2
目元を刺激され眩しさに瞼を震わせる。
薄目を開ければ、眩しさの正体がカーテンの隙間から室内に差し込む朝日だと分かり、ニコラは他人事のように呟いた。
「あーあ、やらかした」
時計を見て、全く進んでいない課題を見て、深々とため息を吐く。
時計の短針と長針が示す数字は、身支度を整えて始業時間に間に合うように登校するにはまだ余りある時間ではある。
だが、課題を全て終わらせるには圧倒的に足りなかった。
ニコラはぐぐぐ、と両手を上に突き上げ伸びをして身体を覚醒させてから、教師への言い訳を考えながら手早く入浴を済ます。
お湯をせっせと運んでは来るものの、秋とはいえ十分な量になるまでには冷めてしまう。
半ばヤケクソになってぬるま湯を鴉の行水のように浴び、凍えながら部屋に戻れば、机の上をコロコロと転がるジェミニが居た。
「あぁ、おかえり。昨日と一昨日はありがとう」
アロイスに化けてもらっていたことを労ってやれば、ジェミニはぴょこんと小さく跳ねる。
それからジェミニは机の上に置きっぱなしになっていたウィジャボードのアルファベットの上をコロコロと転がるので、ニコラはひょいとボードを覗き込んだ。
『ドアのすきま』
『てがみ』
ジェミニの示す通りにドアを振り返れば、確かにドアの前に紙が落ちていた。
拾い上げたそれは、手紙と言うにはもっと簡素で粗末な、ちぎり取ったメモ紙を二つに折っただけのもの。
それを開いて、ニコラは口笛を吹いた。
「ワーォ」
〝あなたの身の上に、不幸が降り注ぎますように〟
いっそ懐かしささえ覚えてしまうほど古典的な文面に、ニコラは苦笑するしかない。
「ジェミニ、これの差出人、見た?」
机を振り返れば、ウィジャボードのNOの上でジェミニはもよんもよんとバウンドする。
「そう。ま、いいや」
呪詛とも呼べないような児戯だと、ニコラは適当にそれを折り畳む。
病は気から、呪いも気から。人は思い込みで死んでしまうことさえ出来る器用な生き物だ。
軽度の呪いは「他人から呪われている」と被呪者が認識することで初めて発動する。「呪われている」という自身の思い込みから体調を崩したりと、自ら不幸を呼び寄せてしまうのだ。
『人を呪わば穴二つ』とは言うが、こういった類はそもそも呪いとして発動するかどうかも、その効果もすべて被呪者の心持ちに依存するため、報いの跳ね返りもまちまち。
呪詛というにはやはり程遠い児戯だった。
当然ながら、ギミックを知っているニコラが相手では呪いが発動するはずもない。犯人を特定する気も特には起きなかった。
眠くもないくせにくありと欠伸を一つ零して制服に着替えると、ニコラは普段よりも余裕をもって、のんびりと登校した。
───とまぁ、朝の時点では本当に犯人を特定する気はなかったのだが、気分とは変わるもの。
午前最後の授業をぼんやりと聞き流しつつ、ニコラは渋面でボソリと呟いていた。
「……一周回ってなんか腹立ってきたな」
知らぬ間に知らぬ人間に「不幸になれ」と願われるのは、よくよく考えると不愉快だった。呪いは発動こそしなかったが、送り主はニコラの気分を害すことには成功したらしい。
「こらこら。私語は慎みなさいって、また怒られるわよ? すでに課題のことで目を付けられてるんだから」
「まぁ、確かに嫌味ったらしかったし、仕方ないけどね」
幸いニコラの呟きは、大教室での数クラス合同授業であったため、響き渡ることもなかったが、その代わりにバッチリ両隣には聞こえていたらしい。
両隣に座るカリンとエルザはニコラの怒りの矛先は教師だと思ったらしく、どうどうと
