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「じゃあまずは手始めに、昨日僕が見たアレは何か、教えてくれるかな?」


 何、と問われると、早速何とも返答し難い。

 ニコラは開き直って、ジークハルトの膝の上でふてぶてしくも腕を組んだ。

 ジークハルトは飽きもせずに、ニコラの髪を三つ編みに弄り出す。


「んん……いて言うなら、〝名前の無い何か〟とでも言いますか……」

「強いて言うのに、名前が無いの?」


 アロイスは微かに眉間にしわを寄せる。

 この期に及んではぐらかそうとしているとでも思われたのだろうが、しかし本当にそう言う他ないのだ。


「えぇ。名前の無い、何処にでもいる無数の何かのうちの一つです。アレらの中には、視てしまうだけでアウトなモノもいれば、ただそこに漂うだけのモノもいます。昨日中庭に居たのは確かに、多少タチの悪いモノではありましたが、それでもアレに明確な名前はありません。いえ、いいですか殿下」


 一拍を置いて、アロイスの碧眼をじっと見つめてずいっと身を乗り出す。

 これからアロイスに伝えることは、ジークハルトに対しては幼少の頃より口を酸っぱくして伝えて来たことだった。


「ああいったモノに、軽々しく名前を付けてはいけないのです」

「……どうして?」


 キョトンとして瞬きをひとつするアロイスは、童顔も相まってひどく幼く見える。


「名とは、最も短い呪ですから。名前はモノの本質を表します。名前を与えることによって、漠然としたアレらは明確に形を得てしまうんですよ。だから軽々しく名付けてはいけないんです」


 これを逆手に取って、名前を与えることで存在を縛って使役する方法もあるにはあるが、素人が実行するのは現実的ではないのでわざわざ伝える必要もないだろう。


 アロイスはイマイチ納得しきれていない様子ではあるものの、渋々と頷いた。


「ふぅん、とりあえず分かった。よく分からないモノは、よく分からないままにしておいた方がいいってことだね」

「そういうことです」


 ずしっと頭の上に乗せられたあごが鬱陶しくて首を振って振り落とせば、パラパラと幾筋か黒髪が落ちる。いつの間にかまとめ髪にされていたらしい。


 ニコラは元々髪を括っていなかったので、ジークハルトはわざわざ自分の髪を結っていた髪飾りを外してニコラの髪を弄っていたようだった。

 ニコラは胡乱げに背後を振り返る。


「……何やってるんですか」

「ん? 編み込みのシニヨンだよ。ニコラ、アロイスの相手ばかりで私を放ったらかしにするからつまらなくて」

「ごめんね、ジーク。でもまだ聞きたいことがあるから、もう少しだけニコラ嬢を貸してね」


 何を言ってるんだこの駄王子はと悪態が口をついて出そうになるのを、ニコラはすんでの所で飲み込んだ。

 アロイスが謝罪すべきなのも、お願いすべきなのもニコラに対してであって、間違ってもジークハルト相手ではない。


 「仕方ないね」と勝手に了承するジークハルトも、お門違いの人間に謝るアロイスも両方睨みつけて、「じゃあさっさと次いきましょう、次」と急かす。





「そうだなぁ。あ、さっき君は『知れば知るほどアレらは近くなる』って言ったよね。僕はこれから、ああいうのを見やすくなるの?」

「可能性は、あるでしょうね」


 ラジオの周波数を合わせるためにツマミを適当に回したとしても、偶然近い周波数を拾ってノイズ混じりに聞こえてくることこそあれ、ドンピシャでチャンネルが合うことは少ない。

 だが、今回アロイスは完全に周波数を合わせてしまった。

 それを見逃してくれるモノたちではないし、元々美しいものや綺麗なものが好きなアレらだ。

 人ならざるモノからのちょっかいが増える可能性は大いにあった。


「だから、最低限のことだけは教えます。ジークハルト様、まずは手始めに基本の五ヶ条を教えて差し上げてください」


 私がかい? と、ジークハルトはニコラの頭上で首を傾げたらしい。無駄にサラツヤな銀糸の束がニコラの頬を擽るので手で払い除ける。

 退屈なら、会話に参加すればいいのだ。




「一つ、人ならざるモノ相手に己の名前を無闇に名乗らない、だよね?」

「えぇ。特に、相手から尋ねられて答えるのは禁忌タブーです。絶対に本名を名乗ったりしないでくださいね」


 名前を与えてはいけないのと同様に、名前を知られてしまうこともまた、縛られ支配されることになり得る。


 日本ではフィクションなどのおかげもあって、地味にそこそこ周知されていることだが、残念ながらこの世界ではそれほど馴染みのある観念ではないらしい。



「二つ、異界のものを口にしない、だろう?」

「そうです。この世のものではないものを食べてしまえば、帰れなくなりますから」


黄泉戸喫よもつへぐい』『ペルセポネの冥界下り』日本の記紀神話だけでなく、ギリシャ神話など海外の伝承にもあるのだ、異界のものを食べることで異界の住人にされてしまう、戻れなくなる話は。


