Episode2 緑の紙、茶色の紙
今からお話しするのは、会社員の良介さんが遭遇した怪異です。
※※※
令和においては、やや時代遅れの価値観かもしれませんが、良介さんは高身長、高収入、高学歴の三拍子を揃えた男性でした。
そのうえ、良介さんは”理想の妻と言える女性”と結婚していました。
良介さんが既婚者であることは、会社の女性陣にも周知の事実ではありましたが、それでも良介さんに気のある素振りをしてくる破廉恥な女性は何人かいたものです。
ですが、良介さんが”会社の中で奥さんを裏切ったこと”など一度たりともありませんでした。
ある日のことです。
車で外回り中の良介さんの身に、突然に耐え難い生理現象が襲い掛かってきたのです。
性別、年齢を問わない全人類共通の生理現象。
良介さんの体内の悩ましき大蛇が一刻も早く外に出してくれ、というギュルギュルという音とともに蠢き始めたのですから。
この苛烈な蠢きは、会社に戻ってトイレに駆け込むより、大蛇が菊の門を強行突破して外に出てきてしまう方が早いのは明らかです。
こんな時に限って、すぐ近くにコンビニは見当たりません。
カーナビもしくはスマホでコンビニを探す時間の猶予すらなさそうです。
社用車であるこの車内で脱糞などしてしまう展開に突入してしまったら、洒落になりません。
排泄物の臭いや染みはなかなか取れないでしょうし、社内にも瞬く間に噂が広まり、良介さんはあらゆる意味での敗北者のルートを辿ることになるでしょう。
それなら、人気のない場所で車を停め、野グソという選択肢もあります。
しかし、良介さんのなかなかに高いプライドが、この期に及んでもそれを躊躇させていました。
理由は何であれ、公道で下半身を丸出しにすることは変質者として通報される可能性だって無きにしも非ずなのですから。
脂汗がじっとりと浮かんだ顔をしかめながら、さらには車内に数発の放屁音を響かせながら車を走らせていた良介さんの目に、天の助けとも言える光景が飛び込んできました。
寂れた公園です。
昼間だというのに人っ子一人おらず、まるで太陽の光を避けているかのような陰気で湿っぽく異様な空気がそこにだけ漂っていました。
気持ち悪い、と良介さんの本能がそこに行くことを拒否していました。
ですが、今はそんなことは言っていられません。
背に腹は代えられぬ。
どんな場所にあっても、トイレはトイレです。
良介さんは、公衆トイレを目指して猛ダッシュしました。
辿り着いた目的地はさらに陰気で薄暗く、不快で不潔極まりないお決まりの臭いを――清掃と設備が行き届いていないにも程があるツーンとした臭い――を発していました。
トイレは和式だと予測していた良介さんでしたが、意外なことに洋式でした。
便座の衛生度に対する期待値は0で、嫌悪感を数値にしたなら優に100越えではありましたが、良介さんは便座に腰を下ろしました。
無事に大蛇を外界へと放出することができた良介さん。
ザザーッと音とともに下水管への大蛇の水葬も終え、さてお尻を拭きましょうか、といった段階で彼は驚愕の事実を突きつけられてしまいました。
お約束のごとく、紙がありません。
ウォシュレットなどといった洒落た機能が、このトイレについてあるはずなどありません。
これには呻いた良介さんですが、まだ抜け道はあります。
別のものでお尻を拭けばいいだけなのですから。
履いているトランクスをトイレットペーパー代わりにするつもりでした。
少しの間、落ち着かない感じになるのは明らかですが、やはり背に腹は代えられないことが人生には多々あるのです。
洋式便器に腰をかけたまま身をかがめ、スラックスとトランクスを一気に足から引き抜いた時、良介さんの鼻孔は、ふと嗅いだことのある匂いによって埋め尽くされました。
トイレの芳香剤の匂いです。
