奇人に偉人、現る
第11話
ロースじゃなくてヒレがいい。
そんなことを考えながら、とんかつを口に運ぶ。
今日の夕食はとんかつに山盛りのきゃべつというお肉大好き人間の美空が喜びそうなメニューだけれど、隣に彼女はいない。今、美空は練習室にいる。
食事は決められた時間内に食べればいいから、練習室が使える時間に食事時間が左右されることが多い。
とんかつ、早く食べたい。
よだれを垂らしそうな顔をして練習室に向かった美空を思い出しながらとんかつを頬張る。
正直な話、助かった。
今日、廊下で私と田中さんが喋っていたことが音楽科の生徒の好奇心を刺激したようで、普段喋らない田中さんになにがあったら廊下で人と話し合うようなことになるのか美空から聞かれ続けていたから、彼女がいたらとんかつをゆっくり味わうことができなかった。
田中さんが饒舌だった理由。
そんなことを私に聞かれても困る。
大体、田中さんだって人間なのだから、喋りながら廊下を歩いていたっておかしくない。誰もがするお喋りなんてことで騒がれる彼女には同情を禁じ得ない。
私はとんかつ、キャベツ、とんかつ、とんかつと不規則にお皿の上のおかずを食べて、ご飯を一口、二口と口に運ぶ。お皿の上が半分ほど片付いたところで、ガタッと椅子が鳴る音が聞こえ、よく通る声が食堂に響いた。
「バッハ先生の声が聞こえた!」
声がしたほうを見ると、二つ向こうのテーブルで
「あ、奥枝にバッハが降臨した」
「バッハは絶対に呼んでない。呼んでないからご飯食べようね」
「とんかつまだ残ってるから」
同じテーブルの先輩たちも立ち上がり、奥枝先輩の腕を掴んで座らせようとしているが、奥枝先輩の意思は固い。
「ううん。私には聞こえた。弾いてくる!」
いつものやつだ、と思う。
一つ上の先輩、二年生の奥枝先輩は、ときどき過去の偉大な作曲家の声を聞く。それは今日のようにバッハのときもあれば、ショパンやベートーヴェンのときもある。他にも何人かの声が聞こえるらしい。いや、本当に聞こえているのかはわからないけれど、本人は偉大なる作曲家たちの声が聞こえると言っている。
「ちょっと、ひなた。食べてからにしなって。バッハ先生はまた来るから」
奥枝先輩と同室で、彼女のお守り役でもある
「今来たバッハ先生は今しかいないよ」
「そうかもだけど、明日のバッハ先生でもいいでしょ」
「駄目だから。じゃあ、私、今日のバッハ先生とピアノ弾いてくるね」
奥枝先輩はかわいくて優しい声できっぱりと言い切ると、小柄な体のどこから出しているのかわからない力で三輪先輩の手から逃れ、走り出す。
「ひなた、待ちなって」
食堂に三輪先輩の声が響くが、どう見ても奥枝先輩には聞こえていない。先輩はあっという間に食堂から出て行っていき、私は食べかけのご飯をテーブルに置いて立ち上がった。
「あーもう。悪いけど一年生、ひなたにバッハが降臨したから捕まえてきて」
三輪先輩がため息をつきながら言い、一年生が固まって座っているテーブルを見る。
「私、行ってきます」
短く答えて、私はダッシュで奥枝先輩を追いかける。
奥枝先輩係決定あみだ。
一年間、奥枝先輩の“降臨タイム”に付き合ってきた二年生は、後輩ができたら奥枝先輩を連れ戻しに行く係を任せようと思っていたらしく、私たち一年生はこの寮に入ってすぐにそのあみだくじに付き合わされた。そして、私を含む数名が奥枝先輩係に任命され、今に至っている。
今日は他の奥枝先輩係が練習室にいるようで、まだ食堂に来ていないから私が追いかけるしかない。
でも、嫌いじゃない。
この係には、食事の途中で席を立たなければいけないという辛さを超える楽しみがある。
ダッシュはつらいから、走ってピアノを弾きに行くのはやめてほしいけれど、これは諦めるしかない。
奥枝先輩が使う練習室は決まっているから、迷うことなく練習棟に向かって走る。あまり速くはないけれど走って、走る。
先輩は練習室の中に人がいても追い出して弾き始めるから、早く止めないと面倒なことになる。
私は練習棟の扉を開けて中に入り、階段を駆け上がる。
ご飯を食べてすぐに走ったから横っ腹が痛い。
いつも奥枝先輩が使う二階、一番手前の練習室からピアノの音が漏れ聞こえてくる。扉の前に立って小窓から中を覗き見ると、ふわふわした長い髪が揺れている。
廊下に練習室を追い出された生徒もいないし、今回は被害者がいなかったらしい。
私は扉をノックする。
当然、ピアノは鳴り止まない。
そっと扉を開けて「先輩」と呼んでみるが、奥枝先輩はピアノを弾き続けている。練習室には、バッハが作曲した『
二時間コースかあ。
平均律クラヴィーア曲集は第一巻と第二巻があり、それぞれ二十四曲ある。先輩が弾いているのは第一巻だが、これを一番から二十四番まで弾いたら二時間近くかかる。
プロの演奏家でもない私たちは、平均律を最初から最後まで通して弾いたりすることはないし、弾けるとも思えないけれど、困ったことに先輩は放っておいたらこのまま第一巻を最後まで弾いてしまう。
頭の中を見てみたいと思う。
普通じゃない。
人とは思えない。
大体、今、先輩の前には楽譜がない。
暗譜したものを弾いている。
しかも、ただ弾いているだけでなく、弾きこなしている。本当にバッハの声が聞こえていて、取り憑かれているのではないかと疑いたくなる光景だ。まさしく“降臨”だと思う。
こういう奥枝先輩を見ていると、「天才」だけではなく「奇人」という言葉も浮かぶ。
平均律は前期の実技試験の曲になっていて、私は第一巻の十七番を弾くことになっているが、奥枝先輩のように弾くことはできないと思う。
私は扉の横に寄りかかり、奥枝先輩を見る。
小柄なわりに大きな手が鍵盤の上をしなやかに動き、美しい音を紡ぎ出す。
先輩の音は気持ちが良い。
深い森の中にいるような思慮深さと、上質なコートのような軽やかさを併せ持つ心地のいい音は、いつまでも聞いていたくなるものだ。食事中に席を立ち、奥枝先輩を追いかけてでも聞く価値があると思う。
ただ、平均律を二十四番まで聞くのは長すぎる。
できれば私が弾く十七番まで聞きたいところだけれど、私は四番が終わったところで先輩に近づき、声をかけた。
「先輩」
バッハ先生と脳内で会話しているのか、先輩は返事をしない。
私は、とん、と軽く肩を叩いて、もう一度声をかける。
「先輩、とんかつが待ってます」
「……とんかつ先生?」
先輩が手を止めて、私を見る。
とんかつに先生をつけているところを見ると、完全には意識がこちら側に戻ってきていないようだ。
「先生ではなく、豚です」
私は、ぶう、と自分の鼻を指で押す。
「ああ、豚ちゃん。食べてる途中だったっけ」
今までキリリとした顔で平均律を弾きまくっていたとは思えないのほほんとした声のあと、先輩のお腹がぐうと鳴った。
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