二十二歳 その4
葉月の頭の中で、さっきの翔太の声が蘇ってくる。
——今日は『Eliot』のみんなしか呼んでないよ。
そう、翔太が可奈子を呼んでないなら、他の誰かが呼んだのだ。
慎二か沙耶香。
他に可奈子をここへ招こうとする人がいるなら、その「誰か」の候補はこんなに狭く絞られるのだ。
「慎二、お前——」
「だって可奈子ちゃんも見たかっただろうよ、今の翔太たちのバンド」
こいつ、本気か?
そんな理由で東京から京都に人を呼ぼうというのは、常人の発想ではない。葉月が可奈子の立場なら普通に断る。
ここまで面倒な所業ができるのは、ダル絡みの慎二くらいのものだ——。
「でもこのキャンパス内で一回も見かけないとはね」
「能勢ちゃんを除いてな」
「せっかくだから会いたかったよね」
「まあだから俺はまだ、この中でうろうろしてるんじゃないかと思うよ」
「いや、でも——」
「それは!」
葉月は慌てて両者の間に入る。その勢いのまま、また数歩踏み出した。
「それはまあでもさ、どっちでも良いや。別に今日会わなくたってさ、一生会えないわけじゃないだろ?」
今回は帰ろうぜ、とさっきまでの速度を取り戻そうとする。
しかしそれは不可能だった。ちょっと歩いたところで、二つの影が目にも止まらぬ速さで葉月を追い越し、目の前で立ち止まったのだ。
「せっかく呼んだのにな」
いじけた小学生のように俯き、慎二が言った。
沙耶香は何も言わなかった。でもその代わり、言葉でどうするよりも強く感情を伝えるような、底の見えない瞳を葉月に向けていた。
「本当に良いの?」
と、実際に言われたかどうか、一瞬判断に戸惑うほどだった。
何だよこの変な空気は。オレにどうしろというのだ。
周りは、最寄駅に向かう人ばかりだった。彼ら三人だけが、この場で動かないもののようだった。
「いや——あいつも帰っただろ。オレらは翔太と話してたけど、あいつは残ってやることとかなかっただろうし」
それでも彼らは全く揺らがないようだ。そこに立ったまま、押しても引いても動きそうにない雰囲気を放っていた。
「ど、どうしちゃったんだよ、二人とも」
笑いかけて懐柔作戦に出ようとしても無駄だった。
どれだけ妙な沈黙が続いても、慎二と沙耶香はだんまりを決め込んだ。微妙な、ポジティブにもネガティブにも見えてくる表情が葉月の判断能力を鈍らせた。
葉月も最初は負けまいと、無言で対抗しようとした。その場から黙ったまま離れ、最寄駅に向かってしまおうかとも一瞬思った。
しかし二対一ではどうにもならない。ここで逃げることは多分できないだろう。
「オレが——探しに行けって?」
小さな声だったが、聞こえていないはずはなかった。それなのに、この言葉にも反応はなかった。
「いないと思うけど?」
今度は、沙耶香が首を傾げた。そして慎二と、視線で一瞬の会話を交わす。
「まあそれはそれで、困りはしないね」
どうやらこいつらを満足させなければ、自分は帰れそうにないらしい。
それを悟ると、葉月は形でひと呼吸し、「よし」と口の中で呟いた。
「行けば良いんだな」
彼らはやっと、首を縦に振るという明確な意思表示をしてきた。
「じゃあ早く帰りたいし、走っていくわ。それで良いだろ」
またうんうんと頷いた。しゃべるのをやめたのかこいつらは。
葉月は面倒だな、と声になるかならないかの大きさで呟き、さっきまで来た道の方へ体の向きを変えた。
いきなり走り出すと、元々乗り気だったかのように思われそうだ。ということで、まずは早歩きから始めることにした。
「——行ったな」
「——行ったね」
取り残された沙耶香と慎二は、その背中が見えなくなるまで葉月を見ていた。人の波を逆行しているとは思えないほど真っ直ぐ、彼はさっきの講堂前に続く道を突っ切って行った。
「全部あいつ一人で進めたな」
「探しに行けとか、こっちから言う必要なかったもんね」
「行きたかったんだろうな、あいつ自身」
「結論は多分、ずっと前から出てたんだね。足りなかったのはきっかけだけ」
ふうん、と興味のなさそうなこの声が、慎二の普通の返事だ。
ふた呼吸くらいしてから、彼はポツリと言った。
「こっちでこんなことする必要、あったのかな」
「なかったかもね」
「なかったよな。どうせ俺が可奈子ちゃん呼ばなくても、あいつらどっかで会ってたんじゃないか?」
「でも万が一もあるし」
「俺は信じるよ、運命の赤い糸ってやつ?」
慎二は小指を立てる。沙耶香は両眉を吊り上げながら言った。
「私も信じるよ、運命のコンパス」
「コンパス?」
沙耶香は二本指を立て、指先が下になるように慎二に見せた。
「ああ、文房具の方だ」
「一方が近づこうとすると、もう一方は同じ分だけ離れる。一方が真ん中で止まってると、もう一方はその周りをいつまでも回ってる。でも、二つの脚は必ず、上の方で繋がってる」
指の動きを見ながら、慎二はまたふうん、と薄いリアクションをした。
「それ、誰かの言葉?」
「十六世紀イギリスの詩人だね」
「それはとてもきょうみぶかいねー」
