#7 《最強味料》(下)
──マヨネーズとは!
主な材料は卵ッ!! 酢ッ!! 油ッ!!
それらを掻き混ぜ完全に乳化させた、ドレッシングまたは調味料のことである──ッ!
一説には──。
発祥はある世界、地球、ユーラシア大陸の南西端。
18世紀、メノルカ島。現在の
港町マオンにて、とある公爵に提供された肉には、ソースが添えられていた。
そのソースを大層気に入った公爵は、花の都パリへと持ち帰った。
そして、それらを地面に召喚し、敵の足元を
「──『
彼の周囲を、地面を、一面を。
ドロドロとした半個体のドレッシングが──大量のマヨネーズが覆い尽くす。
触れた物体の自由な場所から無限のマヨネーズを召喚する、それが彼のチート能力!
その名も──【
「俺は好きな物に敬意を持っている。好きな物を崇拝している。本当は、こんな風に食べ物を粗末にはしたくはないのだがな……しかし、やれやれ。どうやらこちらも全力で挑まなければならないらしい」
低く唸り声を上げるフェンリル。
その鼻先に向けて、レルドルは指さした。
「貴様、俺よりもレベルが上だな?」
ラーシャはごくり、と
彼よりもレベルが──上?
レベル差とは、ある程度ならば技術や才能で補える。
それは、常に生命の危険と隣り合わせな冒険者であれば、当然に知っている常識である。
彼ほどの技量であれば、15レベルは離れていても、楽々と対処可能であろう。
そして、彼女にも分かる。
あれだけの量──一帯を埋め尽くすほどの物体を召喚すると言う魔術の高等さを。
技の有効活用出来るシーンは、最初の一回。
所謂、初見殺しだ。
詰まり、あの技はレルドルの切り札である。
レベル差に警戒すると言うことは、切り札を切らざるを得ないのは、それだけ相手との戦力が掛け離れていると言うこと。
ラーシャは睨め付ける。
そして、一つの呼称が反芻する。
「──神獣。そう呼ばれているそうだな」
ぽつりと、彼は呟いた。
「大層な渾名じゃあないか。だがな、俺には分かる。貴様は到底、神には及ばぬ。神の加護にすら及ばぬのだ。所詮は獣と言った所か」
口元は捻り曲がり、赤々しい歯茎と鋭い牙とが、剥き出しにされていた。
碧い瞳には、赤黒い血管が顔を覗かせ、白目の部分に血が充たされている。
ガルル、ガルル、地を轟かす唸り声は、尚も木々の木の葉を揺らしていた。
──怒り!
それは圧倒的なまでの怒りに塗れていた。
純白の身体は黄色に汚れ、高潔な精神は赤色に穢れる。
獣は、人の言葉を知らさずとも、人の感情を察することは出来る。
故に、己が今、眼前の敵から最大限の屈辱を受けていることを、理解していた。
「ガァァアア、ァア、グルッ、ァ……!」
「ふむ。滑らないよう、深く踏み込まない姿勢に……弱ったなぁ。やるじゃないか」
全身の毛が、逆立つ。
胸の内にある激情が、嚙み殺せと叫んでいる──!
踏み躙られたプライドを取り戻すべく、雪辱を晴らすべく。
フェンリルは、敵を抹殺せんと飛び出した──!
重心を器用に調節し、フェンリルはマヨネーズの上を高速移動する。同様に、レルドルもマヨネーズ上を疾走した。
(両方とも、さっきより疾いッ! 油の滑りやすさを利用して、氷の上みたいに滑ってるんだ!)
両者の速度は、ほぼ互角。
マヨネーズについて熟知するレルドルと、そもそもの身体能力が勝るフェンリルの速度は、奇しくも拮抗していた!
その様は正に電光石火ッ! 疾風迅雷ッ!
剣戟と凶爪が激しくぶつかり合い、甲高い音を振り撒いている!!
