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 隠形符おんぎょうふの効果は即興の割に抜群で、ニコラ自身が驚く程だった。


 ニコラは自身が行使する術はともかく、呪符を作るのはそこまで得意ではなく、呪符の効果にはムラっけがある方なのだ。

 即興の割に十全な効果になったのは、間違いなく火事場の馬鹿力という奴だろう。


 だが、おかげで女子寮には圧倒的に不似合いな、猫を抱いたガタイのいい青年とすれ違っても、誰一人振り返ることはない。

 ニコラは得意げになって、何度もエルンストを振り向いてドヤ顔をしてしまうほどだった。


 やがて、ニコラは目的の部屋の階へ辿り着く。

 その人物の部屋の六メートル以上手前から、エルンストに抱き抱えられた猫はフーッと牙を剥き出しにして険しく唸り始めた。

 そして五メートルを切った辺りで堪らないとでも言うように毛を逆立て威嚇し、飛び降りて走り去って行く。


 それが何よりも答えを明確に示していて、ニコラはそっと目を伏せた。


 コンコンコンコンと戸を叩く。

 西洋で二回のノックはトイレノック。

 思えば初めて会った時にも、彼女はコンコンとノックしていたなと、ニコラは思いを馳せる。


「ニコラ・フォン・ウェーバーです。どうしても確かめたいことがあるので、お部屋に入れてくださいませんか」


 その人物は亜麻色の豊かな巻き髪をふわりと揺らして、ひょっこりと扉から顔を覗かせてあでやかに笑った。


「あら、ニコラちゃん? そうね、この後は予定がありますから……二十分ほどでよろしければ、どうぞお入りになって」


 同性でさえ羨んでしまいそうなほどの抜群のプロポーションを誇るその侯爵令嬢は、あっさりとニコラを招き入れた。


「寮の私室ったら、狭くて嫌ですわね? とりあえず自由にお座りになってね。あ、そうだ紅茶でも、」


 もてなそうとするオリヴィアを、ニコラは無視して言葉を遮る。

 結論は端的に。一分一秒でも時間が惜しいのだ。冗長な前置きなどいらなかった。


「私も、猫に嫌われるんですよ。前世ではそんなことはなかったんですけど。こっちでは何故かいつも引っ掻かれるようになってしまって。でも逆に言えば、引っ掻かれる距離まではいつも近付けるんです。…………貴方ほどじゃない」


 ニコラは皮肉げに口の端を上げる。

 あの日の茶会の席でも、猫は五、六メートルも先から、近付きたくないと言わんばかりに威嚇していた。

 猫が逃げ出したのは、ニコラが居たからではなく、オリヴィアが居たからだ。


「貴方が猫と私を贄にしたんですね。そして、悪魔に願い事をした。違いますか?」


 机に置いてあるティーポットを手に取ろうとしていたオリヴィアは、はたと手を止める。


「ぜんせ? 悪魔?」

 ニコラを振り返ったオリヴィアは、心底訳が分からないというような、きょとんとした表情で小首を傾げる。


「あ、分かったわ! もしかしてニコラちゃん、小説を書いていらっしゃるのね?」


 オリヴィアは思いついたとでも言うように、胸元で手を合わせた。

 だが、しらばっくれるならそれでも別によかった。茶番に付き合うつもりは無いのだ。ニコラは構わず続ける。


「最初は漠然とした懐かしさとか、ちょっとした違和感で、何が引っかかったのかも分からなかったんですよ」


 そう、ふとした瞬間に魚の小骨が喉に刺さったような、でもしばらくすれば忘れてしまうような、小さなひっかかり。


 それらは、前世でニコラを贄にした人物がオリヴィアではないかという可能性に思い至った途端に、逆説的にその違和感の正体をニコラに教えてくれた。

 

