Episode6 歩み寄り ※R15

 美笛(みてき)の彼氏である奏多(かなた)の心は、常に山にあった。

 山に登る。

 当然のごとく、奏多の生活の最優先事項は美笛ではなく山だ。

 美笛はそのことが気に入らなかった。


 常に彼女である私のことを一番に考えていてほしい。

 私は一分一秒でも長く一緒にいたい。

 私のためなら命だって投げ出すことができる……とまではさすがに望みはしないも、可愛い彼女との久しぶりのデートより登山を優先するのはいかがなものか?


 そんなに彼氏と一緒にいたいのなら、あんたも一緒に山に登って達成感や素晴らしい景色や感動を分かちあえばいい、という意見もあるかもしれない。


 しかし、美笛は登山に微塵の興味も持てないばかりか、命知らずの危険な行為としか思えなかった。

 運良く無事に登山を終えることができたとしても、わざわざ不便で苦しい思いをしながら、山に登る人の気持ちなんて全く分からなかったし、鼻から分かろうとしていなかった。


 今日も、美笛は奏多のアパートにて、週末に予定されている登山をやめる――自分とのまったりデートに切り替える――ように説得中であった。

 ちなみに、奏多のアパートは今の時代にこんな物件が残っているのかとある意味、感動できるほど朽ち果てていた。

 当然のごとく壁も薄い。

 隣人の咳払いだって聞こえるほどだ。

 登山を生き甲斐の大黒柱として生活設計をしている奏多が、まずは住居費を抑えようとした結果である。

 さらに言うなら、奏多の部屋のエアコンは先日、ついに壊れてしまっていた。

 よって、まだ六月だというのにうだるような熱気のなか、互いにうんざりした顔で、いつまでも平行線となる話し合いをしている――というよりも美笛の言葉を奏多がうんざりした顔で聞き続ける――状態であった。


「ねえ、山なんか行くの止めてよ。半年に一回ぐらいだったら、私だって歩み寄りというか、ジョーホ(美笛は”譲歩”と言いたいらしい)してあげたっていいよ。でも、奏多は毎月のように山に登ってるじゃん。なんで、わざわざ苦しい思いをするって分かっているのに山に登るの? 山には虫や獣だっているし。それに、遭難とか結構な頻度でニュースになってるワケだし。初心者じゃなくて、登山に慣れている経験者さえ、山で死んじゃったりしてるよね? 奏多だって、絶対に山で死なないなんて保証はないんだから……自然を舐めちゃダメだよ」


 美笛の言うことは一理あるだろう。

 途中で不測の事態が発生し、山になんか行かなければよかったと後悔したとしてもも、自然には逆らえぬし、時間は巻き戻せないのだから。

 奏多が渋い顔をしたまま、言葉を返す。


「今週末はもう山に登るって決めてるんだよ。まあ、直前に天候が急変したら中止になるわけだけど。……お前はなんで俺の生き甲斐を認めてくれないワケ?」


「……奏多はそんなに山に行きたいんだ? もしかして一緒に登る人の中に、気になっている女の子がいるんじゃないの?」


「男だけで登るんだよ。それに誰と登るかじゃなくて、どこに登るかが俺にとっては重要なんだよ」


 奏多の言葉を信じるなら、奏多に忍び寄ってきている女の影はないらしい。

 でも、と美笛はなおもまくしたてる。


「登山ってお金もかかるじゃん。装備とか、私にはよく分からないけどさ。奏多、碌に貯金だってしてないでしょ。そもそも、エアコン壊れたっていうのに、登山を優先するのっておかしくない? それにさぁ、このアパートってボロいにも程があるっていうか……隣に住んでいる人とか、いかにもなキモオタで超気持ち悪いじゃん。こんなうっすい壁一枚を隔てているとはいえ、よく”あんなの”と一つ屋根の下で暮らせるよね」


