Episode3 私のママは魔女

 家に帰りたくない。

 でも、帰る場所は家しかない。


 ランドセルを背負ったまま、六花(りっか)は空を見上げた。

 雨はまだ降り出しそうにはない。

 だが、まるで魔女が両手を広げているかのような不気味な暗雲模様が、そこに広がっていた。

 その光景はただの偶然ではある。

 しかし、六花の行き場はふさがれてしまった、どこにも行けないということを示しているようであった。


 憂鬱さと諦め、そしてもう慣れっこである恐怖を一時的に紛らわせるため、六花は同じく不安そうに空を見上げていた同じクラスの優梨愛(ゆりあ)ちゃんと一緒に帰ることにした。

 不気味な空模様の下、しばらくは他愛もない話をしながら帰っていた二人であったが、優梨愛ちゃんの家が近づいてきた時、彼女は急にハッとして立ち止まった。


 優梨愛ちゃんが自分のランドセル――リボンとフリルの甘いデザイン、色もパウダーピンクという、まさに女の子といった感じの可愛いランドセル――から取り出したのは、これまた可愛らしい、まるで砂糖菓子を思わせる可愛いヘアピンだった。

 慌ててそのペアピンで髪を留めた優梨愛ちゃんに、六花は聞かずにいられない。


「優梨愛ちゃん、そのヘアピン、どうして学校でつけていなかったの?」


「…………私なんかが”こんなの”つけていても似合わないし、そもそも『派手過ぎる。これは学校につけてくるようなもんじゃないぞ』って先生に怒られちゃうのは目に見えているもん。でも、帰った時に、これを髪につけておかないとママが怒るから」


「いいなあ、そんな可愛いもの買ってもらえて。優梨愛ちゃんの持ち物って、全部が可愛いしオシャレだし羨ましい」


 六花の言う通り、優梨愛ちゃんはランドセルやヘアピンに始まり、身に着けているもの全てのものが甘やかで可愛らしく……というよりも、小学生たちから見ても彼女の恵まれた経済状態が如実に分かるものであった。

 彼女の装いや所持品だけを見た人なら、ちょっと派手めだがスクールカーストトップに君臨するオシャレ女子小学生を思い浮かべてしまうに違いないほどに。


 なお、優梨愛ちゃんは成績に至っても、どの教科も常に学年のトップクラスにいたし、小学校三年生ながらに英語とフランス語の日常会話もこなせるとの噂を六花も聞いたことがあった。

 運動も走ることはやや苦手――とりわけ長距離は特につらそうだったが――球技は人並みにはこなせる。

 オシャレ、成績優秀、運動もそこそこと、人気者になれる条件は揃っているというのに、優梨愛ちゃんはスクールカーストのトップに君臨してはいなかった。

 本人も君臨するつもりはないようだったし、ひたすら目立たないように毎日を過ごしているようであった。


 それは、優梨愛ちゃんの異常なまでの自己評価の低さが原因である。

 その”異常なまでの自己評価の低さ”の主たる原因は、彼女の体型であるだろう。


 身も蓋もない言い方をするなら、優梨愛ちゃんはデブだった。

 今にもはちきれそうになっている、球体のごときデブ。

 小学生三年生ながらにすでに二重顎でもある。

 正直、やや痩せ気味の六花と並んで歩いていると、優梨愛ちゃんの肥満具合は際立っているなんてものじゃなかった。


 けれども、優梨愛ちゃんはデブであっても、ブスではない。

 肉には埋もれかかっているものの、目鼻立ちは整っており……というよりも、痩せたら相当可愛いんじゃないかと影で噂されていたし、六花も本人には決して言えないもそう思っていた。


