第28話 仲間は仲間で仲間だから仲間だけど……

 帰寮後、藤原さんと美希とで、北大路を歩きながら母が何を言ったのかほぼ全て再現できた。


 河合さんは「予想を上回る毒っぷりだねえ」と呆れ果てた様子だ。


「あんな母で……皆さんに失礼なことを言って本当に申し訳ありません……」


 金田さんがこともなげに鼻を鳴らす。


「私のことは気にしないで。そういう人がいるから普段は金髪で威嚇してるんだし。こっちだって織り込み済みで生きてるわよ」


 新市さんも「社会の反発が怖くて社会学をやってられるかっての。平気平気」と笑い飛ばし、由梨さんも「私も自分の病を自覚した上で次のステップに踏み出しているところだから、大丈夫よ」と微笑む。


 筧さんと炭川さん、藤原さんたち西都大以外の寮生も「今さら偏差値上の立ち位置をあげつらわれてもねえ」と笑いあう。


 今回初めて話の輪に加わった賀川さんが「いつも北村さんの周りに人が集まっているのを見てきたけど、仲いいじゃん。互いに互いをリスペクトしてるいい関係だなあってずっと思ってたよ」と保証してくれた。


 河合さんが美希をまっすぐに見つめる。


「うん、賀川さんが見てきたのが全ての事実。ってか、あの母親のもとでよく美希ちゃんはまともに育ったねえ!」


 皆が一斉に頷く。


 静かで、けれどどこか厳かな声がした。由梨さんだ。


「今の美希ちゃんの良さは、あのお母様が育てたものじゃない。美希ちゃんが自分で自分を育てたの。貴女は生来強くて賢くて、そして優しい女性よ。本当よ、若紫ちゃん。これからも自分の中の毒母を乗り越えて生きていける力を信じて」


 そうだよ、そうだよと口々に同意してくれる声が心底ありがたく、美希は目の奥がツーンとする。


「皆さん、どうして私にそんなに親切にして下さるんですか?」


「仲間だからじゃん」と炭川さんは当然だという口調だ。


 筧さんもだ。


「そうだよ。半年以上一緒に楽しく過ごしてきて、これからも卒業まで何年も一緒に過ごす仲間」


「二度とない青春時代を共に歩む仲間だよね」という河合さんの言葉に、新市さんが続ける。


「美希ちゃんだって、同じように思ってくれてるでしょう? きっと私たちの誰かが困れば親切にしてくれる」


「もちろんです!」


 新市さんが大きく笑む。


「だからさ、この寮は家族にも似た共同体だよ。仲間が互いに思い遣りながら、外の世界のしんどさを癒すの」

 美希は由梨さんを見た。由梨さんは「ね?」と片目を瞑る。



 清水さんにふられてしまった日。深夜のお茶会で由梨さんが言ったとおりだ。私はここに仲間がいるのだ。

 


 美希は金田さんを見た。ここできちんとお礼を言っておきたい。


「金田さん、私をこの寮に連れて来て下さってありがとうございます」


 学生課で見かけた自分を放っておかず、そして可能性の芽を摘まずにこんな道を歩ませてくれて。「いや、別に感謝されるようなことじゃ……」と言いながら、金田さんは照れ臭そうに頭を掻いた。その仕草が何となく武田氏を連想させた。

 

 ある日、その武田氏と美希は中央図書館の玄関で行き会った。美希は本を借りて帰るところで氏は中に入るところだった。美希は鞄から厚い本を取り出す。


「ロールズの本借りてきました」


「ええと……」


「正義についての法哲学の本です」


「ほう!」


「炭川さんと著作権法の話をしたり筧さんとお金と法律の話をしたりして思うんですが、教科書で勉強する以上に現実のトラブルは多種多様です。だから法曹関係者は法律の条文以上の解釈が求められるし、その解釈の前提として何が正義なのか理解を深めないといけないと思ったんです」


 大学で抽象的な内容の講義も用意されていた理由が、今の美希なら分かる。


「もう一回生の終わりなのに今頃気づくの遅すぎだと自分が嫌になります」


 季節は冬。通学途中で鴨川にかかる橋を渡るとき、ゆりかもめの大群に初めは驚いたもののもう慣れた。


「いや、必要性に疑問を持つ時期を経たプロセスが大事だと思う。今なら、単に必修科目だからという消極的な理由で学ぶより、積極的に取り組めるだろう?」


「そうですね」


「社会人入学の人とかもそうだよ。とても熱意に溢れている人が多い」


「そうですね、朝子さんとかも食堂でレポート書いているときなんか凄い集中してますもの」


「さて、俺も君の熱意に刺激を貰ったことだし、一勉強してくるよ」

「はい、頑張ってくださいね!」


 

 そのまま正門に向かう途中で、美希の気が変わった。中央図書館の机は広い。このロールズを氏と同じ机で読もう。たぶん邪魔にはならないはずだ。


 再び図書館に入った美希は、氏の姿を探して二階の工学関係の書架を探した。ずらりと並ぶ棚と棚の間の通路の奥、壁のそばに思いがけない人がいた。金田さんだ。向こうを向いているがあの金髪は彼女に間違いない。


 そして、その金田さんは武田氏と話していた。


 ――あの二人が一緒だ……!


