第23話 ネフェルタリの愛
アルウは王宮の敷地内に王様から新しい工房を貰うと、弟子たちの育成に尽力した。気になっていたオシレイオンの崩壊したオシリス像の修復は、弱視で動けないアルウの代わりに、幼なじみで親友のメンナにアビドスまで行ってもらい無事に完成させた。
そのメンナとムテムイアが恋に落ち結婚した。長く辛い思い出ばかりが多かったムテムイアにようやく人生の春が訪れた。
ネフェルタリは毎日のようにアルウの工房を訪れては、彼の仕事の邪魔にならないように寄り添った。そんな王女に対してアルウは優しく接したが、それ以上に彼女は甲斐甲斐しく尽くした。彼の心の中に愛しい人がいることをネフェルタリは感じていたが、だからこそ彼女はありったけの愛と情熱を彼に注いだ。
(彼の目をなんとか治してあげたい)
ネフェルタリは王宮の侍医長パヘルペジェトに相談した。
「彼の目は鉱山での過酷な労働と栄養失調が原因でしょう。しかし一番のダメージは角膜の傷です」
パヘルペジェトはアルウのパピルス製のカルテを広げ目を通した。
「同じような症状は王墓を作る職人達にも見られます。長い間、地下の太陽の光が届かない所で、有毒な粉塵や鉱山から湧くガスを浴びながら作業するので、眼病を患う者が多いのです」
「なんとか治す方法はありませんか?」
今でもアルウの目は殆ど見えないのに、このまま症状が進行すれば彼の目は確実に見えなくなってしまう。一刻の猶予も出来ない。そう思うとネフェルタリは居ても立ってもいられなかった。
「彼の角膜の傷は、おそらく採掘時に飛び散った粉塵が原因でしょう」
「角膜の傷を治療して下さい」
「王女様、申し訳ありませんが、今のエジプトの医学では治せないのです」
「あなたはエジプトで一番優秀なドクターなんでしょう。治せない病気などあってはなりません!」
ネフェルタリは無理と解っていながらも、何とかしたい一心で自分を抑えることが出来なかった。
その時、セティ王がやってきて、
「おやおや、ネフェルタリ、侍医長を困らせてはいけないよ」
そう言って、パヘルペジェトに食ってかかる娘の頭を優しく撫でた。
「お父様、このままではアルウの目が完全に見えなくなってしまうわ」
「そんなに酷いのか?」
「はい。目の前の自分の指先もほとんど見えないって」
「そうか……」
「お父様、アルウを助ける方法はないのですか?」
ネフェルタリは期待をこめて王様を見つめた。
「あの方法しかない。いや、あれはあくまで伝説なのだ」
王様はぶつぶつと独り言を繰り返した。
「あの方法ってなんですか?」
ネフェルタリは聞き漏らさなかった。
「もしかしたら……」
王様は出かかった言葉を呑み込んだ。大昔からオシレイオンに伝わる伝説だったからだ。
「お父様、もしかしたら何ですか?」
ネフェルタリは強く迫った。
「もしかしたら、オシレイオンの命の水なら治せるかもしれない」
王様はその効果を自分の目で確認したことがなかったので、娘に下手に期待を持たせるわけにはいかないと思い躊躇ったのだ。
「オシレイオンの命の水」
ネフェルタリは繰り返した。
「大昔からの伝説で、オシレイオンの水は、あらゆる病気や怪我を治す力があると言われているのだ」
「お父様、あたし今からすぐにオシレイオンに行ってきます」
「あくまで伝説の話なのだよ」
「ええ、わかってます。でも何らかの根拠があって伝説が生まれたのだと思います」
「たしかにそうかもしれんが……」
「お父様、オシレイオンに行かせて下さい」
ネフェルタリの真剣な目を見た王様は、娘がアルウを愛していることに気づいた。
「だめだ」
止めても無駄だと思ったが、王様は承諾しなかった。
「どうしてなの」
ネフェルタリは詰め寄った。
「イブイに代わりに行ってもらおう」
「お父様、あたしが行きたいのです」
「困った娘だ」
「お願いです」
「そなたは王女なのだぞ」
「わかってます」
「……」
王様は黙ったまま部屋を出て行ってしまった。
「お父様!」