 何より六花は優梨愛ちゃんが大好きだった。

 優しいし、親切だし、控えめだし、何より努力家で物知りだ。

 同じ小学校三年生でもあるも、優梨愛ちゃんと話していると、少しばかり年上のお姉さんとお話しているような気にもなるのだ。

 年齢よりもずっと落ち着いていて、包容力がある優梨愛ちゃん。

 だが、彼女の中身が”老成”――六花自身はまだこの老成という言葉は知らないだろう――し、小学生らしい無邪気さや明るさがないことにはある理由があった。


 優梨愛ちゃんが口を開く。


「あ、あのね……六花ちゃんのママは、六花ちゃんの気持ちをちゃんと尊重してくれる?」


「そんちょう……?」


 人並みの学力ではあるも、尊重という言葉の意味が六花にはまだ分からない。


「ええと、例えば六花ちゃんが『欲しくない』って言っているのにいろんな食べ物や服や小物を押し付けてきたりとかしない?」


「……そうだなぁ、うちのママはそんなことはしないかな? 逆はあるけどね(笑) 私が『これ欲しいな』って言っても、『我慢しなさい。本当に必要なものなら買ってあげるけど、お金は無限にあるわけじゃないのよ』って怒られちゃうよ。……仕方ないよね。私の家は私とママの二人だけだし」


 六花はママと二人暮らしであり、優梨愛ちゃんもママと二人暮らしであった。

 しかし、六花のママは最初から結婚という選択肢を選ばなかったが、優梨愛ちゃんのおうちはパパが海外に単身赴任しているだけであるから、事情は違っている。

 それでも、六花は大好きな優梨愛ちゃんとの共通点を持てていることが少しうれしくもあった。


「あのね、六花ちゃん……私のママは魔女なんだよ」


「え? 魔女って……?」


 優梨愛ちゃんママは超がつくほどの美女だった。

 一般人にしては浮いてしまうほどの美貌とスレンダーなスタイルで、授業参観や運動会などといった学校行事において周りをざわつかせずにはいられないほどの美女。


 ちなみに、優梨愛ちゃんママの美しさも、優梨愛ちゃんが悪目立ちしてしまう原因の一つにもなっていた。

 優梨愛ちゃん本人の性格には何ら問題はないも、その体型ゆえに、男子たちからの虐めの対象になってしまったことがあった。


「お前のママはあんなに細くて美人なのに、なんでお前はそんなにデブなワケ? ママの分までガツガツ貪り食ってんじゃねえの」

「デブのくせに、似合いもしない服を着やがって。ンだよ、その気持ち悪ぃランドセル」

「名前も優梨愛とかよぉ、それは美少女だけが許される名前だろ」


 男子たちから、心無い言葉を投げつけられた優梨愛ちゃんが泣いたことは一度や二度じゃなかった。

 しかし、クラス担任の男の先生が、今の時代には珍しく、保護者からのクレームを一切恐れることなく、鉄拳制裁したため、男子たちは自分の罪を自覚し、真に反省したかどうかは分からないが、虐めは沈静化はしたようではあった。