「知っていますか? 笑う時、口許に手を添えて隠すのは日本人だけなんですよ。もちろん『いただきます』を言うのも日本人だけ」


 あの日の茶会でオリヴィアは確かに、アプリコットのジャムに「いただきます」と言い、口許に手を添え楚々と笑っていた。

 何ということはない。ニコラは十数年振りに見聞きした懐かしい行為や仕草に、違和感を覚えていただけだったのだ。


「分かりますよ。染み付いた習慣は、案外消えない」


 ニコラは一歩踏み出す。

 ニコラも昔は、それらの癖を無意識に繰り返してしまうことが多かったのだ。

 だがそれも、幼いジークハルトが「不思議な癖だね」と無邪気に不思議そうに言うたびに、西洋文化の世界観にそぐわない行為なのだと気付いて、いつしか少しずつ矯正されていったことを思い出す。


 それはもう随分と昔のこと。五歳かそこらの時分のことだったので、いつの間にか風化していて、気付くのがこんなにも遅くなってしまったことに苦笑する。

 それほど長い時間を、もうこの世界で過ごしてしまったのだなと、ニコラは心の中で自嘲した。


「ねぇ、貴女が私を呪ったんですよね、あのビスクドールの人形で」


 ニコラは『ひとりかくれんぼ』を思わせる、胴をかち割られ、米の代わりに麦を詰められて赤い糸で封をされたビスクドールを思い出す。

 あの人形もまたコンコンとドアをノックし、決まって丑三つ時午前二時にニコラの元を訪れた。


 西洋文化に夕暮れ時、逢魔が時トワイライトゾーンという概念はあっても、丑三つ時という概念にあたるものは存在しないのだ。

 だからこそ、どことなく日本仕様を思わせるその呪いに、ニコラは真っ先にオリヴィアを思い浮かべた。


 だがそれでも、ニコラは別に本人に確かめようとも、表沙汰にしようとも思っていなかったのだ。

 前世でのことを暴いたとしても、前世の自分が生き返るわけでもなく、何よりいくら自分が呪われたところで、ニコラは自分で対処出来るから。


 呪いの矛先がニコラである限り、呪いは成就しないのだから、報いの跳ね返りが呪者に返ることもない。

 ニコラが標的である限りは、何も行動を起こすつもりはなかったのだ。


 だからこそ、似たような手口でアロイスが呪われた時に、ニコラはひどく困惑した。


「ねぇオリヴィア様。どうして殿下を、自分の婚約者の死を、望んだりしているんですか」


 ニコラは彼女の文机の端に無造作に避けられた、茶会でニコラが渡したジャムのガラス瓶を見遣る。

 ガラス瓶の中にジャムは既に無く、その代わりに最近では見慣れてしまった金色の髪が幾筋か、窓から入る陽光に煌めいていた。


 瓶にはあの日廃墟で感じたものと確かに同じ瘴気の残滓が残っていて、ニコラは顔を歪める。

 確かめたかったことはほとんど全て、状況証拠で明白になってしまった。


 ニコラは一切の表情を削ぎ落としてこちらを見るオリヴィアに視線を戻す。

 どうしても分からないことはただ一つ。何故オリヴィアがアロイスの死をこいねがうのか、それだけだった。





 オリヴィアは口角を三日月のように釣り上げて、ニタリといびつに嗤った。


「……だって、神様が間違えたりするから」

「え?」


 オリヴィアは熱に浮かされたように虚空を見つめ、子どものように地団駄を踏む。


「だってだってだって! せっかく言われた通りに猫だって祓い屋だって贄に捧げてお願いしたのに、神様はアロイスなんかの婚約者に生まれ変わらせちゃったんだもの! あたしが攻略したかったのはジークハルトなのに!」

「…………は?」


 オリヴィアの言葉の意味が分からず、ニコラはぽかんと口を開ける。

 そんなニコラに構わず、オリヴィアはストンと表情を捨て去って吐き捨てた。


「アロイスは邪魔なの。あの男が生きてると、ジークハルトのルートに行けないんだもん」


 お嬢様然とした口調も所作もかなぐり捨ててたオリヴィアの情緒が乱高下するのを、ニコラは呆然と眺めることしか出来なかった。

 〝攻略〟〝ルート〟背筋がぞくりと粟立つ。


「は……ここは、ゲームの中か何かなわけ、?」

「そうよアンタ知らないで生きてたの? ここは乙女ゲーム! ゴミみたいな現実なんか捨てて、好きなゲームの中に転生させてってお願いしたのよ。でもせっかく転生が叶ったのに、最初から好きでもないキャラの婚約者だなんて、ふざけてるでしょ?」


