第7話
それなりに幸せな毎日を送っていたある日の晩、食卓机の椅子に座った母がメソメソと泣いていた。父は残業で帰りが遅れているのか、たった1人きりで。ゴードンのところから戻って来た私は、母の涙を見てギョッとした。もしやお腹の子に何かあったのでは――母の体調が悪いのではないかと焦ったのだ。
大慌てで母の元へ駆け寄れば、涙に濡れた瞳でじっと見上げてきた。
「――どうしたの母さん、平気? どこか痛いの……? 病院、行く?」
なぜ泣いているのかひとつも分からなかったけれど、とにかく落ち着かせなければと思った。私はつい癖で、まるで子供の相手をするように目線を合わせると、ゆっくり問いかけた。すると母は、ますます顔を歪めて涙を零す。
「セラス……私、私……どうしよう、やっぱり自信がないの……」
「……自信?」
「ちゃんとした母親になれる自信がない――」
両手で顔を覆う母に、私は最初、涙の理由を誤魔化すために冗談を言っているのだろうかと思った。母親になれる自信も何も、彼女は既に私の母親なのだから。なんと声を掛けて良いものか分からず、ただ詳しく話を聞こうと震える肩を撫でた。
「お腹の子が生まれても、
「え……と、それ、は――」
二の句が継げなかった。母の告白は、私にとってあまりにも衝撃的だったのだ。
甘えて欲しいなんて、今までに言われたことがあっただろうか? 頼って欲しいだなんて、母親失格だなんて、一言も――。
しかしふと、幼い頃はよく「疲れたでしょう? お母さんが抱っこしようか?」なんて聞かれていたことを思い出した。けれど私は、迷惑をかけてなるものかと躍起になって母の言葉に一度も頷かなかった。
そもそもの話、歩けないほど疲れるとか、抱っこしてもらわなければやっていられないとか、そんな状態に陥ったことがなかったのだ。
別に甘えたくなかった訳じゃない。甘える必要性を見出せなかっただけだ。別に母が頼りにならないと思っていた訳じゃない。人の手を借りねば成し遂げられないような難関には、初めから手を出さなかっただけだ。私は誰よりも私の限界を知っていた。だから欲張らずに、ただ自分の手が届く範囲のことだけをこなしていた。
――それに私は、一度だけ理由もなしに
あの日は、まるで花占いでもしているような気分だった。母が私を好きなら、ほんの少しでも時間を割いてくれるだろう。もしも好きじゃないなら、きっと冷たく突っぱねられてしまうだろう――と。
しかし結果は、聞こえぬフリだった。母は私を見向きもせず、かと言って「向こうへ行っていなさい」と追い払う訳でもなく、無心で書類と向き合っていた。遊べるはずがないことは分かっていたのだ。だから構ってくれないことに対する心構えはできていた。――ただ、まさか居ない者として扱われるとは思わなかった。
幼い私はしばらくその場に立ち尽くしたまま母の反応を待ったが、やがてどうにもならないと察してその場を離れた。
成長した今ならば、単に私のタイミングが最悪だっただけということが分かる。別の日に改めて同じ行動をすれば、きっと母はこれでもかと構ってくれただろう。でも幼い頃に経験したたった一度の『失敗』は、私をこれでもかと臆病にした。
二度と
――私は一体、どうすれば良かったのだろうか。母をいじめから守る盾になるのではなくて、母の自尊心を守るためだけに、何もできない子供のままでいた方が良かったのか。私が守れば守るほど、母の心は傷ついていたのかも知れない。親なのに何もできない、何もしてあげられないと、勘違いさせてしまったのだろうか。
どちらが子供か分からないだなんて、そんな酷い侮辱を受けていたことに今までひとつも気付かなかった。私はただ、両親に褒めてもらいたかっただけなのに。しっかりしているところを見せれば周りが喜んだから、父も母も誇らしげに笑ったから、だから――。
「その……ごめん、なさい。私、そんなつもりはなかったの――母さんも父さんもたくさん愛してくれたから、特別甘えたいとか、なくて……」
どうすれば良いのか分からないまま、とりあえず母を慰めなければと思った。「あの時、母さんが無視したからよ」なんて、激しく責め立てた方が子供らしかったのかも知れない。
とは言え、例えこれだけ大きな衝撃を受けたとしても、今まで甘えは悪と思って生きてきたのだ。そう簡単には、生き方を改められなかった。
母はおもむろに顔を覆っていた両手を下げると、涙に濡れた虚ろな眼差しで、薄ら寒くなるほど
「――ああ、ほら、やっぱり。母親にこんな酷いことを言われたって、セラスはなんともないんだわ。涙ひとつ流さずに慰めて、これじゃあ本当にどっちが子供だか……どこまでも私を惨めにさせるのね……」
私は喉を引きつらせた。口を開けば開くほど、墓穴を掘る気しかしなかったからだ。
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