 無言のまま並んで歩く二人。

 優梨愛ちゃんの張りつめた悲しげな横顔に六花はなんて声をかけていいかわからなくなった。

 彼女のママが魔女であったという事実に驚いたものの、六花は少しばかり”うれしくなってきた”のは事実だった。

 そうこうしているうちに、優梨愛ちゃんの家が見えてきた。


 瀟洒な一軒家。

 ガーデニングされたお庭は、曇り空の下にあっても見事と言えよう。

 愛情をかけて育てたというよりも、精巧に造り上げたという表現の方がふさわしいのかもしれないが。


 じゃあね、バイバイ、と互いに手を振って彼女たちが別れようとした時、玄関が内側から開いた。


「あら、優梨愛。お帰り」


 美しすぎる優梨愛ちゃんママに六花の目は釘付けとなり、心臓がドギマギと音を立て始めた。

 にっこりと六花に微笑む優梨愛ちゃんママ。

 しかし、その笑顔は精巧に作られたもののようにも思えた。


「あなたは確か……同じクラスの六花ちゃんよね? 少し上がっていかない?」


「……ママ、いきなりそんなこと言っても、六花ちゃんだって困っちゃうよ。用事があるかもしれないし、それにもうすぐ雨だって降りそうだよ」


「少しぐらい、いいじゃない。六花ちゃん自身の気持ちをきちんと聞いてみないと。ねえ、六花ちゃん、美味しいケーキを食べたくない?」



※※※



 美味しいケーキという言葉につられて、六花は優梨愛ちゃんの家にお邪魔することになった。

 思えば、六花は優梨愛ちゃんの家は知っていても、家の中に入るのは初めてであった。

 優梨愛ちゃんはあまり友達の家にも行かないし、友達を家に連れて来ない子であったから。


 部屋に入って驚いた。

 女の子の憧れと夢がこれでもかと詰め込まれているかのようなお部屋だ。

 六花が「一日でいいからこの部屋で過ごしてみたい。一日でいいからこの家の子になってみたい」と思うほどだ。


「本当、可愛いね。全部が可愛い。優梨愛ちゃんが羨ましいなぁ」


「そうかな……私は”こんなの”好きじゃないんだ。でも、ママが……」


 コンコンというノック音によって、話は中断された。

 先ほどまでと寸分変わらぬ笑顔の優梨愛ちゃんママが、ケーキとココアを持ってきたのだ。


「手作りケーキを持ってきたわよ。ほら、二人とも召し上がれ」


 そう言った優梨愛ちゃんママは、すぐに部屋を出ていくのかと思いきや、部屋の中に留まった。

 六花が……いや、”優梨愛ちゃん”が、自身の手作りケーキを口に運ぶまでをジイイイイイイッと見つめていたのだ。


 優梨愛ちゃんがフォークで小さく切ったケーキを口に運んだことを確認してから、六花を振り返る優梨愛ちゃんママ。


「六花ちゃん、美味しい?」


「……あっ、は、はいっ! と、とっても美味しいです。ありがとうございますっ!」


「良かったわ。このケーキは”フレジェ”と言ってね、フランス版のショートケーキよ。うちの優梨愛の大好物なのよ」


 優梨愛ちゃんママは、六花にケーキの説明をしたかったのであろうか?

 いや、そうではない。

 変わらぬ笑顔の口元だけを歪ませた優梨愛ちゃんママは、六花と優梨愛ちゃんを――六花と優梨愛ちゃんの全身を――交互に見比べていた。


「六花ちゃんは可愛いわね。スレンダーで素敵よ。クラスの男の子たちにだってモテるでしょ?」


 何と答えていいのか、六花が考える間も与えず、優梨愛ちゃんママはクスクスと笑いながら歪んだ口元を動かし続ける。


「うちの優梨愛ときたら食べることが大好きでね。もうそれぐらいにしておいたらっていくら言っても聞かないのよ。本当に困っちゃうわ。サイズが合う服を探すのだって、一苦労よ。せっかく可愛い服着せて歩いても、周りの人たちにクスクス笑われて恥ずかしいこともあるし。それに、こんなに太っていてお嫁に行けるか、今から心配よ。やっぱり女の子は細くて可愛くなくちゃね」


 優梨愛ちゃんは真っ赤になって俯いた。

 部屋の空気が途端に重苦しくなる。

 六花の口の中の甘いはずのケーキの味までもが苦くなってきた。

 優梨愛ちゃんのプクプクとした丸くて白い指先が震えている。

 彼女の俯いた横顔に中にある瞳に、涙が光っているのを六花は見た。


 やめて、おばさん。優梨愛ちゃんのこんな顔、見たくなんてないよ…………。

 


※※※



 家に帰った六花は、リビングテーブルでノートパソコンに向かっていたママに、優梨愛ちゃんの家の出来事を話した。

 目を閉じたまま黙って話を聞き終えたママは、リビングテーブルの上の湯気を立てているコーヒーを一口啜った。


 ママはいつもコーヒーをブラックで飲んでいた。

 一度、飲ませてもらったことはあるから、六花が顔をしかめずにはいられない苦さであることは知っている。

 けれども、今日の優梨愛ちゃんの家でのケーキよりかはまだマシな苦さのはずだと六花は思わずにはいられない。


 大きなため息をついたママは、六花の目をじっと見て言う。


「もう二度と優梨愛ちゃんの家に行っちゃダメよ。誘われても、用事があるって言い切って、家に帰ってきなさい。それにね、学校でもあまり優梨愛ちゃんと仲良くしない方がいいわ」


「どうして? 優梨愛ちゃんはいい子だよ」


「うーん……優梨愛ちゃんが悪い子ってわけではなくて、あの奥さん……優梨愛ちゃんママが問題なのよね。優梨愛ちゃんがあの人のことを”魔女”って言ったの、ママは当たっていると思う」


