第11話

 薄暗い部屋にオレンジ色に光る常夜灯が浮かんでいる。いつもと違う天井を不思議に思うが、一瞬にして昨日のことを思い出した。

 僅かな緊張感が佳穂を包む。

 掛け布団を鼻先まで上げ、周囲の様子を探るが衣擦れの気配は感じられない。

 重い布団から這い出た佳穂は、慎重に縁側に面した板戸に手を掛けた。


 昨日と同じ庭が広がっていた。ツツジを濡らす朝露が光っている。

 何者かが立っていないかと恐る恐る辺りを見渡すが、そこにはただ小ぢんまりとした庭があるだけだった。

 あの気配を警戒しながらも、佳穂は清々しさを感じている自分に気がついた。山の朝の清浄な雰囲気のせいだけでなく、あんな方法ではあったが夢の中でストレスを解消できたからなのだろうと分析する。

 スマートフォンを確認すると、時刻はもうすぐ七時になるところだった。三十分もすればヨエがやってくることを思い出して、佳穂は慌てて身支度を始めた。


 昨晩の夢を思い出そうとするが、記憶はところどころ抜けてしまっていた。ただ、元婚約者の顔をボールペンで何度も刺し続けたことと、何やら巨大な柱のような塊に婚約指輪を差し出したことははっきりと覚えている。