王様は恋の情熱でなにも見えなくなった娘のことが心配でアビドスに行くことを許せなかった。恋の熱を少しでも冷まさねばならないと思ったのだ。
「オシリスに祈るしかないわ。オシリスなら願いを叶えて下さるはず。なぜならアルウはオシリスに愛されし人だから」
ネフェルタリは愛する人の目を治したい一心で、神殿のオシリス神に祈った。
「オシリスよ。どうかアルウの目を治して下さい。彼の目が治るのならあたしの命を差し出してもかまいません」
するとオイルランプで浮かび上がった壁面のオシリスのレリーフが金色に輝きだし、目も眩むほどの光が瞬く間にネフェルタリを包みこんだ。
「おまえの本物の愛に免じてあの少年の目を治してやろう」
光の中からオシリスの声がした。
「オシリス様、ありがとうございます」
ネフェルタリは光り輝くオシリスのレリーフ前にひれ伏した。
「黄金のオシリス像を命の水に浸し、その水を彼の目に注ぐのだ」
「そうすれば彼の目が見えるようになるのですね」
「そのとおりだ」
「ありがとうございます」
「黄金のオシリス像は水に沈め、決して持ち帰ってはならない」
「わかりました」
光は優しくネフェルタリを包みこんだままだった。
「あ、オシリス様、黄金の像はどこにあるのですか?」
オシリスの光は優しくネフェルタリの頬を撫でるように渦巻き姿を消した。光が消えると、跪いたネフェルタリの目の前に、子供の手で握れるぐらいの小さな金のオシリス像が立っていた。
「黄金のオシリスだわ」
ネフェルタリはその像を手に取り神殿を出た。それから夜になると召し使いの女、ドルキアを伴って秘かにアビドスのオシレイオンへ急いだ。
ネフェルタリがアルウの目を治したい一心で、オシレイオンの命の水を求め、アビドスに向かっているとき、アルウは大切な物をなくしたと大騒ぎになっていた。
「母さん、僕の黄金のオシリス像見かけなかった?」
「黄金のオシリス像って」
「ほら、僕が小さい頃に、父さんと一緒にナイルで見つけ王様にあげた像と同じものだよ」
「なんとなくわかるけど、本物を見れなかったわ」
「ああ、そうだったね。家に帰る前に王様にあげちゃったからね」
「また同じようなオシリス像を見つけたの?」
「そうなんだ。鉱山でオシリスが僕にくれたんだよ」
「いつ頃まであったの」
「テーベに帰ってこの家に引っ越してきたときまでは確かにあったんだけど」
「泥棒かしら」
「まさか。ここは王宮の敷地内だから警備は厳重だよ」
「たしかにそうだけど」
「もう少し部屋の中を捜してみるよ」
アルウは召し使いに付き添われて、自室に戻って行った。
結局、アルウはそれから三日間、母や同居しているメンナとムテムイア夫婦、召し使い達に手伝ってもらったが、黄金のオシリス像は出てこなかった。
「きっと兄さんを助けたから冥界に帰って行ったのよ」
いつのまにかムテムイアはすっかり奥様らしくなっている。
「そうかもしれないね。ナイルでも鉱山の中でも突然現れたから、突然消えてもおかしくないか……」
「誰かを守りに行かれたのかも知れないわ」
母の言葉にはいつも説得力がある。
その時、溌剌とした声が部屋に響いた。
「ただいま!」
今ではアルウの片腕となって職長代理を務めるメンナが、昼食をとりに工房から帰ってきた。
「おかえりなさい」
ムテムイアがメンナの頬にキスをする。
「ただいま」
メンナもムテムイアを抱きしめてキスをした。
いつも仲の良い夫婦だ。
「おかえり」
アルウは居間の窓際に置かれたクッションにもたれ、殆ど見えなくなった目で、窓から外を眺めていた。
「兄さん」
妹とメンナが結婚してから、アルウは同年齢のメンナから兄さんと呼ばれるようになった。初めの頃はいつも複雑な気分だったが、聞き慣れてくると今ではすっかり自分が年長のような気がする。
「どうした」
呼びかけられてアルウはメンナの方を振り向いた。
「王宮では、一昨日からネフェルタリ王女の姿が見つからないと大騒ぎだ」
「また探検にでも出かけられたんじゃないか?」
