第10話 読書家皇子の奇策

 ホカ峡谷を最速で突破した帝国軍は小休止の後に進軍を開始していた。

 シャルマンを抜けて以降、大した交戦はなかったことが幸いした。

 この峡谷で皇国軍とぶつかり、時間を稼がれることを一番恐れていたから。

 皇都急襲軍の指揮官であるガニア・ゾールはこの後の展開を描いていた。


(皇都クラエスタまで残りはなだらかな平野のみのはず。奇襲も難しく、皇都残留の皇国軍は正面からぶつかることを強いられる。皇都の戦力の大半はシャルマンで確認している。防衛軍さえ突破すれば…)

「ガニア様! 正面をご覧くださいっ!」


 ガニアの読みに落ち度はない。

 むしろ、正確に読み切っていた。

 皇国が誇る二つの騎士団も宮廷魔術師団のほとんども東部国境に入っていた。

 残留軍が少ないというのも正しかった。

 完璧な作戦にするための最後のピースが世界のどこにも転がっていなかっただけなのだ。


 何もないはずの平野に城壁のような岩壁が待ち構えていた。

 




 予想通り呆然と立ち尽くす帝国軍を見て俺はニヤリと笑っていた。


「…まさか土属性を得意とする魔術師たちをこんな使い方をするとは。このユグパレ感服致しました」

「世辞はいい。所詮俺は古臭い異国の兵法書に書かれていたものを現代に持ってきただけだからな」

「………」


 ユグパレは何か言いたそうな顔をしたが黙った。


「さて、どうする帝国軍。迂回すれば時間は大幅にかかる。岩壁の中を突破するなら…」





「報告します。この岩壁は数百メートルにわたっていました。一箇所だけ壁のない地点がありました」

「…時間に追われているのは我ら。迂回すれば確実に皇国軍が追いついてくる。罠だと思うが突っ切るしかない」


 ガニア率いる帝国軍は岩壁のない場所から岩壁の中に突入した。

 そしてすぐにその異様さに呑まれた。


「これは…一体。迷宮か…?」


 内部は入り組んだ迷路のようになっており、ガニアはこの岩壁の目的にすぐに気づいた。


「あくまで時間稼ぎだけが目的……いや、違う! いけない、早く引き返さなければ…」

 

 この一計を用いられたときに既に詰みの盤面だったことにガニアは気づいてしまった。

 元より度重なる強行軍により帝国軍はかなり疲弊していた。

 迂回すれば疲労がさらに累積し、突入すれば余計に時間がかかる。

 

 即時に転身した帝国軍だったが既に入ってきた穴は石壁により塞がっていた。

 

 兵法書を少なからず読んでいたガニアの記憶の片隅にとある陣が引っかかった。


石兵八陣せきへいはちじん…か」


 折れそうな己の心に鞭を打ち、ガニアは脱出を目指す。





「石兵八陣、此処に再現せり」

 