ラーシャの眼では追うのがやっとであった。
(あの人の疾さと神獣の疾さ、一見拮抗しているように見えるけれど──神獣がこの地面に慣れられたら、一気にあの人の分が悪くなる!!)
空から降り注ぐ無数の氷塊。
それらを疾さのみで回避、無力化し、ただの一つも重傷へと繋がらせない神獣!
苦虫を嚙み潰したような表情で、彼は爪の連撃を
「ハァァァァアアッ!!」
「ガルァァァァアアッ!!」
高速で移動する彼らを見て、彼女は額に汗をつたわせた。
(この勝負、早く決着を付けないと、不味いッ!!)
ラーシャは思考する。
何か自分に、出来ることは無いか?
何か自分に、成せることは無いか?
何か……何か!
何か自分に、手伝えることは──。
『キミぃ、はっきり言って剣のセンス無いよ。意地悪じゃなくてね、こっちもキミの為に言ってるの』
『騎士が無理なら今度は冒険者って……。ちょっと、アナタも何か言ってやってよ……』
『足手纏いだからだ』
(出来るの? あの人も神獣も、あんなに強いのに。こんな私に……?)
視線を、彼らへ移す。
残像を描きながら殺し合う、一人と一匹へと。
文字通り、
出来ることなんて無い。
成せることなんて無い。
手伝えるなんて
(──違う!!)
それでも彼女は否定する!
己の弱さを否定せざるを得ない!
暗くなった思考を振り払う。
考えることは止めよう。
彼女はただ、感情に任せ──。
「私を、見ろ……ッ!!!!」
──叫んだ!
両者の動きが、一瞬止まる。
ぎょっとした眼でこちらを見詰めるレルドルと、彼女は目が合った。
獣はラーシャ目掛け、駆け出した。
……彼女の目論見に反する形で。
動いたのはフェンリルではない。
その後ろに構える、凡そ20体程度の、フォレスト・ウルフの群れである。
──その瞬間、地面は崩壊する。
「ギャウ!?」
狼達の身体は地の底へと吸い込まれた!
地中に召喚されたマヨネーズが地面を軟化させ、
彼のチート能力【
地面一杯に撒かれたマヨネーズは、盛り上がった土を誤魔化す為の
実の所、彼が冗長に喋っていたのも、地中の土と土の隙間へ、マヨネーズをじっくり召喚・浸透させる為の時間稼ぎであった!
──しかし。
本来ならば、
初見殺しを潰された今、その秘策は最早、意義を消失したと言っても過言ではない。
総てが、水の泡。
沈む仲間の背を踏み越えて、狼達は着々とラーシャへ迫っていた。
(作戦台無しにして、自分勝手で死に掛けて、死に際まで周りに迷惑掛けて……。これじゃあ本当に、足手纏いじゃない)
彼女の脳裏に、先刻の、レルドルの瞳が映し出される。
驚いていた。青ざめていた。
『足手纏いだからだ』
(……心配してくれたんだ)
目と鼻の先にまで、狼の軍勢は迫る。
涙が溢れる。
悔しい。何者にも成れなかった、こんな自分が悔しい。
怖い。格好を付けてみたが、やはり死ぬのは怖いことだ。
自嘲気味に彼女は微笑むと、直ぐ傍で待ち構える、死を受け入れた──。
「諦めるなッ!!」
声が響く。
迫る狼が横腹に氷塊を喰らい、明後日の方向へと吹き飛んだ。
彼女はハッとして声のした方を見ると、そこには剣を持った腕──右腕をフェンリルに嚙まれた、レルドルの姿が在った。
「俺には目的が有る! ガキを
「──はッ、はいッ!!」
慌てて剣を取る。
そして、咄嗟に周りの状況を見る。
狼達は、仲間の死体を道にやって来たのだ。
一度に来れる限度には限りが有るし、相手は足を踏み外せば泥濘の中だ。
──まだ勝機は、有る。
(なのに私は勝手に諦めて──馬鹿馬鹿しい)
彼女は自嘲気味に笑った。
先程の笑みとは違う、何処か清々しい笑みで。
「さて。問題はお前だな、犬ッコロ」
レルドルは、腕を未だ離さんとする獣を睨め付けた。
腕には骨まで牙が喰い込み、微かに動かすだけで血が流れ、その度にじくじくと深い痛みが走る。
今にも千切れてしまいそうだ。
彼の額に、じっとりと脂汗が浮かぶ。
多量の出血で身体が震え、視界が霞む。
けれども、あくまで不敵に。その笑みを崩そうとはしなかった。
何故ならば──。
「
──勝ちを確信していたからであるッ!!
