第8話
開け放たれた門から四角く見える家屋は、人気もなくひっそりと、そこに佇んでいた。
テレビでしか見たことのない茅葺屋根に、佳穂は歓喜の声を上げる。
ヨエが門の中へ促したので、佳穂は歩を進めた。門から家屋の戸口までは十数メートルほどの距離があり、きれいに敷石が並べられている。
その上を歩きながら、顔を右に向けると縁側と小さな庭が見えた。ツツジが咲いている。
古民家に近づくにつれ、茅葺屋根の大きさに驚いた。台形の重そうな屋根が、目深に被った帽子のように乗っている。
背後でヨエが扉を閉めた音がした。
「かすみの家はどうでしょうか?」
ヨエがゆっくりと歩み寄ってくる。
「初めて茅葺屋根のお家を見ました。すごく良い雰囲気です」
「喜んで頂けたなら良かった。それでは上がりましょうか」
上半分が摺りガラスになっている引き戸が開けられると、広い玄関が目に入った。
玄関を一段上がった先に、大きな板の間とその奥に台所が見える。昔は土間だった部分を、リノベーションしたのだろう。
板の間の右手には、入ってくる時に見えた縁側と畳の和室が続いていた。
靴を脱いでいると電気がパッと点いた。気にしていなかったが、山の中でも電気がちゃんと通っていることを知り安心する。
「さあ、どうぞ」
ヨエが用意してくれたスリッパを履き、案内されるがまま室内を見て回る。
かすみの家は板の間と台所、三部屋の和室で構成されていた。風呂やトイレは台所の隣に集められている。
ぐるりと家の中を一周し、最初の板の間に戻ってきた。
板の間には大きな木のテーブルがある。
壁際に電話台が置いてあり、ホテルの客室などでよく見る白色の電話が置いてあった。その隣には座布団が積み上げられている。
この家には、昔どんな家族が住んでいたんだろう。
佳穂は想像する。庭で仕事をする父親、土間のかまどで夕飯の支度をする母親、和室で遊ぶ兄弟姉妹……。
「それでは」
ヨエの声で想像から現実に戻って来る。
向かい合うように座った板の間。テーブルの上に一枚の紙が置かれていた。
「かすみの家の注意事項です。葉書にも載せておりましたが、ご確認いただけましたか?」
「はい、確認しました。確か、写真を撮ったり、人に話したりするのは駄目なんですよね?」
「ええ、ええ、そうです。その他にも気を付けていただきたいことが、何点かあります。こちらを確認してもらえますか?」
ヨエは目の前に置かれた紙に書かれた文言を読み上げる。
野生動物がいるため戸締りは必ずすること、宿泊代金は和室の封筒に入れておくこと、家で見聞きしたことは人に話してはいけないこと……。
「お食事は十八時半頃お届けに上がります。その時、お布団も敷いていきますね」
夕食は何が食べられるんだろうと佳穂は楽しみにしていた。道中の車内でヨエが魚介類が名産だという話をしていたから、魚料理がメインだろうか。
「さいごに」
ヨエは佳穂の目を見た。
「この家には神様が住んでおられます」
「え?」
調子はずれの声が出た。
神様だって?