「だといいんだが」
「アビドスの工房を訪れたときも突然だったからな」
「兄さんの工房にいらしてたの?」
「オシレイオンのオシリス像を、早く見たかったらしいよ」
「それはきっと口実よ」
ムテムイアは微笑んだ。
「それはどういう意味だ?」
「王女様は兄さんに会いたかったのよ」
「からかうのはよせよ」
アルウはむっとして腕を組んだ。
ムテムイアはかまわず話し続けた。
「王女様は兄さんのこと好きなのよ。きっと愛しているんだわ」
「何でそう思うんだ」
「あたしの勘よ」
その時、召し使い達が焼きたてのパンやチーズやあつあつの小羊のシチュー、そら豆の煮物を運んで来た。
「ご馳走だ!」
そう言った途端メンナのお腹が鳴った。
「一番の働き手だ。どんどん食べてくれ」
アルウが話題を変えてメンナに食事を勧めていると、召し使い達が新鮮なブドウやザクロやイチジクといったデザートを持ってきた。
「母さん、パンを取って」
アルウがそう言う前に母親は軟らかな白パンを息子に手渡した。
「ありがとう」
アルウはパンにかぶりつき、美味しそうに食べた。
家長のアルウが食べ始めたので、家族もみな好きな食べ物を手に取って食べ始めた。
「蜂蜜はどこ?」
栄養をつけるようにと、ネフェルタリからプレゼントされた蜂蜜はアルウの大好物だ。
「ここですよ」
母親がアルウのパンに蜂蜜をたっぷり塗ると、息子は幸せそうに蜂蜜パンを頬張った。
「アルウ……」
母親は躊躇いがちに息子の名を呼んだ。
ヘヌトミラは息子が不憫でならなかった。彼の見えなくなった目を見る度に胸が締め付けられる。
息子は家族の犠牲になってきた。辛い思いばかりさせてきた。ようやく幸せを掴んだのに、こんどは職人として致命的な視力を失ってしまった。
この子には絶対に幸せになって欲しいのに……。
「母さんなに?」
アルウはシチューを食べる手をとめた。
「ティアちゃん……」
ヘヌトミラは言いかけて後悔した。
「ティアは、母さんとムテムイアを助けてくれた。だから彼女にはとても感謝してる。でも彼女とは終わったんだ。もう触れないでくれよ!」
アルウは不機嫌になって席を立ち、召し使いに付き添われて居間を出て行った。
「アルウ」
ヘヌトミラは息子が独りでいることが心配でたまらなかったので、彼が早く愛する人と結ばれて欲しいと願った。そして一日でも早く自分の幸せを掴んで欲しいと神に祈った。
宮殿で大騒ぎになっているとは思いもせず、ネフェルタリと召し使いの女ドルキアは船でアビドスに無事に着いた。
「急ぎましょう」
セティ神殿の裏手のオシレイオンにむっかってネフェルタリは早足で砂漠を歩いた。
「王女様、疲れました。少し休ませて下さい」
ドルキアは自慢の白い肌が陽に焼けるのが嫌な様子だ。
「もうすぐよ。頑張りなさい」
ネフェルタリは腹がたって、黄金のオシリス像を握りしめた右手を思わず振り上げた。
「王女様、その金の像は」
初めて見る黄金のオシリス像にドルキアの目が眩んだ。
「あ、これはオシリス様の像よ」
ドルキアの目が怪しく光るので、ネフェルタリは慌てて像を懐にしまい込んだ。
「王女様、金の像をあたしにも拝ませて下さい」
ドルキアは初めて見る金の像にすっかり魅せられてしまったらしい。
「ここでは駄目。オシレイオンに着いたら見せてあげるわ」
ネフェルタリはキッパリ拒み早足で歩き始めた。その後を銀の水瓶を持ったドルキアが追いかけた。
ほどなくオシレイオンに着いた二人は、神官の案内で地下神殿に入り、大広間を通り抜け石棺の間の入り口まで来た。
「王女様、ここが石棺の間です」
神官はそう言って二人を部屋に案内した。
石棺の間は、エジプトの古い時代から、オシリスの遺体の一部が埋葬されているという伝説がある場所だ。
「あなたはここで待っていてください」
ネフェルタリは神官を入り口に待たせて、ドルキアを伴い石棺の間に入った。