 ───狂っている。

 巫山戯ているのはお前の方だと喉元まで出かかるも、ニコラは頭を振って飲み込んだ。


 オリヴィアはもはや完全に目が狂人のそれだった。焦点は合わず瞳孔は開ききっていて、語る内容もまたどこまでも狂気的。正気とはとても思えなかった。


 そんな巫山戯た理由で殺されたと知って、怒りが湧かないわけがない。そんなくだらない理由のために誰かを殺そうと思う感情など、ニコラには何一つ理解出来なかった。

 それでも、この狂人に真っ当な怒りをぶつけても、何一つ響かないと嫌でも悟る。

 

 ニコラは唇を噛んで深く息を吐き、なんとか激情をやり過ごす。それから努めて冷静に、再び口を開いた。


「どうして今なんですか。昔から婚約していたのに今になって、ッぐ!」

 オリヴィアはニコラの胸倉に掴みかかり、激しく揺さぶる。

「アンタが現れたからよ!アンタが!」


 オリヴィアは瞳をギラつかせて、歯が全て見えるほどの大口で喚き散らした。

 部屋の隅で動いたエルンストを目で制して、ニコラもその腕を掴み返して、無理やり引き剥がす。


「あたしだって最初はジークハルトとの駆け落ちエンドを狙ってたのよ! だからアロイスが婚約者でも放置したまま、生徒会でジークハルトの好感度をコツコツ上げてたのにッ! ゲームに存在しない幼馴染なんて現れるから! だから!」

「───だったら、婚約者が死んでしまえばいいと?」


 オリヴィアは、うっそりと微笑んだ。


「だって、私たちは侯爵家同士だもの、家格だって釣り合うでしょう?」


 ひたすらに胸糞が悪い話だった。

 自身の欲のためなら、他人の命や動物の命などいとも容易く踏みにじってしまえる彼女が、ニコラにはおぞましくて仕方がない。

 ニコラが引き剥がしたその手ごとオリヴィアを突き放すと、オリヴィアは案外あっさりと離れ、そのままぽすりとベッドの上に腰掛ける。


「あの蜜蜂は、どうやって手に入れたんですか」

「さぁ、知らない。神様が捕まえてきてくれたし。あたしは神様のアドバイスの通りにやっただけ」


 オリヴィアは、もはやニコラに興味を無くしたように、ふいと顔を逸らして言った。


 ニコラは眉間にしわを寄せ瞑目する。

 生贄を所望してこんな俗で馬鹿げた願い事を叶える存在が、神なんかである筈がないのだ。


「貴女が願った相手は神なんかじゃない。正真正銘、悪魔だ」

「なんだっていいわ。あたしの願いを叶えてくれるなら」


 オリヴィアはニコラを一瞥もせずに、空虚にそう呟いた。 

 ニコラは最後にオリヴィアの横顔に向かって、静かに問いかける。


「〝人を呪わば穴二つ〟呪った報いは必ず等価として自分に返って来るんです。人を呪殺すれば自分もまた、死からは逃れられない。平安時代、貴族に呪詛を命じられた陰陽師は、相手の墓と自身の墓を二つ掘って臨んだそうですよ。……貴方は、それをきちんと覚悟してやっていますか」


 オリヴィアは小馬鹿にしたような顔でニコラを見上げて笑った。


「それって、どーせ人を呪っちゃダメだっていう教訓的な話でしょ? だってアンタを殺して生贄にしても、あたし何ともなかった! アンタを呪ってもアロイスを呪っても、あたし何ともないわ! アハハハハ!」


 生贄を捧げて悪魔に願うことは、呪詛とはまた別の話。そんなことも混同してしまう程に、彼女は素人なのだ。

 そんな、教育を受けていないずぶの素人が半端なオカルト知識で暴走し、手を出してはいけない領域に手を出してしまった。


「…………そうですか」


 人を呪った報いは、その呪詛が成就した後に返るもの。ノーリスクで人を呪えると勘違いさせてしまった罪は、きっとニコラにもあるのだろう。

 ニコラはエルンストとアイコンタクトを交わすと、沈痛な面持ちで静かに踵を返し、オリヴィアの部屋を後にした。


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