「えっと……、それはこの家に誰か、人が住んでいるということですか? それとも神社か何かという?」
「いいえ、人でもなく、想像上のものでもありません。この家屋には神様が住んでおられるのです」
ヨエがはっきりと言うので、佳穂は次の言葉が見つからない。
日本には八百万の神がいると、昔から言われてきたのは知っている。存在する全ての物に神が宿るとも聞いたことがある。この古民家やテーブルや座布団にも神が宿っている、という話なのだろうか。
しかし、ヨエがそういった信仰を持っていたとして、その物たちに宿る神を、住んでいると表現するのだろうか。
「こちらから何もしなければ、何か害を受けることはありません」
考えがまとまらず言葉を発することができない佳穂を、ヨエは納得したのだと判断したようだった。
「ですが、その神様のお姿を見てはなりません」
ヨエの顔は真剣そのものだった。
「視界の端に映り込むくらいであれば大丈夫ですが、しっかりと目にしてはなりません」
「もし、見てしまったら……?」
「……その時は、その時です」
曇り顔のヨエは、佳穂に言い聞かせるようにゆっくりと話す。
その表情からは、良くないことが起こるのだ、ということがはっきりと伝わってきた。
急な展開に頭が回らず動けない佳穂をよそに、ヨエは立ち上がった。
「こちらにある電話ですが」
白い電話をヨエは指し示す。
「受話器を上げれば、私の家に繋がります。もし、どうにもならなくなってしまった時、連絡をいただければお迎えにあがります。十分もあれば、こちらに到着できます」
この家に一人、取り残されるということを認識させられる。
急に恐怖を感じてきた。もしかして大変なところに来てしまったのではないか。
不安そうな顔をしている佳穂に気が付いてか、ヨエが微笑む。
「宮地様なら、大丈夫ですよ」
また十八時半頃にお伺いします、と言ってヨエは去っていってしまった。
あんな話を聞いた後だから心細くなる。
茅葺の家屋は静寂に包まれていた。外で聞こえていた鳥の声や木々のざわめきは、まるでなかったかのように静かだった。
神様が住んでいるというのはどういうことだろう。
ヨエの真剣な眼差しを思い出す。冗談で言っている訳ではなさそうだった。
かと言って、その神様が自分にも見えるものなのかは分からない。
いわゆる霊能力者と呼ばれる人や神職でなければ、知覚できないものなのではないか。
自分にはそんな力はない、と考えたところで、はっと気づく。
ここ最近度々感じていた、奇妙な背後の気配。確かに自分は人間ではない何かの気配を感じ取っていたではないか。
あれはいつから始まったのか。かすみの家の宿泊が決まった頃ではなかったか。
もしかして自分はずっと見られていたのではないか。
佳穂の身体を不安が支配する。
テーブルに置かれたままになっていた注意事項の書かれた紙を、震える手で取った。何かしていた方が、不安から目をそらすことができる。
もう一度初めから全て読み直し、代金を支払うために先ほど案内された和室へ向かった。
庭が見える縁側の前に、和室が二つ並んでいた。襖は全て開けられており、その二間は板の間から続いて見える。
視線は斜め下を向いて、足元だけを確認する。庭や壁際に誰かが立っていないか、気が気でなかった。
奥の和室には、ちゃぶ台が一つ置かれていた。茶封筒が盆に乗せられている。
佳穂は財布から一万円札を取り出すと、茶封筒に入れ、元の場所に戻した。
家屋の奥側に、今の二間より小さい六畳の和室があった。今夜はここで眠りにつくことになるのだろう。
恐る恐る六畳の部屋を覗くと、他の部屋と違い、押し入れと戸棚があるのが見える。
むやみに開けることはしなかった。神様がいるかもしれないという恐怖の他に、自分の住処ではない家屋の収納場所を開けて回るのは、恥ずべき行為だと思ったからだった。
音楽でも流して気を紛らわそうと思い、ポケットからスマートフォンを取り出す。
ロック画面の時刻は、十七時三十分を示している。
「あっ」
思わず佳穂の口から声が漏れる。
スマートフォンの右上に圏外と表示されていた。
確かにこの山の中だ。電波が届かなくてもおかしくはない。
佳穂の不安が加速した。
今日ほど、誰かと繋がっていたいと感じたことはない。
佳穂は電波を拾える場所がないか、スマートフォンを片手にうろうろと探し始めた。
板の間まで戻ってきても、スマートフォンは圏外のままだった。
落胆のため息とともに、佳穂は座布団の上に体育座りをする。
腕に顔を押し付け、少しでも気持ちを落ち着かせようと努力していた時だった。
背後で衣擦れのような音が聞こえた。
はっと顔を上げる。
早鐘のように胸が鳴っていた。
キーンと耳鳴りがするような静寂の中、つい数分前まで立っていた和室で何かが動く気配を感じた。
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