「やっぱり、優梨愛ちゃんの言う通り、優梨愛ちゃんママも”ママと同じく”魔女だったんだ……」


 そう、あまりにも唐突であるも、六花のママは魔女であった。

 隠喩ではなく、ガチの意味での魔女だ。


「……あの人は人間よ。でも、別の意味で魔女と形容できる人ね」


 愛用の水晶玉を寝室から持ってきたママは、六花に「おいで」と手招きし、自分の膝の間に座らせた。

 気が進まなかった六花であるも、知りたいことを知るためには魔女であるママの力で見せてもらうしかないと。

 ママの手にかかれば、厳重に鍵をかけられた他人の家の中だって、お茶の子さいさいといった具合で覗くことができる。

 水晶玉に手をかざし呪文を唱える前に、ママは六花の髪の匂いを嗅いだり、無駄な肉のついていない太ももやふくらはぎを触ったりしてきたが、いつものスキンシップの一環だと六花は自身に言い聞かせた。

 

「今から六花に見せるのはリアルタイムの映像じゃないけど、ママはどんな時空の山も谷も自由自在に飛び越えることができるのよ。六花にはショッキングな映像だと思うけど、世の中はいい人ばかりじゃないし、決して逃げられない絶望が安らげる家の中にすら、たちこめていることもあるんだってね」


 そんなこと、とっくに知っているよ、という言葉を六花は飲み込む。


 水晶玉に映し出されたのは、優梨愛ちゃんの家のダイニングルームだろう。

 磨き抜かれたテーブルに向き合って座っているのは、優梨愛ちゃんと優梨愛ちゃんママの二人だけ。

 彼女たちの服装から推測するに、おそらく夏場のことだ。


 優梨愛ちゃんの前には、大人でも胸焼けするほどの食事が並べられていた。

 いくら美味しそうならびに一目で高カロリーなことが見て取れる食事であっても、複数人がいるパーティーならまだしも、優梨愛ちゃん一人で全てを食べ切るなんて拷問にも等しいほどの量だ。


 反対に優梨愛ちゃんママの前には、何も並んでいない。

 優梨愛ちゃんママは頬杖をついたまま、あの笑顔――どこか張り付いたような笑顔――で、今にも吐き出しそうなほどに顔を歪めている優梨愛ちゃんがそれらを口に運ぶのを見ていた。


「ママ……許して。もう食べられないよ」


「ママがせっかく優梨愛のために作ったのに、なぜ、食べないの? 子どもが遠慮なんてしなくていいからね。ママはデザートもちゃんと用意しているわ」


「遠慮なんてしてないよ! もう十分に食べたよ。お願いだから、許して!」


「……なぜ、ママの気持ちを無碍にするようなことを言うの? この日本国内においてだって、どうしようもない親の元に生まれてしまったがゆえに、満足に食べることすらできない可哀想な子だっているのよ。それを考えると、ママは優梨愛にたっぷりと与えてあげてるでしょ? 美味しい食事だけじゃない。あなたには家庭教師にピアノ、英語にフランス語も習わせてあげているんだし。本当はバレエも習わせたかったんだけど、あなたが『レオタードなんて絶対に着たくない!』って我儘言って泣き喚くんだもの…………何よりもママは優梨愛がいっぱい食べている姿を見ることがうれしいの。ママの一番の楽しみなの」


 優梨愛ちゃんが鼻を啜る。


「お願い、もう私を虐めないで……」


 フーッと息を吐く、優梨愛ちゃんママ。


「優梨愛こそ、ママを虐めているでしょ? ママがせっかく可愛くてたまらない娘のために作ってあげたお料理を食べたくないだなんて……そんな酷いことを言うなら、今日はバスルームを使わせてあげないわ。今は夏だし、デブはただでさえ汗をかきやすいわけだから、醜くて臭いデブなんて、学校の皆に”さらに”嫌われるわよ」