 白河邸でも建築に関して共通の関心があったのだ。工学関係の本棚でたまたま出くわすこともあるかもしれない。だけど、何か胸騒ぎがする。


 美希は一本隣の通路にそっと入った。二人に直接声を掛けるのが怖かった。


 氏が小さな声で語る。ここは図書館なので本来私語厳禁だから当然だ。だが、何か密やかな囁き声はとても親密そうに聞こえる。


「北村さんのお母さんは本当に酷いですね」


 美希は羞恥のあまり唇をかむ。そして、それを自分に言わずに金田さんには言っている点にどうしようもなく引っかかりを感じた。だけど、アノ母親の娘に向かって話せることでもないのかと思い直す。


「あの母親は、娘の結婚相手も自分の欲望を満たす道具としか思っていない」


「武田さんに将来大企業に勤めるなんて嘘をつかせてしまったこと、北村さんが済まなく思ってましたよ」


「ああ、心にもないことを口にするのは、何というかやるせない気持ちになりましたよ」


 氏の溜息が聞こえる。


「あんな毒親に育てられてしまったから彼女は自己肯定感が低いんだな……。俺と話しているときも些細なことで謝るんです」


「そこは気になるところですね」


「あんな育ち方をした女性をどう扱えばいいのかな……。繊細そうだし……」


 美希の心に冷やりとしたものが滑り落ちてきた。自分は氏にとって扱いにくい存在だったのか。自分は、氏とスムーズに偽装彼女を務めてきたつもりでいたけれど……。


「さっきも言いましたが、俺は彼女の偽装彼氏をそろそろ辞めたいんです。だが、どう言えば彼女に伝わるでしょうか……」


 その言葉が耳に届いた途端、美希の頭は瞬時に凍り付く。立ち去りたい、でも足が震えて動かない。


「金田さんは、その金髪で差別と闘うとても強い人だ。そんな貴女を見込んで、彼女への対処のアドバイスを貰いたいんです」


 美希は弾かれたように駆けだした。縫い付けられていたように動けなかった身体が、今度は感情が迸るままに無我夢中で動く。


 ――黒田さんだ。


 清水さんにとって尊敬と信頼を捧げるに値する女友達。確かにあの人は大人っぽかった。男の人だって自分に正解を与えてくれるような頼もしい女性と親しくなりたいだろう。


 金田さんはとても強くてカッコイイ人だ。差別に屈さず、戦い、一方で困っていた美希を寮に誘ってくれるという心優しい面もある。救われたのは美希だけじゃない。由梨さんだって金田さんに感謝している。


 金田さんは器の大きな人なのだ。毒親のもと、おどおどと人の顔色を伺うばかりのつまらない人間に過ぎない自分とは違う。氏は、偽装でも美希と付き合うのに嫌気がさしてしまったに違いない。


 金田さんが羨ましい。仲間だから好きだけど、仲間なのに妬ましい。そんなこんがらがった感情を抱く自分が情けなくてたまらない。


 ――だから武田さんは私を繊細だと思うのだ


 本来「繊細」という言葉は貶し言葉ではない。でも、「手がかかる」「面倒くさい」と言いたいのを婉曲に表現したのかもしれない。いやきっとそうだ。いつも謝ってばかりだと、氏の目に美希はそう映っていたそうだから。


 母の言葉が脳裏をよぎる。文系の美希とは合わない……。美希がモテるはずがない……。いつふられてもいいように……。


 美希は図書館の閲覧室から階段を駆け下り、一階の玄関のゲートが開くのももどかしく外に走り出て、駐輪場から乱暴に自転車を引っ張り出した。そして、乗れるようになってから一番強くペダルを踏む。


 空は厚い雲が低く垂れ込め、そこからポツポツと冷たい小雨が降ってくる。ビュンビュンとスピードを上げた自転車に乗っている美希の頬に、水滴が礫のようにぶつかってきて、惨めで惨めでたまらない。


 キキ―ッと鋭い音がした。


 信号を無視したために車とぶつかりそうになったのだ。美希も反射的に自転車のブレーキを握ったし、車の方も急停車してくれて事故は免れたものの、何の落ち度もない車の運転手が窓から身を乗り出して美希に怒鳴る。