 洗面台の鏡に映った自分の顔を見てため息をつく。


 自分は恨んでいる人物の顔に何度もボールペンを突き立てる、そんな猟奇的な人間だったのだろうか。


 それを認めたくなくて、最近の元婚約者の行動が大きなストレスとなったから夢の中でああいった行動をしてしまったんだ、と自分に言い訳をする。

 きっと、あの白い塊に婚約指輪を渡したのは、この件はもう終わったこと、自分の中で区切りをつけたこと、というのを反映しているんだろう。そう結論付けた。


 身支度を済ませた後、布団を整えていると戸口を叩く音が聞こえた。

 静寂に響いた音にどきりとするが、ヨエが到着したことを察して玄関に向かう。摺りガラスの向こうに人影が見えた。

 もたつきながらも鍵を開け、引き戸を開けると、昨日と同じように荷物を持った朗らかな表情のヨエが立っている。


「あ、おはようございます」


 ヨエの姿を見てほっとすると、自然に明るい声が出る。佳穂の顔を確認するとヨエは嬉しそうな顔をした。


「おはようございます。ご縁があったようですね」


 言葉の意味を理解できていない佳穂をよそに、ヨエは家に上がると朝食の準備をし始めた。

 昨晩の夢のこと、ご縁があったとはどういうことなのかを何度か話題に上げようとしたが、切り出せないままに用意された朝食を食べ、茶を勧められるがままに飲んでいる。

 ヨエは茶を淹れてくれた後布団を畳みに奥の座敷へと行ってしまった。聞こえてくる衣擦れがヨエの発しているものだと知っているだけでだいぶ心持ちは変わる。


 ご縁があったとはどういう意味なのだろう。緑茶を飲みながら先ほどのヨエの言葉について考える。

 佳穂の知っている「ご縁」の意味は二つだった。一つは取引先などに使う「機会」、そして結婚式なんかでよく聞く「出会い」という意味だ。

 ヨエの言った「ご縁があった」はどちらを指すのだろう。


 機会という意味なのであれば、あの神様を見ることなく一夜過ごせたのだから、幸せになるチャンスを得たということになるのだろうか。

 そして、出会いという意味であったなら――思い浮かぶのは、夢の中に現れた巨大な白い塊のことだった。もしかしたら、あれは神様だったのかもしれないと考えてしまう。

 自分は神様に出会って、婚約指輪を捧げたということになるのだろうか。しかし、自分の不要になったものを神様にお供えするのは、推奨されないことのように思えた。

 そもそも夢の白い塊とご縁、そして神様を繋げて考える事自体が見当違いかもしれない。繋げられる情報が少なく、これ以上考えは進展しそうになかった。


 ここに居られる間に答えは出そうにない。

 佳穂は考えることを諦めて、スマートフォンで時刻を確認しようする。しかし、ポケットを探るが、スマートフォンは見つからない。どうやら六畳間に置いてきたらしかった。

 ヨエが布団を片付けた後に持ってきてくれそうだったが、そこまで手間を掛けさせるのは申し訳なかった。


 湯呑をテーブルに置くと佳穂は立ち上がる。六畳間に向かっていくが、足音を畳が全て吸収してしまう。近づいてくる佳穂にヨエは気づかないようだった。

 佳穂が奥の部屋に足を踏み入れると、戸棚の前に立つヨエの背中が見えた。開け放たれた戸棚に、小皿に盛られた何かや御神酒のようなものを置いている。

 昨日、ヨエの言った神様の存在に怯え、見ないようにした扉が今目の前で開けられていた。


 戸棚の正面にヨエが立っているため全体は分からなかったが、中はくすんだ紅のような色をしていて、神社などで見る紙垂しでが縄に吊り下げられているのが見える。紙垂の奥にも何かあるようだったが、暗くてよく見えなかった。

 見てはいけないもののような気がして、佳穂は襖の陰に身を隠した。ヨエが柏手を打つ音が聞こえる。しばらくして扉が閉まる時の軋んだ音がした。


「……すみませーん、こっちにスマホなかったですか?」


 素知らぬふりをして佳穂は和室に入った。振り返ったヨエの顔はいつもの笑顔だった。佳穂が覗いていたことには気がついていないらしい。


「あらあら、こちらですかね」


 ヨエの持つ盆にはスマートフォンが乗せられている。この場所では時計がわりにしかならなかったが、やはり普段手元に置いてあるものがないと不安になる。


「あ、これです。ありがとうございます」


 そう言ってスマートフォンを受け取るが、目線は自然と戸棚に行ってしまう。木でできた観音開きの扉だ。大きさは大人が膝を抱えて入って、少し余裕があるくらいだろうか。

 これ以上余計な視線を向けないように、佳穂は自分のスマートフォンに目を落とした。時刻を確認すると、もう九時を過ぎている。


「もう少ししたら出発しないといけないんですね……」


 少しばかりの名残惜しさとあの気配から逃れられる安心感、それと自分は幸せになれるのだろうかという不安が入り混じっていた。

 佳穂はヨエの顔を見る。にこやかな表情でヨエは同じようにこちらを見返した。


「私、幸せになれるんでしょうか」


 気がついたら、そう口に出していた。

 一度口を開くと、言葉は止まらなかった。


「何だか変な夢を見てしまって。昔の恋人と白い大きな何かが出てくる夢なんですけど……。その白い何かに、私が以前所有していたものを差し上げたんです」


 元恋人の顔をボールペンで穴だらけにしたことは伏せた。わざわざ言う内容ではないし、言える内容でもなかったからだ。婚約指輪のことを濁したのも、あれが神聖なものだった場合、自分の不用品を差し出したと言うのは何だか都合が悪いと思ったからだった。


「……宮地様が夢でお会いになったのは、この家に住まう神様ですよ。その神様に自分のご不幸を渡して、代わりに幸せを受け取ったのです」


 ヨエは笑顔のままだったが、はっきりとした口調で言った。


「この家の神様は、不幸を幸せに交換してくれます」


 ヨエの語る言葉に理解が追い付かない。しかし、話の全てを否定できるわけでもなかった。実際に自分は夢の中で不幸を手渡したのだ。


「神様はね、宮地様の不幸が何なのかずっと見ていたのです。それをこの家に来てお渡ししてくれるのを待っていたんですよ。お渡したことで、宮地様の中の不幸があった場所が、幸せに置き換わりました。すぐに幸せが訪れるわけではありませんが、これから運命の巡り合わせ、仕合わせが宮地様の良いように、うまく進んで行きますよ」


