第17話 静かな抵抗
火曜日夜の五味総合興信所。笹桑の声に五味が顔を向ければ、確かにジローが美冬の前に立ちはだかり、玄関への通路を塞いでいる。相変わらず猫背で虚空を見つめてはいたが。
「おい、何してやがる。ジロー、そこどけ」
だがジローは微動だにしない。いつも通り水晶のように透き通った瞳で、何もない空間をじっと見つめている。
「聞こえてんだろうが。わかってんだよ、さっさとそこをどけ!」
それでも反応を見せないジローに苛立った五味は、ソファを乗り越えて駆け寄ると、胸倉をつかんで引っ張った。だが。
「おま、このっ」
ジローは頑として動かない。視線はどこか遠い空間に向けたまま、まるで足に根でも生えたかのように。五味が引いても、押しても、いったいどこにそんな力があったのか、微動だにしなかった。対する五味はぜーぜーと息を切らせている。
「テメエ、どういうつもりだ」
しかし、当然のようにジローから返答はない。五味は息を整えながら少し考え、視線を下に向けた。春男と冬絵が怯えている。
「まさかとは思うが」
五味の眉が不快げに寄った。
「同情してるとか言わねえよな」
ジローは何の反応もしない。それが五味には苛立たしい。
「小さな子供が震えながら、一生懸命お願いしてる。それが可哀想だってか。何とかしてやりたい、手を差し伸べたいってか。あのなあジローくん。ご自分の立場を考えた事ありますか、つーんだよ。オマエはいつから他人に同情できる身分になった。……テメエは同情される側だろうが!」
五味はジローの鼻先に指を突きつけた。
「いいか、テメエはいつだって、どんなときだって同情される側だ! それ以外の道はねえ! この二人だってあと何年かすりゃ、テメエなんぞ追い越して自由に生きて行くんだよ! テメエは一人置いてけぼりにされるんだよ! 人の目も見れねえようなヤツが他人に同情なんぞできると思うな!」
その瞬間。ジローの感情のない目が焦点を結んだ。ほんの数秒だったが、確かに五味を見つめていた。それはいまのジローにできる、全身全霊の抗議。その意味が理解できるからこそ、五味は怒りに我を忘れる。
「この野郎、ぶっ殺すぞ!」
しかし五味の体は背後から、笹桑と親方の二人がかりで羽交い締めにされた。
「五味さん! そんな事言ったらジローくん可哀想じゃないっすか!」
「そうだよ、ちょっと落ち着きな!」
「るっせえ! テメエらまとめて……」
火に油が注がれたかに見えたが、これを一瞬で鎮火したのは外の騒ぎ。パトカーのサイレンと共に、消防車までサイレンと鐘を鳴らして集まっている。
気まずい沈黙が漂う事務所の中に、響いたインターホンのチャイム音。外にいたのは。
「よーう。来たぞ」
入り口を埋め尽くすような、県警捜査一課の原樹敦夫の巨体があった。左手に握られた手錠は、ふて腐れた茶髪の若い男をつなぎ止めている。その背後から、築根麻耶が事務所の中をのぞき込んだ。
「どうした、今日は随分と賑やかだな」
「いったい何事だよ」
困惑している五味を押しのけるように、築根は事務所に入って来る。
「呼んだのはおまえだろう」
「いや、そういう意味じゃなくて」
追いかけてきた五味を背に、築根はじっと見つめていた。春男と冬絵の二人を。
「なるほど」
「何がなるほどだ。表の騒ぎは……」
言いかける五味を無視し、築根は原樹を呼んだ。
「確認した。入ってこい」
「はっ」
原樹は茶髪の男を連れて入ってくる。すると春男は「あっ」と声を上げ、冬絵を連れて河地美冬の背後に隠れた。しかし隠れきれるはずもない。茶髪の若い男はニンマリと笑顔を浮かべると、二人に駆け寄ろうとした。
「やっぱり、いた」
それを原樹が手錠を引いて強引に止める。
「おいこら」
「痛ててて、やめろよ、引っ張るなよ。オレは嘘言ってなかったろ。ホントに子供いたじゃんか」
原樹は五味をにらみつけた。
「おい五味、どういう事だ」
