第25話 失われた記憶
生き返ったネフェルタリは次第に体調も良くなり笑顔も見せるようになった。主治医のすすめでデルタの保養地で静養したことがよかったのか、記憶も徐々に回復し表情も明るくなっていた。ただ、肝心のアルウのことは記憶が空白のままだった。
アルウは職長代行のメンナに工房を任せ、自室に引きこもったまま出てこなかった。
彼は毎朝ネフェルタリの病の回復を祈ると、蛍石の塊を彫刻刀で器用に削り、ああでもない、こうでもないと呟きながらオシリス像を制作していた。
柔らかな蛍石はエジプトでアクセサリーや小さな像の素材として活用されていた。蛍石の中には太陽光を蓄積し夜は緑から白色に燐光する石もあった。アルウは黄金のオシリス像に似せた、光るオシリス像を王女様に見せれば記憶が蘇るかもしれないと思い、蛍石で作ることを思いついたのだ。ところが制作してみると思うようにはかどらなかった。素材が大きいと不純物が多く、削る角度が少しでも狂えば蛍石の原石がすぐに割れたからだ。
「もっと大きく純度の高いフローライトが欲しい」
アルウはテーベの市場に出かけ、東方から来た商人のテントを訪ね歩いた。そしてついに見つけた。大きさが二十センチぐらいの純度の高い蛍石を。
「これならできる」
アルウはすぐに持ち帰り、寝食を忘れてその高品質の蛍石と格闘した。
アルウには気がかりな町の噂があった。アマルナを拠点としたアテン教徒が近々大規模な無差別テロをするという物騒な噂だ。
「ヌビア地方の鉱山の町でおきた無差別テロもアテン教徒の仕業と言われているが……」
あのテロがティアの命で行われたと思えないし、ティアにあんな恐ろしいことが出来るはずがない。きっと彼女がアクナテンの子孫だから誰かに利用されているんだ。
「だとすると、狂信的なアテン信徒らも誰かに騙され、アメン神官団との権力闘争に利用されているに違いない。ティアの背後に黒幕がいるはず!」
その黒幕が狂信的なアテン教徒や真摯な隠れアテン教徒らを操り、彼らをまとめるシンボルとしてティアを利用しているのだ。
「あの教団からティアを救い出さないと」
アルウは自分がどれだけティアを深く愛しているのか改めて気づくと、彼女を救い出すため全てを捨てアマルナへ行く決心をした。
数週間後、ネフェルタリのために制作した蛍石のオシリス像がついに完成した。アルウはネフェルタリに別れを告げようとその像を王宮の彼女のところに持って行った。
イブイに案内されアルウがネフェルタリの部屋に通されると、
「王女様、職人のアルウが来ました」
主治医のパヘルペジェトがベッドに寝ているネフェルタリに声をかけた。
「まって、すぐに起きます」
ネフェルタリは記憶の大部分を思い出していたのだが、アルウのことや黄金のオシリス像と船の事故のこと、オシレイオンでの出来事などは忘れたままだった。
「どうぞ」
アルウは主治医の許可が下りると、オシリス像を入れた宝石箱を抱えネフェルタリの部屋に入った。
「王女様、体調はいかがですか」
「アルウ、いつもありがとう」
ネフェルタリは微笑み、アルウが抱えている宝石箱に目をとめた。
「それは何が入っているのですか?」
「王女様へのプレゼントです」
アルウはさっそく宝石箱をネフェルタリに手渡した。
「嬉しい! 開けてもいい?」
ネフェルタリはアルウの返事も待たず、宝石箱を嬉しそうに抱き蓋に指をかけた。
「わぁ!」
蓋を開け中を覗き込んだネフェルタリは歓喜の声を上げ、ため息を漏らした。
「オシリスが緑色に光っているわ」
ネフェルタリの目が生き生きと輝いた。
「蛍石で作りました」
「蛍石?」
「ええ、昼間に太陽の光をとりこみ、夜や暗いところで発光する不思議な石です」
「この緑の光はまるでオシリスの肌の色のようね」
「緑色は死と復活再生の象徴です。王女様のご病気もこの美しい光に導かれて癒えてゆくでしょう」
