第5話 嫌いな母の剣を相伝する息子
父・一誠にとって負け知らずの左下段の構え。ほんの少し前の士郎であれば父からこの態勢を引き出せただけで興奮が抑えきれなくなる処だ。
士郎が真逆というべき珍しく最上段に構える。ただでさえ下段を得意とする相手に向かったこの構えは
(誘っているつもりか……)
一誠がそう考えるは道理。最上段からの士郎の振り下ろしよりも、自分の剣が先に届く。これは必然に思えた。
空の雲はさらに重くなり、雨が
「はあッ!」
士郎が鋭い掛け声と同時に竹刀を振り下ろし始める。
(鋭い! だが!)
一誠は定石通り、竹刀を振り上げる。先に俺の竹刀が士郎の腹を割る。間違いなくそういうタイミングであった。だが一誠の竹刀が
(なっ!?)
一誠の竹刀の先には、士郎の腹どころか足すらなかった。士郎は振り下ろしを途中で止めて、一誠の竹刀の上まで跳ね上がったのだ。
このぬかるみの中での
「ぐッ!?」
竹刀を握ったその手に激痛を受けて、
士郎はただ上に跳躍したのではなく、少し後ろ向きに飛んで、一瞬止まった一誠の手に向かって竹刀を振り下ろし、それを見事に的中させた。
一誠は手から
「参った、完敗だ」
痛い手を抑えながらも一誠は、目で笑いながらそう告げた。士郎は父から初めて聞いた敗北宣言に浮かれてしまいそうになるのを必死に
「あ、ありがとうございました!」
そして深々と頭を下げる。もう全身泥まみれで、とても勝者の
「………もう良い、頭を上げて早く家に戻るのだ。風邪をひく」
そう言いながら落とした竹刀を何とか拾い上げようと一誠は、動こうとしたが、先に士郎が動き、父の竹刀をすくい上げた。
「ふふっ……全く、これでは立つ瀬すらない」
これにはもう苦笑いで応えるしか
「す、すみませぬ父上。出しゃばった真似を」
「良い、良いのだ。
泥だらけの息子の頭を撫でながら、父は満面の笑みになった。
◇
そしてさらに2年の歳月が流れる。士郎は一誠の
16になっても父親譲りの小さい身長は相変わらずで、
とある日、とても寒く表に出るのが
「………雪か、珍しい。こんな日に父上は何処へ往かれたのだろう」
もう陽が落ちる。全身の雪を払いながら、士郎は家に戻った。エレーヌはこんな日、絶対に表どころか自分の部屋もろくに出ない。
「………母上、
「あ、ありがとう。ごめんね」
士郎はやれやれといった思いを抱えながら、それでも薬湯を母の元へと運ぶ。
エレーヌは少し咳込んでから、その声に応えた。
「起きていて大丈夫なのですか」
「士郎、私の
正直心配などしていないのだが、挨拶代わりに
「は、はあ………」
「………の、割には寒いの苦手なのよね。本当に困ったお母さんだわ、私は………」
士郎のつれない返事を見透かした様なことを母は笑顔のまま返すのである。
「いや、決してその様な事は……」
否定しながら顔を
その時、玄関の
「か、帰ったぞ、はあ………参った参った。まさか雪になろうとは」
一誠は頭も肩も雪で真っ白で雪だるまと化していた。玄関を開けたは良いが、先ずは雪を払うのが先であったと、積もったものを払い落とすが、そのそばから新たな雪が載ってゆく堂々巡り。
見かねた士郎が、傘を開いて父を中に入れた。
「全く、こんな時間迄どちらに……っ!?」
士郎は言いかけた口をハッと閉じる。一誠の握っている細長い黒い包みを見てからだ。
父は息子の視線に気がついて、少しだけ目で笑うと「さあ、家に入ろう」と
一誠は着替えもせずに、まず妻の部屋を
「まあ、おかえりなさい……」
エレーヌも士郎と同じ反応を示した。一誠はニヤリッと笑うと、その黒い包みを床に置いて開いてみせた。
士郎もエレーヌも声を失った。包みの中身、それは最早この家の
ズシリッと重みを感じるのは、物理的な重さのせいだけではなさそうだ。
「……抜いてみろ」
一誠はニヤッと笑いながら士郎が期待する言葉を告げる。士郎は再び
「こ、これは……」
エレーヌはその刀身を見て絶句し、加えて涙が勝手に
ボロボロのもう刃などと呼べる
なれど見事な
「苦労した。俺の身上を理解してくれる
エストックの刀身をひたすらに見つめ続ける士郎の興奮が冷めることを知らない。
けれど士郎自身、本来はこんな洋刀ではなく、日本刀が欲しいと恋
(何と、此処までしっくりくるとは………)
一誠はエストックを握る士郎を見て思った。嗚呼……士郎とこの剣は、こうなるべく運命だと。
「士郎よ、その剣は今日からお前のものだ。それを腰に差せ」
「え……こ、これは父上が?」
息子の言葉に父は首を横に振る。然し剣を捨てた寂しい面持ちでない。
「俺は、もう刀を捨てたのだ。それはこれからも変わらぬ。その剣は日本の武士道と
優しくも
「こ、これが俺の剣……」
士郎は剣の柄を両手で握り、高々と上げながら
…………その時であった。玄関を激しく叩く音が聞こえていた。
「
「なっ!?」
御用改め…………士郎はその言葉に我が耳を疑った。
(くっ! あの鍛冶屋め。俺を売ったのか? 初めからそのつもりだったのか!)
一誠は声には出さず、舌打ちだけした。
「ち、父上、御用あらた……!?」
「士郎、エレーヌ、お前達は、奥の部屋の窓から逃げるんだ。いいな?」
一誠が士郎の言葉を
「いや父上、意味が判りません。何かされたというのですか!?」
一誠は士郎に自分の人斬りの
だが敵を斬ってきたという伝え方しかしてこなかったのだ。
敵を斬る行いが罪になるというのが、士郎に解せなかったのだ。
「士郎、ここは父上の言う事を聞くのです」
エレーヌが珍しく士郎の疑問を切って捨てた。さらに士郎の袴の
「河浪一誠、いる筈だ! 返事をせよ!」
再び外から荒々しい声が家の中に飛び込んで来る。
(……最早、これまでか)
「士郎よ! 今こそ母を
声量こそ小さかったが、ハッキリとした口調で伝える一誠。後は士郎とエレーヌの二人を少々荒々しく押し飛ばした。
そして竹刀を掴むと、次は玄関先に向かって
「なっ!?」
「何をする!?」
玄関先に待ち構えていた二人の武士は完全に
一方、一誠にしてみれば家にやって来たのが、
此方を未だ名を
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