 これは余談だが、異世界に生まれ直してしまったと気付いたばかりのニコラは、こちらの食べ物を食べることにどうしても抵抗があり、随分と両親を心配させてしまったものだった。



「三つ、約束したら必ず守ること、だね」

「基本、約束なんてしないに越したことはありませんが。もし約束してしまったなら、どんな小さな約束でも必ず守ることです」


 約束とは契約だ。人ならざるモノたちは契約不履行にとても厳しい。



「四つ、頼み事をするなら報酬まで自分で決めること。合ってるかい?」

「えぇ、合ってます。髪でも血でも供物にすれば、応えてくれるモノは居ます。でも決して奴らに報酬を決めさせちゃいけません。まぁ頼らないことが第一なので、本当に奥の手として、どうにも切羽詰まった時に思い出してください」


 対価を求めてくるモノは妖精でも悪魔でも、大抵がロクでもない存在たちだ。

 やむを得ず彼らに頼ることがあったとしても、相手に報酬まで決めさせてしまうと地獄を見る。



「最後は、神の怒りを買わない、だよね」

「はい。一番大切なことです。神威はこの上なく厄介ですから。神に不敬を働いたなら、私は真っ先に縁を切りますよ」

「……神様って、神殿とかに祀ってあるアレかい?」


 アロイスはぱちくりと目を瞬かせる。その顔には「神様って実在するの?」という驚愕がありありと浮かんでいた。

 ニコラは大きく頷く。


「神様は存在しますよ。だって、名付けられていて、人格を示す神話があって、その外見的特徴を共通して認識出来るように、彫像やら絵画だってあるんですから。想うことは像を結んでしまう。それが想像です」


 ダウストリア王国における国教は、日本の記紀神話やギリシャ神話、北欧神話、エジプト神話などに見られるような多神教だ。


 信仰のあり方などはかなり日本の神道に近く、教祖もおらず聖書のような経典もなく、明確な教義や守るべき戒律も神話の中には無い。


 八百万とはいかないものの、無数に存在する神々の全てをそらんじることが出来る国民などほとんどいないだろう。

 主要な神の何柱かとその権能くらいはざっくり覚えているかな、という程度の人間が大半で、熱烈にこれを崇拝している人間の方が稀なのだ。

 アロイスが戸惑う気持ちも分からなくはない。

 

