Episode5 眩しき女(まぶしきひと)
この夜まで、彼女は何もかもを手に入れていた。
申し分ない夫、愛らしい子ども、世間から尊敬される職業……何より、彼女自身、美貌という限られた人にしか授けられない贈り物を、天より授かっていた。
美しく心優しく聡明で、家族を含め、学校関係者や近隣住民にも愛し愛されていた彼女。
彼女の愛と栄光に満ちた人生は、これからも続いていくはずだった。
そう、私が彼女の家に火を放つ”この夜”までは。
この夜、私は彼女が家にいないことを知っていた。
彼女の母方の祖父に不幸があったため、彼女だけ一足先に、親類の家へと向かうことになったと聞いていたのだから。
家にいたのは、彼女の夫と幼い子どもの二人だけだった。
私にとっても、あれは一か八かの賭けだった。
迫りくる火の気配にいち早く気づいた彼女の夫が、子どもとともに着の身着のまま、脱出に成功する可能性もあったからだ。
しかし、どうやら私は賭けに勝ったらしい。
一度、自宅の寝室へと戻っていた私は、消防車のサイレン音に驚いて飛び起きた家族とともに、炎に包まれゆく彼女の家へと駆け付けた。
両親は私に「お前は妹と一緒に家にいなさい」と言ったが、私は首を横に振る。
彼女を慕っていた私の小学生の妹も、同じだった。
絵に描いたような幸せに満ちていたはずの彼女の家は、今や、悲惨な火災発生現場へと姿を変えた。
渦巻き荒れ狂う業火の中からは、彼女の子どもの泣き声と彼女の夫が助けを求め叫ぶ声が聞こえてきていた。
まだ生きている。
彼女の大切な家族の命は、まだあの炎の中でもがき、生き続けようとしているというのに、野次馬の誰かが漏らした「……こんなことが起きるなんて、不幸は重なるんだな」といった言葉が、私の耳へとヌルリと滑り込んできた。
そう、不幸は重なる。
美しく生まれ、心優しく育ち、大多数の大人の女性が欲しがるようなものを全て手に入れていたはずの彼女。
眩しき女。
だが、その重なっていた幸福が多ければ多いほど、それをベリベリと剥がされ、焼き尽くされた時の喪失感と絶望は大きいはずだ。
奪いたい。壊したい。
彼女はどれほど嘆くだろう?
彼女はどれほど苦しむだろう?
あの美しい顔を悲哀と悔恨に歪ませ、二度と会えぬ夫と子どもの名を呼び求め続ける彼女。
その姿を想像した私の両唇の端は上がっていたらしい。
隣にいた妹が「お姉ちゃん……」と涙声で、私の手をギュッと握ってきた。
それによって、我に返った私――急いで他の野次馬たちと同じ表情に戻そうとした私――だったが、どうやら遅かったようだ。
野次馬の中にいた近所のおせっかいババアが私を指さし喚き出した。
「メグミちゃん! この火ぃつけたのあんたでしょ!? 私、ついさっき……この火事が起こる前に外にいたあんたを見たのよ!! それに、あんた今、笑ってたわよね!? 絶対に笑ってたわ!! ”自分が通っている中学校の先生の家に火をつけるなんて”、なんてことするのよ!?」
(完)
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