Episode1 雲が晴れた

 終わってしまった恋を、完全に終えることができるのはいつなのだろう?

 二年間も付き合った彼氏と三か月前に別れた。

 私は別れたくなどなかった。

 でも、彼氏が――正確に言うなら元カレが――私との別れを望んだ。

 だから、私は受け入れた。

 これは仕方のないことなのだと。


 私の人生から、元カレが去った後も時間は流れていく。

 その流れに乗ろうとしてもなかなか乗れない私の元に、元カレに新しい彼女が出来たとの一報がもたらされた。

 いつかはこんな日が来るとは思っていた。

 正直、今はまだ知りたくなかった。


 でも、耳に入れてくる人がいるのだ。

 私が聞いてもいないのに、私に話してくる人がいるのだ。

 その人が私と元カレの共通の知人レベルなら、顔を合わす回数を意図して減らせばいいだけなのだが、最悪なことに私とその人は同僚という関係にもあった。

 しかも、その人の方が勤務歴も長いうえ年上というおまけ付きだ。


「……とにかくね、すっごく美人だったのよ。その新カノさんって」


 件の同僚、狐塚(きつねづか)さんが、目を輝かせながら興奮気味に言う。

 元カレに関することだけでなく、限られた休憩時間ぐらい狐塚さんのお喋りという重圧から解放されたい私であったが、職場は女性の数自体が少ないがゆえ、仕方なく一緒にお昼ご飯を食べている。

 まるで十字架を背負わされているような重すぎるミッションであるも。


 私の心は――まだまだふさがりそうにない終わった恋の傷痕は――ズキズキと呻き声をあげはじめたが、それを決して顔に出さないようにして、私は狐塚さんの話に相槌を打つ。

 そんな私を見て、面白くなさそうな顔をした狐塚さんは、なおも続ける。


「私、あんなに綺麗な人を見たの初めてかもしれない。芸能人も霞むぐらいの超美人っていうか」


 狐塚さんの話をそのまま信じるなら、要するに元カレは私よりかなり格上の女性を捕まえたということであろう。

 実のところ、私は自分自身をそれなりに”悪くはない”とは密かに思っていたが、手放しで”美人”と形容できたり、ましてやその上に”超”が付くには厳しいとは自覚している。


「私、思わず、新カノさんに聞きそうにもなったのよ。『なんで、そんなに華やかで綺麗なのに、モデルや女優にならなかったんですか?』ってね」


 私は「?」と首を傾げそうになった。

 確かに、元カレのルックスやスペックも客観的に見て”悪くはない”だろう。

 だが、”明らかに一般人に見えないほど華やかな美人”なら、同等の男性と付き合うのではないだろうか、と。

 私や元カレとは生活圏自体が違うのではないだろうか、と。

 

「写真があったら、見せてあげられたんだけど。どうやら、新カノさん”も”SNSをしていないみたいね」


 …………ということは、狐塚さんは新カノさんの名前を把握しているうえ、ネットで検索までしたのか。

 気持ち悪い。

 この人のこういうところが嫌なのだ。


 SNSをしていない新カノさん。

 思い返せば、元カレもSNSの類に全く興味はないようだった。

「自分はそんなつもりはなくても、ちょっとした投稿が誰かを傷つけたり、炎上したりすることがないとは言えないだろ? そのうえ投稿者本人が棺桶に入った後にすら消えないデジタルタトゥーへと変化してしまう可能性も無きにしも非ずなんだから、最初から手を出さないに限るな」と言っていたことを思い出す。