もう一度言おうッ!
触れた物体の自由な場所から無限のマヨネーズを召喚する、それが彼のチート能力!
その名も──【
「──マヨネーズに溺れて、死ね」
肺に、心臓に、脳髄に、胃袋に、血管に、全身に余すこと無く──ッ!!
彼の数有るマヨネーズ秘技が一つ、『
フェンリルは全身をマヨネーズに侵され、穴と言う穴からマヨネーズを噴出し、地上にて溺死した。
しかし……。
……勝利に浸る時間は、無い。
「はぁ……──〝
深い嘆息と共に、空高く、幾本もの氷柱が出現する。
それらは、ラーシャを取り囲む狼達を串刺しにして行く。
戦闘が終わったことを悟ると、彼女はその場で、糸が切れたかのようにへたれ込んだ。
「全く、本当にやれやれだ」
開口一番に、彼はそう言った。
「勝手に付いて来るし、感情に流されるし、簡単に諦めるし、行動は稚拙だし、おまけに作戦は潰すしで……腕もこれじゃあしばらく使い物にならん……」
愚痴愚痴と。
心底、呆れたように彼は言葉を続けた。
彼女は返す言葉も見付からず、しゅんと俯く。
当然だ。と、彼女は思う。
自分はそれだけのことをしたのだ。
最悪、2人纏めて死んでいたかも知れない。
帰ったら、冒険者なんて辞めよう。冒険者なんて辞めて、大人しく真面目に働こう。
両親の言ったように、騎士校の審査員が言ったように、自分には剣才なんて無かったのだと、今回ではっきりした。
彼女は俯いたまま、そう決意した。
「……だがまあ、正直驚いた。お前、凄いな」
「…………え?」
彼の口から飛び出た意外な言葉に、ラーシャは眼をぱちくりさせる。
「俺にも犬ッコロ共にも気付かれず、良く尾行出来たな。もしかすると、剣士よりも斥候に向いているのかもな」
左手を顎に当てて、眉を顰めながら。
ラーシャは困惑する。
レルドルに会ってから、困惑ばかりだ。
「どうした、口をぽかんと開けて。アホっぽいぞ」
「だっ、だって……私……」
何故、もっと自分を咎めないのだろう。
そうされて然るべきなのに。
ラーシャは理解出来ないと言う風に、彼を見詰めた。
「ふむ。やれやれ、卑屈が過ぎるぞお前。はぁ……良いだろう、罰が欲しいならくれてやる」
見透かした言動で、そう言うと、彼はしゃがみ込んで彼女と目を合わせた。
「お前、俺の従者になれ」
「……身体が目当てですか?」
「違う! 何故お前は直ぐそう言う方向になるんだ!」
「だから即答しないで下さいよぉ!」
むくれるラーシャ。
……何故むくれているのだろう?