 だが、神話あるところに神ありき。ニコラ自身もこの世界ではまだ、神的存在と直接関わりを持ったことはない。

 それでも「あの方角にソレっぽいのがいるなー」という感覚には何度か覚えがあった。

 神的存在が存在している以上、適切な対応をとらなければ、祟られてしまう可能性は大いにある。




「以上、基本の五ヶ条を意図的に破って厄介事に巻き込まれたりしたら、私は容赦なく見捨てさせて頂きますので。殿下も肝に銘じておいてくださいね」


 ジークハルトへの念押しも兼ねて会話に巻き込んだが、メインのターゲットはアロイスだ。

 アロイスは真剣な表情でしおらしく「分かった。絶対に破らないよう気を付けるよ」と頷いた。


 どうやら、ニコラの忠告には絶対に従うつもりだという先程の言葉に嘘はないらしい。

 これでまだ冷やかし気分が抜け切っていないようなら、遠慮なく見放すことが出来たというのにと思うと、何とも苦い気分になる。


 軽薄そうなノリの割に、致命的に阿呆という訳でもないらしい。ニコラはハァとため息をついた。


「これ以外の禁止項目に関しては、今後機会があればおいおいお伝えします」

「ニコラの禁止項目、すごく多いんだよね……」


 振り返ればジークハルトは遠い目をしてあさっての方角を向いているので、一体誰のおかげで十八歳まで生き延びることが出来たと思っているのかと白磁の頬をつねってやる。


「いたた、痛いよニコラ」

「貴方は私に対する感謝と遠慮が足りないんです」

「感謝は本当にしているよ。でも遠慮していたら、ニコラは全然会ってくれないだろう?」

「接触は必要最低限で問題ないかと」

「ほら。だからニコラ相手にはちょっと強引なくらいで丁度いいんだ」


 ニコラの肩口にあごをのしっと乗っけて、ジークハルトは口を尖らせ子供のように拗ねる。



「ねぇねぇそれじゃあ次はさ、コレが何かを教えてよ!」


 アロイスは、今度は先程までの真剣な表情とは打って変わって、好奇心が隠し切れていないにこやかな表情で問う。


 ぷらぷらと掲げるその手には、昨日アロイスを迎えに行くために使用した人型の紙──式神があった。

 昨日回収しそびれていたことを思い出して、らしくもない自分のミスに顔をしかめる。


「それは必要最低限の領分を超えているので答えません。別に知らなくてもいいことです」

「知らなくていいこと、ね。つまりこれについては、知ろうとしても害はないんだ?」

「…………」


 揚げ足を取るその表情は何とも憎らしい。

 赤黒いインクで『目』と『口』の象形文字を書いたその紙切れを、アロイスはピンっと軽く指で弾く。


「………………あまりそれを乱暴に扱わないでください」

「へぇ、それはどうして? 教えてくれたら相応に扱うんだけどなぁ?」


 ニコラはぐぅと押し黙る。

 瞬時に様々なことを天秤にかけて、僅かに天秤は傾いた。


「…………分かりました、話します。その代わり、先にそれを返してください」

「はい、どーぞー」


 ニコラが頷いてしまえば、アロイスはあっさりと了承する。

 乱雑に扱うなというのを聞き入れてか、手渡す手つきはちゃんと優しいものだ。


 手元に戻って来たそれを目の前に翳して、念の為破損が無いかを確認してから机に置く。


「これは式神、自分の分身のようなものです」


 人型の紙には、ミカヅキモのような絵とAを上下反転させたようなそうでないような絵を、ニコラ自身の血で書いてある。いずれも日本の象形文字だ。


「今回これに書いてあるのは『目』と『口』を表す古い文字で、基本的には目を書けば視覚を、耳なら聴覚を、鼻なら嗅覚を術者と共有出来ます。これに口を付け足していなければ、喋らせることなどは出来ません」

「じゃあ昨日、裏庭に連れて来られる途中に色々話しかけても反応がなかったのは、本当に聞こえていなかったから……ってこと?」

「そうですね。これには『耳』を書いていませんでしたから」


 あれ? と頭上からジークハルトに覗き込まれて、ニコラは真上を見上げた。落ちてきた銀髪がさらさらとカーテンのようにニコラの周りを覆う。


「何です?」

「ニコラが私に持たせてくれているものとは、書いてある文字が違うよね?」


 ジークハルトが自身の制服の内ポケットから取り出したのは、同じ人型の紙だ。だがこちらには象形文字ではなく『ニコラ・フォン・ウェーバー』と筆記体で綴ってある。


「名前をフルネームで書いた式神なら、それは完全な私の分身です。ジークハルト様に渡したものなら、私と同じ性格、同じ思考回路で自立して行動します」


 命の危機が迫った時に自動で発動するよう術をかけたそれは、ジークハルトが学院に入学する時に持たせたものだった。


「分身、ね。ニコラ嬢が返してもらいたがっていたってことは、もしかしてこの分身がダメージを受ければ、何か生身に影響あったりするのかな?」

「………………」


 妙なところで察しが良くて嫌になるなと眉をひそめる。

 そうなのだ。便利な分身はノーリスクでそうホイホイ出せるものではなく、式神が受けたダメージの何割かは術者に跳ね返る。


 跳ね返り度合いは式神に付与した権限の多さによって決まるので、手元にある『目』と『口』だけの式神なら、破かれてもせいぜいが多少疲れ目になって唇が乾燥する程度なのだが、知らず破損されるくらいなら回収しておきたかった。


 ジークハルトは名前を綴ってある方の式神を持ったまま、ニコラを見下ろした。


「今年からはずっと一緒にいられるし、これは返した方がいい?」

「いえ、ずっと一緒にいるつもりはさらさら無いですし、そのまま持っていてください」


 だいたい学年も違うのだから、四六時中一緒にいるなど不可能だ。


「つれないなぁ……」


 見上げたままでは首が辛いので、頭を元に戻す。

 頭上ではニコラの苦手ないつものしょんぼり顔を浮かべているのだろうが、目に入らなければ知ったことではない。


「あ、そういえば、空き教室から裏庭に出るまですれ違う誰とも目が合わなかったのはどうしてかな? さすがに女の子に手を引かれていたら、僕の身分的にかなり目立ったと思うんだけれど……」