「ちょっ……! 馬鹿、声でけーよ」


 奏多が慌てて窓を閉めた。

 蒸し暑さと気まずさはさらに増したうえ、今さら窓を閉めたとしても当の隣人が在宅中であったなら、今の会話は壁を通して筒抜けなのは間違いなかった。


 奏多の行動というか心を思い通りにすることができない。

 奏多は美笛の心に歩み寄ってくれない。

 

 こうなったら、かくなるうえは……と美笛は決意した。

 前から考えていた”あのこと”を実行する時がついに迫ってきたのかもしれない。


「ね、今週末の登山をやめてくれたら、私、奏多に今までしなかったことをしてあげる。その……口でね……」


 自分から言い出したのに、恥ずかしくなってきた美笛。

 奏多との肉体関係はすでにあり、このボロアパートで声を押し殺しながらしたこともあったが、美笛が今、伝えた行為は一度も行ったことがなかった。

 過去に二人ほど元カレがいた美笛であったものの、その行為自体が生理的に受け付けないものであり、断固拒否していた。

 でも、元カレのどちらにも一度もしてあげなかったことを奏多にはしてあげるつもりでいる。

 山に行こうとする奏多の心は繋ぎ止められなくても、奏多の体は己の舌で繋ぎ止めることができるかもしれない、と。



※※※



 けれども、美笛の捨て身の”歩み寄り”は、彼女が望む結果をもたらしはしなかった。

 週末の早朝――奏多が登山を取りやめて、自分を待っているはずだと美笛が確信していた早朝――に、奏多のアパートの玄関チャイムを鳴らしたが、返事はなかった。

 LI○Eで「今、部屋の前に来てるよ。早く中に入れて」と送ったものの、数分後に既読スルーになってしまった。

 電話をかけても、呼び出し音が鳴るばかりだ。


 敗北。

 自分は山の神に、いや、”山の女神”に負けてしまった。

 奏多は生身の女よりも、さらに言うなら、生身の女との性体験よりも、雄大なる山という自然を感じ、抱かれることを選んだのだ。


 恥ずかしいやら悲しいやら、美笛の瞳からは涙が盛り上がっては溢れ、溢れては頬を流れる。

 一つの恋の終わり――完結ではなく強制打ち切りである。しかも、強制打ち切りの原因は美笛自身にある――にしゃくりあげなら、奏多のアパートを後にしようとした美笛であったが、突如、玄関のドアが開き、中へと引っ張り込まれてしまった。


 開いたドアは、奏多の部屋の玄関ドアではなかった。

 美笛が引っ張り込まれてしまったのは、奏多の部屋の一つ手前の……奏多の隣人の部屋だ!


 悲鳴をあげようとした美笛の口は、湿っぽく厚ぼったい手によってふさがれる。

 背後から体を抑え込まれてしまった美笛の鼻孔を、生臭い汗の臭いが刺激する。

 じっとりとした体温を美笛の肌に浸み込ませるがごとく、美笛の耳元で男は囁いた。


「……彼氏さんですけど、朝早く山に向かったみたいですよ。あんたのフ〇ラには、登山を中止させるだけの魅力も価値もなかったってことは明白ですね。まったく、あの彼氏さんも、あんたみたいに自己中で男を舐め腐ったクソ女の相手をよくしていたものですよ。彼氏さんの『誰と登るかじゃなくて、どこに登るかが俺にとっては重要なんだよ』という名言をそのまま、ノコノコやってきた今日のあんたに当てはめるとすると『誰に”する”かじゃなくて、何をするかが重要』というわけですよね? その行為の相手というのが、あんた自身が言っていた『いかにもなキモオタで超気持ち悪い』うえ、『こんなうっすい壁一枚を隔てているとはいえ、よく”あんなの”と一つ屋根の下で暮らせるよね』と思うほどの男であったとしてもね」


 男の汗と息の生臭さはより一層強くなった。

 美笛の尻には、自分とそう変わらぬ背丈の男の屹立したものが押しつけられていた。


(完)

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