 優梨愛ちゃんママは矛盾している。

 ”可愛くてたまらない娘”だと言いながら、”醜くて臭いデブ”だと言い放った。


 嗚咽しながら口に食べ物を押し込む優梨愛ちゃんを見た六花は、ワッと泣き出した。

 それを見たママは、水晶玉に映し出されていた虐待映像を中断した。


「優梨愛ちゃん、可哀想……っ! あんなに食べさせられて、痩せられるわけがないよ! 優梨愛ちゃんが食べたがっていたわけじゃない。あのおばさんが無理矢理食べさせてたんだ……! 優梨愛ちゃんが学校で虐めを受けていたのも、優梨愛ちゃんの体型が原因だって分かっていたんだ! それなのに、あんなひどいことを……!!」


 ママが泣きじゃくる六花の頭を撫でる。


「これはフィーダーね」


「フィー……?」


「他者を太らせていく過程を楽しむ人というのが世の中にはいるのよ。あの奥さんが、どういった原因でそうなったのかは分からないし、知る気もないけど。ただ一つだけ確かなのは、あの奥さんは”親になっちゃいけない人”だってことね。病んだ彼女の狂気の矛先が、家庭という密室で無力な子どもである優梨愛ちゃんに向けられてしまったのよ。……優梨愛ちゃんは元々はすごく可愛い子だと思うし、自分の若さや美しさを吸い取るがごとく、日に日に美しくなっていくであろう娘に嫉妬しているのもあるかもしれないけど。どのみち、優梨愛ちゃんにとってはあの奥さんは魔女でしかないわね。ねえ、六花、知ってる? 『白雪姫』の魔女って、継母じゃなくて実母だったのよ」


 六花にとって、『白雪姫』に出てくる魔女が継母だろうが実母だろうが、そんなことはどうでも良かった。


「ママ、お願い。優梨愛ちゃんを助けてあげて。可哀想だよ」


「……確かに可哀想だとママも思うわ。でも、人の家のことだし」


「私たち子どもにとっては、家と学校の中のことがすべてなんだよ。学校では努力が大切とかよく言うけど、こんなこと努力して超えられる、努力したから解決できるような問題じゃないよ。……普通の子どもが親から逃げることなんてできないよ!」


「……それはそうだけど、家庭というのはその家に物理的に鍵がかかっていなくても一種の密室なのよ。家族というのはその密室の中で見えない鎖で繋がれあった者同士であって……さっき、覗き見はしちゃったけど、ママはその鎖で繋がれた者たちの密室に立ち入る気はないわ。第一、あの奥さんはママの親類でもないし、友達でもないし、正直苦手なタイプよ。一言で言うと、”触っちゃいけない人”よ。だから、あの奥さんの子どもである優梨愛ちゃんを助ける気はないの。薄情なようだけど、所詮、ママにとっては人の家の子どもなんだから。最悪の場合、事件にまで発展するかもしれないけど、それもあんな人の元に生まれた優梨愛ちゃんの運命だったのよ」


「事件に発展しちゃっても、ママは”運命”の一言で片づけるんだ!? もしそうなってしまっても、知らなくて助けられなかったのと、知っていて助けなかったのかは違うよ! 何よりも、優梨愛ちゃんは……私の大切な友達なんだよ!」


「…………本当に子どもにはいろいろと教えられるわね。分かったわ。ママが近いうちに何とかしてあげるから」



※※※



 本当にママは何とかしてくれた。

 優梨愛ちゃんママは自宅のキッチンで亡くなってしまったのだから。


 遺体の第一発見者は、学校から帰宅したばかりの優梨愛ちゃんだった。

 優梨愛ちゃんママは、キッチンの床にうつ伏せに倒れたまま、事切れていた。

 なお、遺体の近くには、優梨愛ちゃんに食べさせるつもりであったろう手作りのコンヴェルサシオン(フランスの伝統菓子)が幾つも散らばってもいた。


 今、優梨愛ちゃんは数日にわたり、学校を休んでいる。

 これからの彼女は外国に単身赴任中のパパの元で暮らすことになるのでは……という噂が六花の耳にも入ってきていた。


 学校から帰った六花は、ママに恐る恐る聞いた。


「あのね、ママ…………ママは、優梨愛ちゃんママを……」


 殺したの? とはストレートに聞くことはできなかった。

 