 柔和な表情ではあるが目つきは鋭く、これは真実であると物語っている。その目に見つめられると、佳穂は何も言えなかった。

 無言の時間が流れる。聞きたいことがたくさんあるのに、何を聞いたらいいのか分からなかった。


 そうしてしばらく、そのまま二人向き合っていたが、そろそろお時間ですね、というヨエの声でどちらともなく六畳の和室から出た。

 佳穂は荷物をまとめながら板の間を見渡す。壁際に置かれた白い電話が目についた。受話器を上げるだけでヨエに連絡がつくと言われていたが、使う機会が訪れなかったのは喜ぶべきことだろう。


――不幸を幸せに交換してくれる


 ヨエには濁して言ったのに、いわく付きの婚約指輪、それが分かっていなかったとしても何か不幸にまつわるものを渡したと確信している話し方だった。

 そして、この家に住む神様は、佳穂が渡すべき不幸が何かを見ていたという。この古民家に来る前に感じていた背後の気配は、神様が佳穂の不幸は何なのか見定めていた、ということだろうか。

 電車で見た背後に立つ影のことを思い出し、ぞくりとする。


 この家に住んでいるのは、不幸と幸せを物々交換してくれる神様だ。


 お守りやお参りでご利益がある、というのとは全く別物の話だった。

 不幸も幸せもどちらも概念的なものだ。しかし、もし人を不幸と幸せの詰まった容器だと考えるなら、長い人生の終わりまでにどちらもちょうど良く消費されていくのではないか。

 その不幸の一部を交換して、自分の幸せの持分が増えたということは、これからの運命が幸せ寄りに修正されたということなのだろうか。


 信じられない話だが、佳穂の頭はぐるぐると同じことを考えていて、それ以上の解釈を導き出せそうにはない。あの気配や夢のことを考えると、とりあえずヨエの話を信じるしかなかった。


「準備はできましたか?」


 まだぼんやりと考えていると、玄関から声がかかった。


「あ、はい」


 間の抜けた返事をして、荷物を確認した後、ヨエに続いて戸口を出た。引き戸が閉められるのを背後に感じて、佳穂は後ろを振り返る。

 大きな茅葺屋根を乗せた古民家が建っている。家から出てしまうと、体験した全てが現実のものではなかったように感じた。


「じゃあ行きましょうか」


 ヨエが摺りガラスの引き戸に鍵をかけて振り向く。この老女はいつも笑顔だ。


「はい、よろしくお願いします」


 帰りの車内は静かだったが、ぎすぎすとした雰囲気ではなかった。佳穂は少し考え疲れていて、後部座席に深く座り窓の外の木々をただぼうっと眺める。

 佳穂の脳内は古民家で起きたことを反芻していたが、分からないことだらけだった。これから自分の運命がどうやって良い方向に向かっていくのかも分からなかった。


 前日に通ったコンクリートの赤い橋を渡り、市街地に向けて山を下り始めた時、佳穂のスマートフォンから何度も通知音が鳴った。電波を拾ったことに気づき、慌てて消音モードにする。振動と共に、画面には次々と通知が表示された。


〈宮地和稔 十件の不在着信〉〈宮地智恵子 二十四件の不在着信〉〈会社 三件の不在着信〉〈木ノ内彩香 二件の不在着信〉〈新着メッセージがあります〉……


 意識が身体から離れる感覚がある。耳の中に心臓があるように、鼓動の音が大きく聞こえた。

 自分があの家にいる間に何かが起こったのだと、一瞬のうちに察する。

 スマートフォンは通信可能を表すマークと圏外とを行ったり来たりしていたが、何とかトークアプリのメッセージを受け取ることができた。

 父からメッセージが何通も届いている。


〈急ぎの話があるから電話に出てほしい〉

〈問題が起こってる〉

〈仕事中か?〉

〈佳穂の身が危ないかもしれない〉

〈あんまり電話に出ないから、佳穂の会社に電話しました。今日明日休みで旅行に行ってるんだってな。とりあえず良かった。電話できそうだったら、父さんにでも母さんにでも電話してほしい〉

〈一応、危険がなくなったから安心してほしい。会社から佳穂に何度か電話が行ったかもしれないが、たぶん父さんが電話した件だと思う。アパートに帰る前に一度電話くれると助かります〉

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