 私自身もSNSはしていないが、それは元カレと考えを同じくしていたというより、単にマメな性格でないからしないだけであった。


 私の顔を覗き込んだ狐塚さんが、”両唇の端をあげながらも”怯えたような声を出す。


「やだ、すごい顔してる。怖ぁぁい……頼むから、痴情のもつれによる殺人事件とか起さないでよ」


 この言葉には、私もさすがにムッとせざるを得ない。

 確かに私はまだ元カレに未練がある。

 顔を見たこともない新カノさんに対しての嫉妬や憎悪だって、皆無であるはずがない。

 でも、終わった恋は私自身で完全に終わらせる、つまりは蹴りをつけなければならないことだ。


 それに暴力的で陰惨な結末へと行き付く恋愛トラブルなんて、レアケース中のレアケースだ。

 滅多に起こることじゃないし、私自身だって起こす気はない。

 だからこそ、ニュースになるのだ。

 フッたフラれた、別れたい別れたくない、なんてことが全て殺人事件に結び付いていたら、警察もマスコミもネット民も、何より葬儀社だって休む間もないだろう。


「心配しなくても、そんなことしませんよ」


「ホントかなぁ? まだ元カレくんに未練あるんじゃないの?」


「……まだ別れて三か月ですからね。完全に”過去の人”にはなってはいないのは正直なところですけど。でも、今さら元カレに縋り付いたって自分が惨めになるだけですし」


「”惨め”って、それって自分のプライドの方が大切ってことじゃない? 何もかも捨ててしまえるぐらい誰かを好きになったことないのかなぁ(笑)」


 そう言うあなたは、”何もかも捨ててしまえるぐらい誰かを好きになったこと”があるんですか、と思わず問いたくなった。

 私が期待通りの反応を示さないことが面白くないのか、狐塚さんはなおも続ける。


「ここだけの話なんだけどね、元カレくん、新カノさんにこんなことも言ってたの、聞いちゃったのよ。あなたと新カノさんは、ルックスもスタイルも”月とスッポン”だって。なんで、あんなのと二年も付き合ってしまったんだろうって。性格も合わなくて付き合い始めた時からずっと別れたかったし、別れる時は別れる時でそりゃあ大変だったって」


 私の顔がカッと熱を持った。

 双方が”完全に”同意しての円満な別れとはいなかったが、私は泣き叫んだり、彼を殴りつけたりなんて修羅場に突入した記憶はない。

 また付き合っている間も、彼をいいように扱ったり、はたまた彼の友人の前でメンツを潰したりしたこともないはずだ。

 確かに私は、芸能人級の美人らしい新カノさんに比べると何もかも劣るのだろう。

 でも、彼の心が錨のごとく私の所に留まっていた間、彼が私に見せてくれた笑顔や愛情の数々は嘘偽りではなかったと信じたい。


「あの……それって、本当のことなんですか?」


 私は思わず、狐塚さんをねめつけてしまっていた。

 ビクッと両肩を震わせた狐塚さんは、目を泳がせ、上ずった声で答える。


「ホ、ホントよ。だって、私、この間、新カノさんを連れた元カレくんに会ったんだから……それに、外野の私が嘘を言って何になるの?」


 何になる?

 人が困っていたり、傷つく顔を見るのが好きな人というのは一定数いる。

 外野のくせに、人の心やその場を掻きまわすだけ掻きまわして、後は知らないと無関係のふりを装う輩は。

 この人も、自覚してるのかそうでないのかは知らないが、そういう輩の一人だ。


 そんなことを続けていると嫌われるし、恨まれますよ。

 取り返しのつかないことを招いてしまったら、どうするんですか?


 年上の同僚とはいえ、注意してあげるのが本人のためになるのかもしれない。

 でも、本人の性分なのだろうし、私はこの人と単なる知人ならび同僚以上の付き合いをする気は毛頭ない。

 だから、モヤモヤしたものが心に沈殿していったが、私は何も言わなかった。



※※※



 狐塚さんにモヤモヤさせられた数日後、私は一人でバーに向かった。

 このバーには元カレと二、三回ほど足を運んだ記憶があった。

 常連というほどでもないのに、バーのマスターは私のことを覚えていてくれたらしい。

  

 「また来ていただけたなんてうれしいです」と言ってくれたマスターは、こっそりとおつまみをサービスしてくれた。

 私が二杯目のカクテルに口を付けた時、新たな客がバーの扉を開ける音がした。


 チラリとそっちに視線を移した私の目に映ったのは、元カレとその元カレを手を繋ぎながら入ってきた細身の女性だった。


 心臓が跳ね上がりそうになった。

 いや、実際にドクンという音が聞こえてきた。


 でも、なぜだろう?