 それはそうである。『金の君』などという仰々しい呼び名が付くような御仁の手を、一介の子爵令嬢が引いて歩いていれば、当然人目を引いて仕方がないだろう。

 だが、これに関しては特に種も仕掛けもなかった。目と口の権限しか持たず名前も持たない式神は、存在感が非常に希薄、ただそれだけのこと。


 だがそろそろ、なぜなぜ期の子どもに延々と付き合っているような気分になるボランティアには疲れてきてしまった。


「企業秘密です」

「キギョウ? ねぇどうしてどうして?」

 ニコラは元々短気な性質タチだ。とうとう舌打ちが洩れてしまって、やべっと口を覆う。


「あー! それ! それだよ! ジークを相手する時みたいなぞんざいな扱いさ! 僕にもやっていいんだよ? 遠慮せずに! ねぇ! ねぇ?」

「いや鬱陶しいなこの王子!?」


 マゾっ気を感じる台詞にとうとう本音が洩れる。

 初対面から今の今まで、ニコラは短気なりに、良く我慢して来た方だと思っていた。ニコラのストレスは既にマックス。

 我慢をしなくて良いと言うのなら、ありがたくその言葉に甘えようではないか。


「じゃあ誓約書を書いてください。私が不遜な物言いや態度で接しても、罪に問わないという誓約書を!」

「書く書く!そんなものでいいなら何枚でも書くよー」


 とんだ被虐趣味の王子を前に、ニコラは炎天下に干からびたカエルでも見るような目を向ける。


「ジークハルト様。紙ください、紙。早く」


 教材鞄からジークハルトが紙を取り出す隙に、今度こそようやく膝の上から逃れたニコラは、早速貰ったばかりの万年筆をアロイスに押し付ける。


 ジークハルトから受け取った紙にアロイスが万年筆を走らせている間に、第一王子の親友は形ばかりのフォローを無意味にも入れた。


「ほら、アロイスは普段かしづかれることが多いから、雑な扱いが新鮮なんだろうね…………多分」

「どうでもいいですそんなこと」



 つまり迂闊にも「ふーんおもしれー女」類型を踏んでしまった訳かと、ニコラは片手で顔を覆った。

 ジークハルト相手の扱いの雑さは長年の関係性から来るものだったが、まさかそれがこんな被虐趣味の王子を引っ掛けることになるとは、頭が痛い。


「はいニコラ嬢〜。出来たよ」


 無言でアロイスの手から紙をひったくって、日付けや文言、署名などをあらためる。


「確かに受け取りました。じゃ、必要最低限にしか関わって来ないでくださいね。それから、自業自得で人外のモノに関わるなら、本ッ気で見捨てますから」

「分かったよ。それじゃあこれからよろしくね」


 にこにこと笑う駄王子を前に、ニコラはもはや隠すことなく盛大に舌打ちをする。


「……ジークハルト様も、周りに誰もいない時にしか関わって来ないでくださいよ。冴えない子爵令嬢ごときが銀の君と懇意にしているなんて知れ渡ると、面倒なことにしかなりませんので」

「せっかく同じ学院に通えるようになったのに?」

「同じ学院に通うからです」


 アロイスから万年筆を引ったくると、真新しい教材鞄に仕舞って立ち上がる。

 互いの領地を行き来して交流していた頃とは違うのだ。他人の目があるところで迂闊なことをして、恨みを買うのは御免だった。


 コンコンと控えめに戸を叩かれ、良いタイミングだとニコラは教室の入口に向かう。


「失礼しますわ。空き教室を使用する際には、生徒会に届出を出してくださ───って、アロイス様と会長じゃありませんか。駄目ですよ、上級生や生徒会長が自ら規則を破っては他の生徒に示しがつきませんわ」


 教室に入って来たのは豊かなハニーブロンドの上級生だった。その脇をすり抜けて廊下に出ようとすれば、くすくすと揶揄からかうように呼び止められる。


「あら珍しい、お二人が女子生徒と一緒いるなんて。どういった関係のお嬢さんかしら?」

「無関係ですよ」


 相手の爵位は分からないが、言葉遣いから察するに子爵家などよりは上流階級だろう。丁寧に一礼してから踵を返して、数歩歩いたところでふと足を止める。


「───あれ?」

 微かに抱いた違和感に首を傾げるも、その違和感の正体は分からない。


「んー、ま、いっか」


 入学早々に庇護対象をさらに抱え込むことになった不運に比べれば全て些事だと、ニコラは再び歩き出した。



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