「ママは悪い魔女をこの世から永久追放したの。雲の上へと……ううん、”土よりもさらに下へと”追い払った。ただ、それだけよ」


 ふぅ、とため息をついたママ。


「だって、『白雪姫』の魔女みたいに鉄の靴を履かせて踊らせるわけにはいかないし。入院させたりして、一時的に優梨愛ちゃんから隔離する方法をとったとしても、どのみち優梨愛ちゃんの元にはまだ戻ってくるでしょ。それに、再起不能の状態にしたとしても、下手に生かしておくとお金もかかって旦那さんも大変だろうから、だから……ね」


 ママが六花を手招きする。

 そして、自分の膝の間に座らせた。


「ママがしたことが正しかったとの証明を六花にも見せてあげるわ」


 水晶玉に映し出されたのは、エッフェル塔だった。

 そして次に、黒い瞳と黒い髪の、大学生ぐらいかと思われる綺麗なお姉さんも映し出された。

 お姉さんは性別も髪の色も肌の色も様々な同年代の友人たちと楽しそうに話していた。

 この綺麗なお姉さんが誰であるのかは、六花はママに聞かなくても分かった。


 ママの力は、どんな時空の山も谷も自由自在に飛び越えることができる。

 魔女の呪縛から逃れることができた一人の少女の未来がそこに映し出されていたのだから。


 六花の瞳に涙が滲む。

 学校で聞いた噂通り、優梨愛ちゃんは近いうちにパパの元へと行くことになるのだろう。

 六花にとって、優梨愛ちゃんとの別れは悲しいことであるも、これからの優梨愛ちゃんには楽しい生活が、たくさんの幸せが、きっと待っている。

 

「ママ、ありがとう」


 涙声の六花を、ママが後ろからギュウッと抱きしめてくれた。

 ”ここまでだったら”、母と娘のスキンシップで終わっていただろう。

 しかし、そうではない。

 ママの手は、六花の無駄な肉のついていないスベスベの太ももの上で、遊び始めたのだから。


「ちょ……っ! ママ、やめて!」


 逃れようとする。

 だが、小学校三年生の子どもにとって、女とはいえ、大人の力は強いものだ。

 六花は”今日も”逃れることはできない。


「どうして? ママは六花の友達を助けてあげたのに、六花はママに何もしてくれないの? 少しぐらいいいじゃない? ただのスキンシップよ。六花の肌に触っていると、ママも若返るような気がしてくるんだもの。癒されるっていうか……ママにとって、犬や猫のモフモフの毛を撫でまわしているのとそれほど変わりないわよ」


 ママはそうであったとしても、六花にとっては不快で憂鬱、そして恐怖でしかない。

 優梨愛ちゃんが優梨愛ちゃんママから受けていたのは、紛れもない虐待であった。

 でも、六花本人もまた違った形の虐待を程度の差はあれども、ママから受けていたのだ。


「あのね、六花。ママと六花は母娘でしょ。そのうえ、女同士でしょ。ママは、ママから生まれた六花のことを自分の分身と思っているのよ。それにね、よく思い出してみて。ママが六花を叩いたり、殴ったり、ご飯を食べさせなかったことはあった? はたまた優梨愛ちゃんママみたいに、六花に無理矢理、ご飯を食べさせたことはあった? 六花の唇にキスをしたり、六花のまだろくに膨らんでいないおっぱいや大事なところを触ったことがあった? ……一度だって、ないでしょ?」


 頷く六花。

 ママの言っていることは事実だ。

 それに、六花はママを嫌いにはなれなかった。

 ママがどんな人であっても、どんなことをされても、たった一人のママを憎むことなどできないだろう。

 

 でも、やめてほしい。

 ママがこれさえ、やめてくれたなら……と。

 六花の瞳に先ほどとは違う涙が……”苦くて悲しい涙”が滲み出す。


 優梨愛ちゃん……。

 魔女から解放された優梨愛ちゃんが羨ましいよ。

 私のママも魔女なんだ。

 でも、私はどこにも逃げられない。

 この空の下、全てがママのテリトリーなんだよ。

 逃げたとしても、ママには私の居場所も過去未来も何もかもお見通しなんだよ。

 私はママから逃れることはできない。

 私をママから助けてくれる人もいない。

 私のママは魔女。



(完)

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