 最初のドクンという跳ね上がり以降の私は、なぜか冷静なままであった。

 あれだけ好きだった元カレ、未練があるなんてモンじゃなかった元カレ、あり得ないと分かっていても復縁の申し込みを望んでいたはずの元カレであったはずなのに。


 女として二十ン年生きてきた私であるも、女心って本当に不思議だ。

 何とも思わなかったといったら嘘にはなるが、思ったほどのショックを受けてはいないというのが正直なところだ。


 元カレの新カノさんだが、私の想像図――正確に言うなら、狐塚さんから強制的に聞かされた情報によって作り上げられた想像図――とはかなり違っていた。

 彼女の顔立ちは整っていると言えば整っている方なのかもしれない。

 でも、芸能人も霞むほどの華やかな美人とは言い難かった。

 モデルや女優と見紛うほどの美貌やスタイルには程遠く、ファッションも地味目でいかにも大人しそうな一般人女性といった感じだ。

 人の好みは本当にひとそれぞれであるも、少なくとも外見に関しては私と彼女は”月とスッポン”と言われるほどではない。

 せいぜい”スッポンとスッポン”、つまりは”一般人と一般人”といったところか。


 元カレは私に気づいたらしい。

 ちょっと気まずそうな顔をしたも、”よぉ、久しぶり”といった感じで私に向かって片手を上げた。

 私も”久しぶり”と口には出さずに、彼に片手を上げ返した。

 

 この”無言の会話”を見た新カノさんは、私が”前カノ”であることを悟ったようだ。

 私が儀礼的に軽く頭を下げると、彼女も頭を下げ返してはくれた。

 彼女の頬は強張っていたが、きっと私の頬も強張っていたはずだ。

 何をやっているんだろう、と互いに思っているに違いなかった。


 マスターのいるカウンターに視線を戻した私の頬の強張りは徐々に緩んではきた。   しかし、それと反比例するように”狐塚さんに対する怒り”が再燃してきた。

 

 あの人はああいう人だって分かっていた。

 話を――新カノさんの容貌を――”盛りに盛りまくる”というホラを吹いて私が嫉妬の炎にまかれながら、悶え苦しむ顔を見たかっただけなのだろう。


 けれども、仮に狐塚さんの言う通りが超絶美人であったとしても、女としての完全なる敗北を突き付けられたには違いないけれども、今の私は同じくわりと冷静なままだったような気がする。


 元カレとのことは、もう終わったことだ。

 そう、私の中でもとっくに終わっていたんだ。

 

 終わった恋を――例えるなら”土の中に埋めた棺”を――掘り返すなんて真似はしない。

 元カレを愛していたという思い出は、このまま静かに眠らせてあげよう。


 カクテルを飲み終えた私は、バーを後にした。



※※※



 バーでの思わぬ再会から数日経過したが、元カレに対する思いがぶり返してくることはなかった。

 それどころか、一人暮らしのマンションの窓から見える空の青さが、つまりは何でもない普段の光景が、妙に胸に染み入るようになっていた。

 数日前まで、私の心にはジトジトと雨が降り続いていた。

 でも、やっと雲が晴れた。

 雨が上がった空は、より一層、その青さも清々しさも増しているものだ。

 今日は休日であり、狐塚さんと顔を合わせなくて済むという嬉しさも相乗されているのかもしれない。


 今日は何をして過ごそうかな、一人だって悪くないし、と私が腰を上げた時、玄関のチャイムが鳴った。

 このマンションはオートロックではない。

 つまり、私の部屋の玄関扉の前には、誰でもやってくることができる。

 契約する時、母親が「女の子なんだし、万が一のことを考えて、オートロックのマンションにした方がいいわよ、絶対に」と心配そうな顔をしていたも、「そんなに心配することないって。お母さんが心配しているようなことなんて起こらないわよ。変態がそこら辺にゴロゴロいるわけないでしょ」と笑い飛ばしたことを覚えている。