「私は糸よりこっちが好きだな。確実に繋がってる感があるし、頑丈そうだし」
「でも二つの脚のうち、どっちがどっちか気になっちゃうな。一方の脚は動かないもんだろ?コンパスって。区別できちゃうじゃん」
「それは——確かに」
慎二は時々、誰も思いつかないポイントをノールックで突いてくる。案外彼は鋭い人間なのかもしれない、と沙耶香は時々思っている。
「——あっそう言えば」
「なんだ」
「全然話変わるけどさ、さっき彼女できたって話してたの、あれ本当?」
「あれ、俺ってそんなに信用されてないの?本当ですよもちろん」
慎二は胸を張って親指を突き出した。沙耶香はその勢いに若干のけぞり、目を瞬かせた。
「へえ、意外だね」
「だから意外とか言うなっ!」
可奈子は、忘れ物をした。
忘れ物とはすなわち文化祭のパンフレットのことで、年季の入ったベンチにひとまず置いたところまでは良かったが、そのまま帰るときに忘れて置いて行ったのだ。
出口に至る前に気付けたのは不幸中の幸いだったが、自分が座っていたベンチを見つけるのに苦労した。やっとのことで年季の入ったベンチを見つけたときはほっとした。せっかくここに来たのだから、記念品の一つくらい欲しいものだ。
立ち止まってそのパンフレットをしまっている時、ちょうどスマホが震えた。
なんと、さっきちらりと開いたトークページに、新着のマークがついていた。何たる偶然。
牧野慎二。何年も動きのなかった個人チャットから突然メッセージを送り、彼女をここに招いた本人だ。
『今、どこにいる?』
それだけの短いメッセージだった。どうしてこんなこと聞くんだろう、とは思ったが、答えない理由もないしと可奈子は指を動かした。
『忘れ物しちゃって、まだ大学の講堂前だよ』
するとすぐに既読がついてしまい、ちょっと驚く。牧野くんはどこにいるのだろうか。
返信も早かった。
『そっか!了解!』
なんとそれだけだ。どこで会おうとか、ならこうしようとか、一切そういう提案はない。
良い人には違いないけど、やっぱりこの人は謎だ。考えるだけ無駄かもしれない。
『なんでしょう??』と送る。既読はつかない。可奈子は呼吸を整えると、早歩きで再び出口へ向かった。
可奈子が目指す出口は、裏門である。ちょっと気になっていたみたらし団子のお店がこの近くにあり、ついでに寄って行こうと思っていた。その最短ルートはネットで確認済みだった。
ほとんどの人の流れは正門に向かっていた。みんなそのまま帰るんだろうか。
道が少しずつ細くなっていく。雰囲気も静かだ。
そして、自分の呼吸の音しか聞こえなくなってきた。
お祭りが終わった後は、やっぱりもの寂しい気持ちになる。あれだけ盛り上がっていたライブ会場から、まだほとんど離れていないことが信じられないくらいだ。
自分の歩みがやけに遅いことに気づいたのは、どのタイミングだっただろうか。なぜかレンガの地面でつまずいた時か、七十代くらいの老夫婦が自分を余裕で追い越して行った時か。
何かを躊躇っているんだろうか。こんな所で、何を?
いつ吸い込んだのか分からない空気を、可奈子は時間をかけて吐いた。
今の、まるで溜め息だ。呼吸ってやり直せないよな。
何かを補うように、可奈子はスピードを上げた。地面を強めに蹴って、明らかな早歩きになった。
実際、特に状況が変わることなんてなかった。むしろキャンパスの中心にある何らかの磁力が働いて、可奈子をより強く引き留めようとしているようにさえ感じた。
何がおかしいんだろう。
何が引っ掛かっているんだろう。
さらに歩幅を広げようとした可奈子に、その答えは突然降ってきたのだった。
いや、飛んできた、と言う方が適切かもしれない。
後頭部にその声がぶつかってきた時、まだ脳の処理が間に合っていなかった。ただ反射で、彼女は立ち止まり振り返ったのだ。
それからコンマ数秒遅れて、聴覚の情報が意味を持って入ってきた。
「可奈子おぉぉぉ!」
それは空気を震わすどころか爆発させる勢いで飛んでくる、聞き覚えのある高い声だった。
優しくも何ともない声質なのに、どうしてこうも安心するのだろう?
視覚情報が入ってきたのはその後だった。
「だから、」
結局何年経っても大して伸びなかった身長と、中学生の頃からずっと「年齢の割に幼め」な顔。
可奈子は自分の表情がほころんでいることに気づかなかった。
「だから!」
どうしてかは、さっぱり分からない。分からないことだらけだ。
だけど自分はこの瞬間を、ずっと前から待っていたんじゃないか。そんなことを、可奈子は心のどこかで確かに直感していた。
——会いたかったんだ。
なぜか、ちょっと油断すれば泣いてしまいそうだった。妙にほっとしている。迷子になった所を、両親に見つけてもらえた時みたいに。
彼女は人生で一番大きな声を張り上げた。それはもう、彼も目を白黒させて立ち止まってしまうほどの声量だったことは、言うまでもないことかもしれない。
「声がでかいんだよっっ!」
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