第3話

 母のを知らぬまま逞しく育ってしまった私は、今思えば痛々しい子供だった。幼いくせにいつも肩肘を張っていて、隙なんか見せて堪るかと必死だったのだろう。

 そうして子供らしい可愛げを身に付けられずに12歳を迎えた私には、5つ下の幼馴染が居た。なかなか子宝に恵まれなかった商会の責任者に、念願の息子が生まれたのだ。


 ただでさえ周りから「しっかり者のお姉さん」とおだてられていて――しかも妹か弟が欲しいと思っていた私にとっては、これ以上ないくらい可愛らしい庇護ひごの対象。いつの間にかいじめの標的から外されていた母よりも、もっと弱々しい存在。ゴードンの手を引いて守るのに夢中になった。


 商会長もその妻も、そして職員の女性も皆仕事で忙しい。商会関係者の間で生まれたものの、預け先に瀕した赤ん坊の世話は自然と私の役目になった。

 中には預け先があっても、どうしても子と離れられない親も居た。目の届くところに居ないと不安で仕事にならないのだ。その筆頭が、正に商会長の妻だった。


 子供をいじめない、危ないことをしない、させない。オムツの交換をして粉ミルクの世話をして、泣いたらあやして寝かしつけて。何かあれば、すぐに大人を呼ぶ――そう長くない就労時間中のことだったにも関わらず、働く女性たちからは大層感謝されたものだ。


 ただ、ゴードンは商会長の一人息子だったため、商会周辺では友人を作りづらかった。

 仮に、幼い頃からかけがえのない友人として関係を築ければ話は別だろう。しかし――公共の職場に私情を持ち出すのは厳禁とは言え――もしも自分の子供がゴードンに無作法をしてしまったら、その後の職務に影響が出る。彼は商会長待望の一人息子、替えが利かない跡継ぎだ。

 利よりもリスクの方が遥かに高く、誰もが「うちの子は頭が悪いから、商会長の息子さんの相手は務まりません。とても同じ場所では育てられません」と言って、一緒に遊ばせるのを嫌がった。


 ――その点、商会長からの信頼が厚く、これでもかとませた私は彼の遊び相手としておあつらえ向きだった。


 気付けば私の仕事は子供の世話ではなく、になった。ずっと彼の子守りをしていたせいか、小さな幼馴染はまるでカルガモのように私の背中ばかり追いかけて、一時も離れようとしなかった。だから余計に可愛くて仕方がなかったのだ。


「セラスは、本当に小さい時からしっかりしていたわよね。うちの息子はもう7つがくるのに、いまだに「抱っこ」なんて言ってくるのよ? 甘やかし過ぎたかしら――セラスは手がかからなくて羨ましい」

「いいえ、そんな! 私のところは女の子ですから、また少し勝手が違うんじゃありませんか? 男の子って、小さい頃は甘えん坊が多いと聞きますよ。きっと今だけのです」


 商会の隅でゴードンに読み書きを教えていた時、母親同士がそんな会話をしているのが聞こえた。羨ましいと言われた私の母は、照れた様子でブンブンと両手を振っている。

 私が誰かから褒められた時に見せる、照れと恥じらいと誇らしさの入り混じった母の顔。私はそれを見るのが堪らなく好きだった。


 ――けれどもその日、母はすぐさま表情を曇らせると、困ったように呟いたのだ。


「セラスは「抱っこ」を言ってくれなかったから、それはそれで寂しくて――もうこんなに大きくなってしまいましたから、今更そんなことは望めませんし」

「んまあ! 贅沢な望みね、聞きようによっては酷い自慢に聞こえるわよ!」


 ゴードンの母が嫌味なく快活に笑えば、母も釣られたように噴き出して「あら、ごめんなさい!」とおどけた。

 そうして2人が明るく笑い飛ばしてくれたから――いや、笑い飛ばされたせいで、だろうか。私は母が深刻に悩んでいることに、娘が甘えてくれないと寂しがっていることに、ひとつも気付けなかった。


「セラスちゃん、もうつかれた……」


 横からゴードンに呼びかけられて、私は母から意識を外した。今日はノートいっぱいに同じ文字を書き写す勉強だ。ガタガタに揺れた字が、あと少しで見開き一面を埋め尽くすところまできていた。


「うん? よくできてるじゃない、上出来よ! あともう少しだけ頑張って、ページを埋めなさい」

「やぁだ、もう終わり! ペンないないした!」

「ないないしたの? あ~あ、それが終わったら、一緒に遊ぼうと思ってたのになあ~」

「えっ、うそ、遊ぶ? だっこは?」

「抱っこもしてあげるから」

「やったー! ペンみつけたから書く!」


 見付けたも何も、ただ後ろ手に隠してギュッと握っていただけだ。幼い子供の愛らしさを私に教えてくれたのは、間違いなく彼だった。


 周りの7歳よりもずっと小さくて、ふくふくむちむちのゴードン。強く押しただけでコロンと転げて、自力で起き上がろうともしない甘えん坊。ゴードンみたく抱っこをせがむなんてあり得ない。彼はそういうところが可愛いけれど――私には、可愛さなんて必要ないのだ。

 私がしっかりしていれば、周りから褒められれば、両親が喜ぶと信じて疑わなかった。他所よその家の子と比較される度に「セラスは手がかからなくて羨ましい」と言われるのが、何よりも快感だった。


 しかし、「手がかからなくて羨ましい」の裏には、「可愛げがない子供」「子供がしっかりしなければならないほど、頼り甲斐のない親」なんて棘が隠されていることもあった。表面上喜んでいるように見えた母も、いつも額面通りに言葉を受け取っていた訳ではなかったのだ。

 この頃の私は母の気持ちを推察することよりも、ゴードンの相手をするのに必死だった。周りの大人は皆好意的だったし、両親はいつも笑顔を見せてくれていた。だから気付くのが遅れて――気付いた時にはもう、取り返しがつかない状況だった。

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