 けれども、念のため、インターホンで「どなたですか?」と確認する。

 事件なんて滅多に起こることじゃない。

 そう滅多に起こることじゃないからこそ、ニュースになってしまうのだ。


「……あの、アサジさんのお宅じゃないんでしょうか?」


 インターホンから聞こえてきたのは、戸惑い気味の女性の声だった。

 もしかしたら、この部屋の前の住人なのかもしれないが、アサジさんという人に私は心当たりはない。


「いいえ、違いますね」


「……そうでしたか、ごめんなさい。私、部屋というか……マンション自体、間違えちゃったんでしょうか? この辺りには初めて来るから、良く分からなくて……」


 確かにこの近隣には似たようなデザインや名前のマンションが乱立している。

 私は困っている彼女の助けになればという気持ちで、玄関のドアを開けた。

 玄関のチェーンを外してしまったが、インターホンから聞こえてきたのは女性の声だけだったし、私は親切心からドアを開けた。

 ただ、それだけだった。


 最初は、何が起こったのか分からなかった。


 なぜ、あなたがここに?

 それになぜ、私の住所を知っているの?


 何の躊躇もなく、私の左胸にズンと包丁が突き立てられたことは紛れもない現実であった。

 比喩ではない胸の激痛と息苦しさが、驚愕が、恐怖が、絶望が、その場に崩れ落ちた私に襲い掛かってきた。


 私を刺した女は――”元カレの新カノ”は――泣いていた。


「……ごめんなさい……あなたという存在にこれ以上、耐えられそうになかったんです。私は高校時代からずっと彼のことが好きで、フリーになった彼と付き合えるようになった時は本当にうれしかった。思いは通じるんだって、やっぱり彼は私の運命の人だったんだって……だけど、”狐塚さんって人”が教えてくれたんです。彼の前カノは、私なんかとはまさに”月とスッポン”な美人だって。彼だって、もう一度、チャンスが巡ってきたならあなたとヨリを戻そうとするに違いないって……この間、バーであなたに会いましたけど、狐塚さんの言っていた通り、あなたはとても綺麗で洗練されていて、私にだって余裕で勝ち誇ったように会釈してきて…………あなたと話しているバーのマスターだってうれしそうで、あなたには完全に美人に対する目を向けていて……っ………」


 ……え?

 あの時、私だって余裕で会釈をしたわけではない。

 勝ち誇っていたわけでも断じてない。

 それに、私は自分が思っていたよりも美人だったということ?

 いや、そんなことより……フッたフラれた、別れたい別れたくない、なんて男女間のよくある”もつれ”ならともかく、刃傷沙汰にまで発展することなんて滅多にないことなんじゃ……自分の身だけは起こるはずのないことだと思っていた。

 まさか、私がそんな滅多にないことに巻き込まれるなんて……!!!


 彼女は泣きじゃくりながら、苦しみにもがく私の胸をブスブスと容赦なく刺しまくってきた。

 ついに私は事切れた。

 でも、私の意識はこの殺人現場にまだ残留していた。


「……良かった。やっと動かなくなってくれた……っ……彼の心からあなたを完全に消すためには、あなたに消えてもらうしかなかったんです」


 いやいや、あんた馬鹿か?

 あんたが”こんなこと”をしてしまったら、余計に消えるはずなどないだろう。

 元カレの中で私は単なる”前カノの一人”から、”新カノに殺された前カノ”になってしまったんだから。

 

「……私の心にはずっとモヤモヤと雲が渦巻いていて、ずっと悲しくて苦しくて、どうやったら、この雲は晴れるんだろうって…………でも、やっと雲が晴れた。親切にあなたの住所を教えてくれた狐塚さんって人には本当に感謝したいです」


 オドオドしているくせにお喋りで身勝手な殺人者は、私の死体に向かって全てのネタバレをしてくれた。

 こいつも憎い。許せやしない。

 けれども、こいつと同等に憎いのは……!


 あの狐塚は”親切に”なんかじゃなくて、何か揉め事が起こること期待してというのは本音だろう。

 まさか殺人事件にまで発展するなんて想定していなかっただろうし、あいつの性格上、絶対に白を切り通そうとするはずだ。

 自分のせいで人が一人殺されたという十字架を背負って生きていこうとするはずなどなく、背負うべき十字架から目を逸し続けるに違いない。


 だが、狐塚、あんたも……いや、お前も私を殺した者の一人だ。

 絶対にお前も呪ってやるから。

 末代まで祟ってやるから。



(完)

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