「危ないやないか! なんちゅう運転しとんねん!」


「スミマセン……」


 今度は信号を待ってから自転車を走らせる。一度興奮を削がれてしまうと、今度はペダルがひどく重く感じられた。


「あ、美希ちゃん。お帰り~」


 寮の駐輪場では藤原さんが自分の自転車を止めているところだった。白い息を吐きながら、美希に「お帰り? 美希ちゃん?」と繰り返す。


 何か答えなくてはと美希は思う。だけど何の言葉も出てこない。


「美希ちゃん、どうしたの? と、とにかく寮に入ろう」


 美希は首を振って「私、もう退寮したいです……」と絞り出した。「な、なんで?」と慌てる藤原さんに「金田さんの顔を見るのが辛いんです」と続ける。


「喧嘩でもしたの?」と問われれば「いえ、いいえ! 金田さんは悪くない。全く何の非もないんです」としか言いようがない。


 金田さんは寮の仲間だ。仲間だから彼氏ができるという慶事だってともに祝いたい。だけど、美希は辛くてたまらない。


「美希ちゃん、とりあえず中に入ろうよ。ね?」


 藤原さんは美希の自転車をひったくると駐輪場に止めてしまい、そしてぼうっと立っている美希の腕を掴んで寮に引っ張っていく。


「あのさ。美希ちゃんが涙を流して泣いてるの、初めて見たよ。新市さんが在寮してるからまず委員長に話そう?」


 受付は由梨さんだった。藤原さんが何かを耳打ちすると、受付室を出て階段に向かう。


「新市ちゃんたちを呼んでくる。食堂で待ってて。あ、カモミールティーを持って行くわ。気持ちが落ち着くわよ」

 

 食堂にカモミールの香りが漂う。美希は手を付ける気になれないが、新市さんはティーカップをひょいと口元に持って行った。


「それで何が問題なわけ?」


 藤原さん、筧さん、炭川さん、河合さん、そして今回は賀川さんも一緒になって美希の周囲に人だかりができている。


「武田さんにとっての金ちゃんが、清水さんにとっての黒田さんと同じだって? 知り合ったばかりでそんな仲じゃないと思うけど?」


「九月に食堂で怒鳴ってた金田さんのことを、友人のために怒ってくれる得難い人物だと武田さんは評価していました。慧眼です。そのときからきっと……」


「仮にそうだとして、それの何がどう問題?」と筧さん。さらに、賀川さんが事情に疎いなりに慎重に尋ねてくる。


「ええと、武田さんってあくまで偽装の彼氏なんだよね? あのお母さんを欺くために彼氏のふりをしてもらうだけの」


 そう、そうだった……。あくまで偽装の仲だ。だから、武田氏が尊敬できる女友達を持とうと、もっと言えば本当に好きな恋人を持とうと、美希が何も感じる理由などありはしない。だけど……。


「だけど、美希ちゃんには楽しかったんだよね」


 その河合さんの言葉に、美希の眼から涙が溢れ出てしまう。楽しかった。本当に楽しかった。ずっとこんな風に二人で彼氏彼女ごっこを続けて行けると思っていたし、それはとてもとても幸せなことだったのだ。


 皆が口々に「だよねえ……」「うん」「まあねえ」と息を吐いた。ただ一人首をかしげている賀川さんに、炭川さんが説明する。


「私たちが楽しそうに見えたのは、美希ちゃんが武田氏との出来事を本当に嬉しさいっぱいで話してくれてるからで……」


 賀川さんは少し思案気に黙ってから、「それって、つまり……」と何かを言い始めたが、新市さんが制した。


「武田氏本人に聞いてみよう」


 炭川さんが妙にウキウキと「うん。それがいい! きっとドラマが始まるよ」と賛成する。


 武田さんの連絡先は長楽館の女子トイレの画像――氏の名誉のために正確に言えばそのステンドグラスの画像――を共有する際に、寮生にも知られていた。


 新市さんはスマホの画面を見て「お?」と声を上げ、それを美希につきだす。


「既に氏から連絡来てる。『ただならぬ様子で図書館から走り去りましたが寮に帰っていますか?』だって」


 新市さんの手の動きは素早い。美希が「あの……」と口を挟む前に、さっさと返信してしまう。


「『帰寮してます。金田さんと話しているのを見て動揺してます。説明しに寮まで来てください』って送っといた」


「そんな!」


「何が問題?」


「だって!」


「美希ちゃんの想像が当たっているなら本人からそう聞きなよ。そして想像が外れているなら、それも本人から事情を聞こう」


「でも……」


 新市さんのスマホが鳴る。


「早速OKの返事がきたよ。氏も心配してこっちの連絡をずっと待ってたんだね」


 筧さんの正論が美希の「だって」を封じ込めた。


「氏の立場も考えようよ。金田さんと喋っている最中に美希ちゃんが普通じゃない行動を取ったら、氏も困惑するでしょうよ。美希ちゃんにも自分の気持ちを説明する責任があると思うよ」


「は、はい……」

 



*****

この小説は鷲生の実体験がベースにあります。

その辺のエッセイもございますので、よろしければお立ち寄りくださいませ。

「(略)下鴨女子寮へようこそ」へようこそ!」

https://kakuyomu.jp/works/16817139557002643221

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