 皇国軍の陣から少し後方に離れた位置から俺は一人、巨石の陣を眺めていた。


 今回再現したのは古の時代に異国の王が無謀な戦いに敗れ、撤退する際にその軍師が用意した策である。

 陣の中は突風が吹いたり、今まであった道が突然塞がれたりしたという。

 これを見た敵側の軍師は即座に撤退を支持したという話もある。


 土属性を得意とする魔術師が四百人もいたからこそ間に合い、実現した策だった。


「さらに打開策を思考する余裕もなくす追い討ちをかけさせてもらおうか。アウリー」


 風を纏って宙に現れたアウリーは気持ちよさそうに伸びをした。


「んーっ! やっぱり緑の多い土地の風は気持ちがいいね」

「嬉しそうなところ悪いが、手筈通りよろしく」

「仕方ないなぁ。嵐を起こしちゃダメなんでしょ? なら風が吹く程度にしておくね」


 アウリーが手を振ると岩壁の中に風が吹き荒れた。

 彼女に取ってのはとても人間が立っていられるような風圧ではなかった。

 岩壁の中を進もうとする屈強な帝国軍の騎士が吹き飛んでいるのを想像し、思わず苦笑いした。


「中はどんな感じだ?」

「だいぶ辛そうだよ。既に意識もない人もいるけど…」

「けど?」

「指揮官っぽい人が出口に向かって進んでるね。妨害しようか?」

「へぇ、石兵八陣を知ってる人がいたってことか。顔を見てみたいから妨害しなくていい。疲労して心を折られた騎士たちなら勝ち目が十分あるしな」

「はーい。ねぇねぇ、少し散歩してきてもいい? ちゃんとやることはしたからさ!」

「あまり遠くに行くなよー」


 俺が幼い子供に言い聞かせるように言うとアウリーは嬉しそうに飛んでいった。

見ていて微笑ましい限りだが、今は一応戦争の最中だ。


「さて、帝国軍の指揮官の顔を拝みに行きますかね」





 かつて帝国一の策士と言われた父に知識は裏切らないと何度も聞かされていた。

 事実、そのおかげであの絶望的な地獄から逃れることができた。


 石兵八陣は本来、地理把握・地形利用・情報処理・天候予測・人心掌握の五つの要素を読み切ってこそ成り立つ。


 地の理を把握し進軍と撤退の有利を読み、地形を利用して敵軍の進軍と撤退を阻み、現在・過去・未来の三点を予測し次なる手を打ち出し、風や雲の流れを読んで天候を予測して利用し、人間の思考と心理を利用し、その心と考えを操作する。


 古の知恵者は魔術のない時代にこの策をやってみせた。


 しかし、今回はどうだ。

 地理はもちろん皇国軍の方が熟知していることだろう。

 地形は平野、こちらの陣容は知る余裕はあってもそれ以外の情報はなし、天候は快晴、人心掌握に関しては不明。


 大方、土の魔術師が地形を変え、風の魔術師で陣内に大風を巻き起こしたのだろう。

 魔術一つで圧倒的不利な状況から覆してきた。


 私に従ってあのじごくを抜け出せたのは三千強ほど。

 千以上の兵を失ったが、未だこちらが数の上では有利。

 私が鼓舞し、指揮を盛り返せば…

 

 そこまで考えていると正面から砂煙が近づいてきた。

 皇国旗を翻してやってきたのは屈強な肉体が印象的な壮年の将に率いられた皇国軍だ。


「まさかこのような強行軍を帝国側が仕掛けてくるとは思いませんでした」

「いえいえ、こちらもあまり時間をかける余裕がなかったので」

「ましては指揮官が貴殿ほどの将が執るなど予想外でしたな」

「騎士や兵に死ねと命令して自分は安全圏にいるというのがどうにも性に合わないものでして」


 強靭そうな身体とは裏腹に物腰柔らかな老将と問答を繰り返しているとその後ろに青い外套を目深に纏った人物がいることに気がついた。


「…既にご存知のようですが、名乗らせて頂きましょう。ルクディア帝国中央参謀本部所属、ガニア・ゼック・ゾールと申します。貴殿のお名前を聞いても?」

「これはご丁寧に。アルニア皇国軍元帥ユグパレ・フォン・グライツナーと申します。以後お見知り置きを」

「…!貴殿が【救国の英雄】と名高いユグパレ殿か」


 かつて大陸全土を襲った魔人軍。

 帝国も自領の防衛に精一杯で他国を救援する余裕はなかった。

 魔人戦争中に多くの国々が滅んだ中、アルニア皇国は国土を守り切っていた。

 のちに聞いた話では魔人の侵攻を受けた皇国北部国境軍を率いて耐え忍んだ将軍こそ目の前のユグパレだ。


「私はそのような大それた評価に値する男ではありません。それに此度の戦いで私はまだ何もしていないので」

「あの石兵八陣は貴殿の策ではないと…? では誰が…」

「少し喋りすぎましたな。そろそろ確認に入るとしましょう。ガニア殿、降伏しては頂けませんか?」

「…兵の数も練度も有利な我々が降伏するとでも?」

「そうでしょうね。故に確認と申し上げた。私としては何もせず降伏されますと物足りませぬので。では次は私の軍略を味わってもらうことにいたしましょう」


 …何もせずなどよく言えたものだ。

 もしも私が石兵八陣を初見であればあれだけで詰んでいた。


「それでは後ほど戦場でお会いしましょう」


 一度離脱していくユグパレと青い外套を身につけた者を見送った。

 手段を選ばず、何も備えがないようだったらあの場でユグパレ殿を斬っていた。

 しかし、皇国軍の中で魔力の高まりを感じていた。

 背を追えば間違いなく魔術が一斉に飛んできたことだろう。


「…残された時間は二日あればいい方か」


 二日もすれば追手が来るだろう。

 その前にあのユグパレ殿を打倒しなければならない。

 私は負けそうになる心を叱咤してこれからの動きを考えた。

 


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