きっと疲労の所為だ。──彼女はそう思うことにした。
「いや、これは話の順序が悪かったな」
咳払いして、改めてレルドルは言う。
「さっき目的が有る、と言っただろう。俺はその目的の為、魔術学園へ通いたいと考えている。言うなれば、目的の為の目的だな」
国立アーノルフィース魔術学園。
通称──魔術学園。
人間領の中央に位置するこの学園は、世界各地から、有望な魔術師の卵達が、魔導の最奥を学びにやって来ている。
そんな魔術学園に、彼は通おうとしているのだ。
「その為に金が必要だった訳だが……生憎、この依頼は失敗だな。フェンリルは──まあ、毛皮以外は割と売れそうではあるが?」
彼はマヨネーズ塗れになったフェンリルの死体を一瞥する。白い毛皮は、最早売り物になりそうにもない。
「話を戻そう。そこには主に富裕層が通うから、当然従者の一人や二人も必要だ。俺はそう言う家を捨ててしまったからな」
「き、貴族様だったのですか!?」
「下手な敬語は止めろ。それに、今は貴族じゃない」
「何故家出なんか……」
「まあ。それは一重に経験値の為──強くなる為だな。俺は一刻も早く強くならなければならない」
嫌に気持ちの篭った声で、レルドルは言う。
再び、彼女は申し訳無い気持ちになった。
「あの……すみません。そんな大切そうなこと、邪魔してしまって……」
「全くだ。だから、その分働いて返して貰う」
レルドルはニヒルと笑う。
「言っても、魔術学園の入学可能年齢は十三歳だから、まだ先の話だ。従者になるまでの間はパーティを組んで貰う」
「え、良いんですか? 私弱いですよ?」
「俺が直々に鍛えてやる。喜べ。お前の望んでいた、Aランクからの無償講習だ」
夕陽が沈んで往く。
レルドルの背を暖かに照らし、彼の顔を
差し伸べられた左腕を、彼女はゆっくりと取る。
「宜しくお願いします、師匠!」
彼女は悪戯っぽく、子供のように笑う。
レルドルはその言葉を聞いて、若干引き気味であるが。
「げ……。師匠って、俺は弟子を取った憶えは無いぞ」
「細かいことは良いじゃないですか! ビシバシご指導のほど宜しくお願いしますよね!」
「だから、下手な敬語を……やれやれ」
夕暮れの森を、一組の男女が歩く。
男は右腕に大きな嚙み傷が。
女は全身に沢山の生傷が。
けれども、彼ら彼女らは笑っていた。
「利き手じゃないなら私にだって勝てますよ!」
「舐めるなよ。やれやれ、実力を知らしめる必要が有りそうだ」
これではまるで、本当に師弟のようではないか。
彼はやや不満そうに、苦笑する。
魔王討伐をするなんて、そんなこと。とても乗り気では無いけれど。
だから──救おう。救済しよう。この世界を。
彼は柄にも無く、そんなことを思っていた。
隣を歩く、あとげない笑みを見る。
この笑顔が、こんな笑顔の存在する世界が、滅んでしまわない為に。
やれやれ。彼は、深く嘆息する。
また一つ、目的が増えてしまったでは無いか──と。
✕ ✕ ✕ ✕
「ここがカテドだね」
外套を纏った、細身の少年は呟く。
少年の手には手網が握られており、その先には一頭の馬が付けられていた。
隣に座る、耳の尖った八歳ほどの──エルフの幼女は、少年の肩を揺さぶりながら、拗ねた様子で言う。
「ねー、こんなトコに、ホントに居るのぉ?」
髪を指先でくるくると弄る、彼女の後ろから出て来たのは──くすんだ緑の肌に、エルフのように尖った耳、矮躯の
「お前ハ、何時モ、何処でモ、それを言うよナ」
「だって仕方無いじゃないじゃな〜いっ! ワタシ田舎ってキライ!」
「まあまあ、そう言うなよ! これから人に会うんだ、礼儀は
またしても、馬車の奥から別の声がする。
活発にして
凡人に話せば、必ず信じないであろう。
この筋骨隆々な様は、つい数年前までは、まるで想像出来ないほどの痩躯にして矮躯であったことを──。
男は清々しくにかりと笑うと、手綱を持つ少年の背をばしんと叩いた。
「居ると良いな!
現在参加神数:062/100
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