後に迫る男を視界に収めた。脚力は俺の方が高いが体力はあちらの方が圧倒的に上のようだ。汗一つ掻いていない。それにたいして俺は喫煙者。短距離ならともかく、持久走はマジで自信がないんだよ……!! もう息が上がってる!!


************************************************************


「はぁ…………はぁ…………」


 逃走の末にたどり着いたのは、路地裏の行き止まり。小さなビルとビルの間にある、人目につかない暗い道だった。だが、その先には高いフェンス。とても登っている時間は無い。


「土地勘が無かったのが運の尽きだな、桜庭」


 背後を振り返ると、そこには先ほど声をかけてきた男……だけではない。他にも屈強なのが4人ほどいた。


「……なんか勘違いしてないか? 俺は確かに桜庭だが、追われるような真似してないはずだけど」 


 俺は念のため男たちに確認を取った。


「いいや? ……を探るドブネズミはテメェで間違いねぇよ」

「っ!!」


 男達の背後から、低い女の声が俺まで届く。


「……本人様がご登場とは嬉しい限りだな」


 偽りのない本心を述べた。見事に釣れた。状況は恐らく最悪なんだろうが、なんとかヤツを俺の前に引き釣り出す事ができた。


 男達の背後から俺の前に躍り出てきたのは、資料で見た通りの顔をした最低のクソゴミだ。


「会いたかったぜ……黒羽くろは 桔梗ききょうッ!!」

「あぁ゛゛? 初対面で呼び捨てかよ、テメェ」

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