正確に言うなら、良介さんの自宅トイレに置いてある芳香剤――奥さんが定期的に買ってきている芳香剤――の匂いです。
さらに言うなら、良介さんが時折、リフレッシュのためにお邪魔している女性の家のトイレにも、偶然にも同じ芳香剤が置かれています。
誰でも手に取ることができる市販の芳香剤ですので、そんなに珍しい匂いなどではありません。
けれども、先ほどまで、ほのかにすら香っていなかったこの匂いが、突然に、しかも強烈に漂ってきたことに良介さんの背筋が冷たくなってきました。
そして、この匂いの怪異に加え、お約束と言うべきでしょうか、また別の怪異が良介さんの身に襲い掛かってきたのです。
「緑の紙がいい?」
「茶色の紙がいい?」
女性の声です。
外からではなく中から響いてきた二人の女性の声。
そう、「緑の紙がいい?」と問う声と「茶色の紙がいい?」と問う声は、別々のものでした。
良介さんは、ビクッと飛び上がりました。
同時に、良介さんの記憶は”あの有名にも程がある都市伝説”を引っ張り出してきました。
学校のトイレを舞台が舞台となった都市伝説「赤い紙、青い紙」。
ですが、ここは学校のトイレではありません。
何より聞こえてきた女性の声は二つとも、良介さんが良く知っている女性二人の声でした。
「緑の紙がいい?」
「茶色の紙がいい?」
彼女たちの声が、再度、良介さんに問いかけてきました。
良介さんの奥さんの声、そして……”良介さんが時折、リフレッシュのために会っている女性”――身も蓋もない言い方をするなら、良介さんの愛人さん――の声が。
良介さんは”会社の中で奥さんを裏切ること”は一度たりともありませんでしたが、会社の外では裏切りまくっていたというオチでした。
社内の女に手を出せば後々面倒なことになるだろうとリスクマネジメントをしたうえ、会社とは何の関係もない場所でセックスするためだけの女性と繋がっていたのです。
浮気などしないのが一番のリスクマネジメントであると思うのですが、”英雄色を好む”ならぬ”三高色を好む”とでも言うのでしょうか?
そんなことはさておき、恐怖によるものだけではない冷たい脂汗を全身に滲ませた良介さんの足元に二人の女性の顔だけが浮かび上がってきました。
左足前には奥さんの顔が、右足前には愛人さんの顔が。
まるで床に二つのお面が置かれているようです。
無表情なままの彼女たちの顔は、蛇の白い腹のような不気味な質感をしていることが見て取れました。
良介さんの口から悲鳴が迸ります。
「緑の紙がいい?」
奥さんが問いかけてきました。
「茶色の紙がいい?」
愛人さんも問いかけてきました。
まんざら馬鹿ではない良介さんは、彼女たちが何を言いたいのかをすぐに悟ることができました。
「緑の紙」は離婚届、「茶色の紙」は婚姻届です。
冒頭でお伝えした通り、良介さんにとって奥さんは”理想の妻と言える女性”と言える女性でありました。
しかし、良介さんから見て、奥さんの器量はそこそこですが、女としては盛り上がりに欠けて今一つだと常々思っていたのです。
けれども、奥さんの家事遂行能力や金銭管理能力の高さについては、良介さんは夫としてしっかりと評価していました。
”女”としての面白みがないという一点だけで離婚したなら、奥さんと同程度に生活を補佐してくれるパートナーを新たに探すという面倒なミッションをもう一度こなさなければなりません。
よって、「緑の紙」は選べません。
かといって、「茶色の紙」を選んでしまえば、必然的に「緑の紙」も選んでしまうことになるのです。
重婚は認められていないため、奥さんと離婚したうえで愛人さんと再婚しなければならいのですから。
良介さんはどっちも選べないし、選ぶつもりもありませんでした。
しかし、どうすれば助かるのでしょうか?
この怪異から逃れるのは、何が鍵となるのでしょうか?