休日は体調を崩してしまい課題が終わらなかったと言い訳したニコラは、授業の始まりに衆人環視のもと、かなりねちっこく嫌味を言われたのだ。
おまけに課題自体も無くなった訳ではなく、期日が明日に伸びただけ。
不機嫌の原因の一端という意味では、その教師の嫌味もあながち間違いではなかった。
ニコラの胸中では、教師の必要以上の嫌味に対する苛立ち、好きで休日を棒に振った訳ではないという不満、見知らぬ人間に不幸を願われた不愉快さがぐるぐると渦巻く。
不機嫌にもなろうというものだった。
「そんなにむくれると、可愛い顔が台無しよ?」
「ねぇ嫌味?」
カリンのお世辞にも、ささくれ立った心のままに噛み付いてしまう。
「あら、ニコラは自分のことをいつも卑下するけれど、それぞれのパーツとか素材自体はそんなに悪くないじゃない。化粧映えしそうよね」
「そうそう。それなのにニコラったら全く化粧っけがないんだもの。ねぇ、わざと野暮ったくしてなぁい?」
ニコラよりは断然愛らしい顔立ちの二人にまじまじと顔を見られて、ニコラは狭い椅子の上をじりじりと後退る。
いっそ私語を注意されて雑談が中断される方が個人的には有難いが、いかんせん大教室の後方に陣取ってしまったせいで教師の目は行き届いていない。
ずいっと迫るカリンとエルザに、ニコラはタジタジになってしまう。
確かにニコラの顔立ちは中の中で、致命的に誤魔化しがきかないほど不格好なパーツはない。そういう地味な顔立ちというのは、確かに結構化粧が映える。
そんなことは、前世で毎日メイクをしていた彼女からすれば百も承知のことだった。
メイクほど慣れと場数が必要なものはないのだ。化粧を覚えたての十代と、慣れて自分に似合うものがどういうものか熟知した二十代では当然完成度が違う。
ようは、化粧をすると少しばかり垢抜け過ぎてしまうのだ。あえて野暮ったくして没個性を狙っているというのは図星だった。
「ソンナコトナイワ」
ニコラの完全な棒読みに、二人はジトっとした目を向けるが、ニコラは明後日の方角を見てやり過ごすしかない。
だが、例えば傍から見れば何も居ない空間に話しかけている所を、万が一他人に見られてしまったとして。
やはりそういう時には没個性である方が、記憶に残りにくいのだ。ニコラの可もなく不可もない素顔は、そういう意味でも都合が良いのだから仕方ない。
タイミングよく授業終了の鐘が鳴り響き、ニコラはこれ幸いと、急いで参考書を片付けて立ち上がる。
「ほら、お腹すいたから早く食堂に行かない?」
「あ、こら、すぐ話を逸らす!」
「今度の週末、わたし達にお化粧させなさいよ」
「いーや」
やいのやいのと言いつつ人の流れに乗って教室を出る。廊下を歩き出してしばらくすれば、前の方から黄色い声が上がって三人は顔を見合せた。
黄色い声はドミノ倒しのように、次第に三人のもとへ近付いて来る。
背伸びしてぴょこぴょこと前方を覗いたカリンはやがて、無邪気に顔を輝かせて「もう少ししたら銀の君とすれ違えるみたい!」と二人に報告した。彼女は相変わらずのミーハーらしい。
カリンの言う通り、斜め前方からやって来るジークハルトの姿が見えるようになるまで、そう時間はかからなかった。
国さえ傾けられそうな綺羅綺羅しく絢爛なご尊顔を見るに、今日も今日とて抜群に状態が良いらしい。
彼の隣にはアロイスの姿もエルンストの姿もなく、その代わりに十数人の女子生徒に囲まれながらジークハルトは歩いていた。
あれではジークハルトも令嬢たちも歩きにくかろうにと思うものの、彼女らは器用にフォーメーションを崩さずに歩くので、ニコラはいっそ感心する程だった。