「アルウありがとう」
ネフェルタリはケースの中に両手を入れ慎重にオシリス像を取り出した。
「この像を見ていると時間が経つのを忘れそうだわ」
「いろいろ語りかけると答えてくれるかもしれませんよ」
「ほんとに?」
「ほんとに! あ、でも返事をくれるかどうかはオシリスの気持ち次第ですから保証はできませんが」
「まあ、アルウ、ずるいわ」
「ええ、そんな」
「いいわ、この像はもらってあげるわ」
少しだけやんちゃなネフェルタリが戻ってきたようだった。
「光栄至極でございます」
アルウが笑顔で大げさに感謝すると、
「よろしい。そなたは果報者よ」
ネフェルタリが王様の口癖をまねて笑った。
ネフェルタリに記憶が蘇ってもそれが彼女にとって必ずしも幸せなことなのか……これでいいんだ。
「また遊びに来ます」
「ええ、楽しみにしてるわ」
ネフェルタリは手を振り、笑顔でアルウを見送った。
アルウも笑顔で王女に手を振りこたえた。
ネフェルタリの部屋からアルウが出ると、後ろから主治医のパヘルペジェトが追いかけて彼を呼び止めた。
「アルウさん、ちょっと伺いたいことが」
「何ですか?」
「王女様は、もしかしたらあなたを好きだったのでは?」
「いったいどうしたのですか?」
「アルウさんには愛する女性がいるのでは?」
「どうしてそんなことを」
「いや、これはわたしの思い過ごしなのかもしれませんが、もしかしたら、王女様の記憶の一部が、それもあなたのことを思い出せないのは恐れからではないのか。つまり、王女様はあなたに好きな人がいると気づいていたけど、あなたのことをとても愛されていた。だから恋が実らないと感じ取り、それゆえ恋を壊したくない強い思いから、無意識に記憶を蘇らせないようにしているのではないかと」
そこまで一気に話すとパヘルペジェトは沈黙しアルウをじっと見つめた。
アルウは口を硬く結んで俯き両手を強く握り締めた。暫くの沈黙の後、彼はゆっくりと顔を上げ語りはじめた。
「今の僕があるのは王女様のおかげです。王女様は感謝しきれないほど大きな愛をくださりました。だけど僕は王女様の純粋な愛にこたえられないのです……」
アルウが涙を浮かべ俯くと、大粒の涙がよく磨かれた赤い花崗岩の床に滴り落ち四方へ飛び散った。
「あなたの愛の涙をみて安心しました。王女様はあなたに愛されとても幸せだと思います」
「……」
「あなたの愛を得たいという王女様の願いは叶ったのです」
「ドクター……」
「王女様はきっと元のように元気になります。そしていつの日か、必ずあなたの事を思い出すことでしょう」
アルウは黙って頷いた。
「いつの日か、王女様の記憶が蘇ったら、優しく声をかけてあげて下さいね」
「その時は笑って話せるでしょうか……」
「大丈夫です。きっとお互いに笑い合って話せますよ」
「約束します」
「アルウさん。ありがとう」
パヘルペジェトが微笑みながらアルウの手を両手でしっかり握ると、アルウも強く握りかえし二人は硬い握手を交わした。
王宮の大きな門を出てアルウがゆっくり後ろを振り返ると、遠くにネフェルタリの部屋の窓が見えた。アマルナに旅立てばもう二度とネフェルタリに会えないかもしれない。いや、テーベにすら帰って来れないかもしれない。そう思うと彼の心はさらに痛んだ。
アルウは立ち止まり、神に祈るように跪きネフェルタリに祈りを捧げた。
「わたしにくれたあなたの愛が、より大きな愛となってあなたを包み込みますように」
その後、アルウとネフェルタリが二度と会うことはなかった。アルウがテーベから姿を消してからおよそ一年後、ネフェルタリは兄ラムセスと結婚した。ラムセスはネフェルタリを深く愛したので、彼女はエジプト王朝史上で最も愛されたお后として幸せな人生を送ったという。
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