件の都市伝説「赤い紙、青い紙」では、「黄色い紙」や「白い紙」、もしくは「何もいらない」と答えると助かるかもしれないという話を良介さんは思い出しました。
決心した良介さんは下半身丸出しのまま、”右足を上げ”、そこにあった顔を踏みつけました。
愛人さんからは「ぎゃっ」という呻き声、そして鼻骨がひしゃげたような嫌な感触が良介さんの靴裏に伝わってきました。
「……白い紙だ。つまりは、お前との付き合いを白紙に戻すってことだよ! ヤるだけの女のくせに調子に乗りやがって! お前は俺の放出の後始末をするティッシュペーパーやトイレットペーパーと同じなんだよ! 俺の日陰の女で居続けるつもりなら、まだマシだったんだが、『茶色の紙』なんて分不相応なこと言うんじゃねえよ! とっとと失せろ!!」
息を荒げた良介さんは剥きだしの睾丸を揺らし、愛人さんの顔を幾度もダン、ダンと踏みつけ続けました。
青紫色に腫れあがりゆく愛人さんの顔。
床に鼻血が飛び散り、口からはダラリと舌がはみ出しました。
その惨過ぎる変貌を見ても、良介さんの良心は微塵も痛みませんでした。
ただ、一刻も早く消えてほしかったのです。
”こいつ”とのことは、一切なかったことにしたかったのです。
愛人さんの顔は消えました。
良介さんは、左足前の奥さんの顔が喜ぶものだと思っていました。
良介さんが「緑の紙」を選ばずに、けれども”妻である自分のことを選んでくれたのだ”という選択に。
ですが……
左足前にあったのは、奥さんの顔ではありませんでした。
良介さんの見知らぬ中年女の顔がそこにありました。
艶のないチリチリの髪の毛、たるみ切ったブヨブヨの頬。
ニタニタと笑みを浮かべていた中年女は、良介さんが丸出しにしていたままの陰茎と睾丸を見て、舌なめずりをしました。
まるで蛇のように長い舌でした。
良介さんの本能的恐怖ならび本能的嫌悪のボルテージは、もう限界を超えようとしています。
けれども、猛毒の蛇に睨まれた小さき蛙のように、良介さんは口も手も足も動かすことが出来ませんでした。
その顔面にさらに醜悪な笑みをニタアアアッと広げた中年女は、良介さんに確認してきました。
「白い紙ね? 白い紙がいいのね?」と。
※※※
その後のことについては、良介さんはあまり覚えていないそうです。
ただ、間もなくして、愛人さんとは別れたとは言っていました。
愛人さんの顔は赤紫に腫れあがっていたり、鼻骨が折れていたりなどはしていなかったそうです。
良介さんが恐る恐る切り出した別れ話に、愛人さんはあっさりと同意してくれたとも。
良介さんにとって愛人さんはセックスのためだけの相手でしたが、向こうも同じだったのでしょう。
貞操観念の緩い男女の束の間の肉欲の貪り。
それだけだったのです。
奥さんにバレることなく、良介さんは愛人さんをきっぱり切ることができたようですが、別のことに悩まされるようになりました。
声が聞こえるのです。
時と場所を問わず、ふとした時に、あの不気味で醜悪な中年女の声が聞こえるのです。
「白い紙ね? 白い紙がいいのね?」と。
あの時は仕事に疲れていて脳が俺に妙な幻を見せてきただけだ、と良介さんが無理矢理に思い込むことを選択した後も、中年女からの”確認”はじっとりとしつこく続いていたそうです。
さらに時折、”顔を濡れた白い紙で覆われる夢”をまでをも見ていたそうです。
顔に張り付くその白い紙は、良介さんが夢でもがけばもがくほどにべったりと張り付いてきていたということです。
良介さんですが、件の中年女性に心当たりなど一切ないと言っていました。
理由なき怪異。
良介さんが奥さんを裏切っていなければ、あるいは愛人さんを性欲処理のために利用していなければ、あんなものには遭遇しなかったのでしょうか?
それとも、良介さんがあの日、あの時、あの公衆トイレに入る選択をしなければ、良かったのでしょうか?
そして、良介さんには助かる運命のルートは残されていなかったのでしょうか?
そうです。
良介さんは助からなかったのです。
奥さんが彼の遺体の第一発見者でした。
良介さんは、自宅のトイレで下半身を丸出しにしたまま、亡くなってしまいました。
便器の水で濡らしたトイレットペーパーを、”良介さん自らが顔にグルグルと何重にも巻き付けた”としか思えない状況で絶命していたとのことです。
(完)
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