彼を取り囲んでいるのはきっと、由緒正しい家柄の才媛たちなのだろう。
髪色も髪型も顔立ちの系統も、その令嬢たちの一群は見事にバラエティ豊富だった。
共通しているのは、皆女子アナにでもなれそうな顔面偏差値であることだろうか。
だがジークハルトは、優美ではあるものの仮面のように作り物めいた完璧な笑みで、令嬢たちを丁寧ではあるものの取り付く島もなくあしらう。
だがその一方で、ニコラとすれ違っても、ジークハルトはニコラを一瞥すらしなかった。
何だかんだ言って、ジークハルトはニコラの意を尊重して、一般生徒の前で繋がりを匂わせるようなことは今までにもしたことがない。
ジークハルトがニコラに関わって来る時は、実は徹底して周りに人が居ないことを確かめた後のことなのだ。
ニコラは幼馴染のそういう所を信用しているし信頼もしているからこそ、学内で大型犬のようにじゃれついて来る時も、ある程度は容認してしまっていた。
恐らく最も気を許している友人であろうアロイス、その従者のエルンスト、そしてアロイスの婚約者かつ生徒会として親交のあるオリヴィアの前だけが例外なだけで、それ以外の場面でジークハルトがその約束を違えたことは一度もないのだ。
結局一度もニコラとジークハルトの視線は交錯することなく、ジークハルトは通り過ぎて行く。
憂い顔が素敵だとか、翳りのある佇まいが魅惑的だとか、そういう声がニコラたちの前後から口々に聞こえて来て、ニコラはほんの少しだけ目を伏せた。
もはや無表情と同義のような、あの鉄壁の笑みでさえそういう風に捉えられてしまうのかと、ニコラは幼馴染に少しだけ同情する。
ジークハルトの見目麗しさと、それを存分に引き立たせる立ち居振る舞い、外面の良さは全て、ジークハルトの鎧だった。しかしその内面は、ただの年相応の青年でしかないのだ。
いやむしろ、望まぬ好意や好意から転じた悪意を向けられ続けた結果、外面ばかりが早熟してしまい、気を許した人間の前では年相応より幼い部分もあるかもしれなかった。
そういう風に育たざるをえなかったジークハルトのことを、誰よりも近い場所で見て来たからこそ、ニコラは彼を明確に拒絶は出来ないでいる。
そのくせ彼の好意に応えることはしないのだから、自分も大概性格が悪いという自覚はあるのだが。
「銀の君って、まだ婚約者はいないでしょ?あんなに綺麗な人と結婚出来る人、羨ましいな」
ぽぉっと頬を赤らめるカリンに対して、エルザはにべもなく切り捨てる。
「そう? 芸術品として美しいなとは思うけど、私は隣に立ちたいとは思えないわ。あの美貌の隣に自分がいるなんて、想像するだけで居た堪れなくない?」
そう言うエルザに、ニコラは雑念を振り払うように激しく頷く。
「ぶっちゃけそれはマジでそう」
「ぶっちゃけ?」
「まじ?」
聞き慣れない言葉に首を傾げる二人をよそに、ニコラはぼんやりと食堂への道筋を辿った。
♢
蜘蛛がいた。
寮内や校舎ではあまり見かけないような、手のひら大の大きさではあるが、自然に囲まれた離宮に行けば、たまに見かけてしまうような、そんな少しばかり大きな蜘蛛。
虫は人並みに好きでも嫌いでもない筈なのに、何故だかどうしようもなく近付きたくなくて、踵を返す。
ちらりと振り返れば、その蜘蛛はまっすぐにこちらを目指して来ているようで、理由も分からず薄気味が悪いと思った時には目が覚めていた。
時計を見ればまだ未明で、もう一眠りしようと横になれば、眠気はすぐに訪れた。
───蜘蛛は二倍の大きさになって、再び夢に現れた。
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