「それはこっちのセリフだ。いったい何がどうなってる」
半ば呆れている五味に、築根が説明した。
「この茶髪は、ここにいる二人の子供の父親だと主張している」
「えらい若い親父だな」
「母親の内縁の夫だ」
「ああ、そういう事ね」
茶髪の男は気色の悪い笑顔を浮かべながら、猫なで声で子供たちに声をかける。
「迎えに来たよ、聖一郎、梨実。一緒に帰ろう。お母さんも心配してるよ」
だが二人は明らかに怯え、逃げようとしていた。春男が冬絵を背後に隠す。
「で。何でその父親が手錠につながれてるんだ」
五味の指摘に築根は平然と答えた。
「現住建造物等放火の現行犯だからな」
「放火?」
「このビルのゴミ置場に火をつけた瞬間を、原樹が取り押さえた」
原樹はニッと笑う。
「どうだ、お手柄だろう」
けれど茶髪の男は悪びれない。
「仕方ないだろ。誘拐された子供を助け出すためだ。正当防衛だよ」
「嘘だ! ボクらは誘拐なんかされてない!」
春男が河地美冬の背中越しに抗議する。それに茶髪はこう返した。
「いけないなあ聖一郎。嘘つきは泥棒の始まりだって教えたろ」
「嘘つきはおまえだ!」
春男にそう言われた瞬間、豹変する男。
「誰が嘘つきだオラァッ! もっぺん言ってみろ!」
とびかかりそうになったのを、原樹が慌てて手錠で引き戻した。
「おとなしくしろ! 面倒臭い」
「痛ててて、暴力だぁ、虐待だぁ、マスコミにばらしてやるぅ」
オモチャ売り場の前で駄々をこねる子供のように、男はジタバタ暴れる。原樹は困り果てた顔だ。
「どうします、警部補」
「どうもこうも、所轄に引き渡す以外にないだろう」
そう言う築根は、意味ありげに五味を見つめた。探偵は、しゃがみ込むとタバコを咥え火を点ける。そして煙を茶髪の男の顔に吹きかけた。これに首を振って飛び起きる茶髪。
「ぶぇっ、何すんだよ誘拐犯が!」
「一つ聞きたい。オマエに教えたのは誰だ」
「……あ?」
「ここにガキがいるって事をオマエに教えてくれたのは、どんなジジイだったって聞いてんだよ」
茶髪の男は、馬鹿にしたような笑みを浮かべる。
「へ、ジジイじゃねえよ。ババアだ」
「ババア? 本当だろうな」
「本当だよ。夕方、駅の近くにたむろしてるホームレスのババアがオレに教えたのさ」
五味は立ち上がり原樹を見た。
「調べられるか」
「調べるって、何をだ」
「今日のうちに、ホームレスの婆さんが殺されてないかをだよ」
茶髪の男は慌てて立ち上がる。
「何だよそれ、オレは何もやってないぞ」
それに五味は、心底軽蔑した目で応えた。
「知ってるよ。ガキを殴るしか能のねえヤツに、マトモな殺しなんぞできるか」
「んだとオラァッ!」
噛み付かんばかりに吠える茶髪の鼻を左手でひねると、五味は右手のタバコの燃える先端を相手の目玉の前に置いた。あと数ミリ近付ければ、ジュッと音がしただろう。
「おい五味!」
築根の声を聞くまでもなく、五味はタバコを引き、口に咥えた。そしてようやく気付いたかのように、鼻をつかんでいた左手も放す。茶髪はうつむいた顔を押さえて、肩で息をしている。
「もういい原樹。そいつを所轄に引き渡してこい」
「はっ」
原樹は男を引きずるように外に出て行った。ドアが閉まる音がする。
「おまえな、仮にも刑事が二人いる前だぞ。無茶な事はするな」
呆れている築根から、五味は顔をそむけた。
「ああスンマセンね。うっかりうっかり」
「それにしても」
築根は事務所の中を見回した。何ともバラエティに富んだ顔ぶれが揃っている。
「また何かに巻き込まれてるんじゃないだろうな」
「それについてだがよ」
五味はジローを横目でにらみつけながらソファに座ると、こうたずねた。
「アンタの意見を聞きたい。霊源寺始の転落死についてどう思う」
築根が目をみはったのは言うまでもない。
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