オイルランプで浮かび上がる館内は不気味に静まりかえり、すぐ目の前は地下水が涌き上がってプールのようになり、一面が水で満たされていた。
「これが生命の水だわ」
ネフェルタリはオシリスに言われたとおり、黄金のオシリス像を水の浅そうなところに沈めた。
「銀の瓶をかして」
ネフェルタリはドルキアに催促した。
「はい」
ドルキアは不気味に静まりかえる館内のあちこちをちらちら見て震えた。
ネフェルタリはその場に屈んで、瓶を水にゆっくり沈めた。
「これくらいでいいわ」
満足げに微笑むとネフェルタリは水瓶の蓋をきつく締め、水の中の黄金のオシリス像にむかって、「オシリス様ありがとうございます」と感謝の祈りを捧げた。
「急いで帰りましょ」
ネフェルタリが出口の方に歩き始めると、ドルキアは王女が祈りを捧げていた辺りで立ち止まりゆっくり屈んだ。それから音を立てないように地下水の中に手を入れて黄金のオシリス像を探った。
「あったわ」
ドルキアは内心狂喜し像を素早く引き上げ懐にしまい込んだ。
「ドルキア急いで!」
ネフェルタリはなかなか追いつかない彼女に苛立った。
「はい、王女様」
ドルキアは急いで王女と神官に追いついた。
足取りは軽く心は浮き足立った。もう召し使いなんてまっぴらごめんだと思った。この黄金の像があれば一生遊んで暮らせると心は躍った。
そのころ王宮ではセティ王がイブイにアビドスへすぐに行くよう指示していた。
「まさかとは思うが、娘は水を求めてオシレイオンに行ったのかもしれない」
「水ですか?」
「そうだ。娘がアルウの目を治せる方法はないかと、悩んでおったので、ついうっかり話してしまったのだ」
「そうでしたか。今からすぐに船でアビドスに行ってまいります」
「たのんだぞ」
王様は、玉座に深々と腰掛け、深いため息をついた。
ちょうどその頃、ネフェルタリとドルキアが乗った船がテーベに向けて出発したところだった。
ネフェルタリは命の水が入った水瓶を両腕にしっかり抱いてデッキに立ち、ナイルを行き交う船や対岸の流れる景色を眺めた。
「アルウ待っててね。あなたの目は必ず治るから」
ネフェルタリは彼の目が治り、笑顔で自分を見てくれることを思い浮かべ幸せに浸った。
ドルキアはもう自由の身だと思うと心は躍り、王女のことなど気にも止めなかった。
「この金の像があれば何だって出来るわ」
ドルキアがほくそ笑んでいると、不意に突風が船を襲った。
「キャー」
風に煽られ船が大きく揺れ、ネフェルタリもドルキアもデッキの上で転びそうになった。
「あっ」
その時、ごろごろと音を立てて黄金のオシリス像がデッキの上を転がった。
「金の像が」
ドルキアは慌ててその像を拾おうと追いかけたが、他の客も船員も、転がる黄金のオシリス像を追いかけてデッキの上は大混乱になった。
「ドルキア! おまえはなんてことをしたの!」
ネフェルタリは黄金のオシリスを巡って、暴れる人々を目の前にして怯えた。
「それはあたしの物よ!」
欲に目が眩んだドルキアに王女の声は届かなかった。
彼女は大きく揺れる船の上で転がるオシリス像を人々と一緒に奪い合った。
暴徒化した人々を恐れ、船長や船員が船を捨ててナイルに飛び込むと、船はますますコントロールが効かなくなり暴走した。
女達は逃げ惑い、川に飛び込んで溺れ死んだり、男達に暴行されたりする女もいた。
「こりゃ、いい女がいるぜ」
暴徒化した男達の一部がネフェルタリを襲おうと追いかけ始めた。
彼女は水瓶を抱いて逃げ回ったが、すぐに取り囲まれ、捕らえられてしまった。
一人の男がネフェルタリの衣服を鷲づかみにした。
「お嬢さん。男は初めてなんだろう」
別の男が薄ら笑いを浮かべてネフェルタリのほ頬を大きな手で触った。
「いや!」
ネフェルタリはそれでも水瓶を両手できつく抱く締めて離さなかった。
「お嬢ちゃんその瓶の中になにが入っているのかい。まさかこの黄金の像と同じものがたっぷり入っているんじゃないだろうな」
男が手にしていたのはドルキアがオシレイオンから盗んだ黄金のオシリス像だった。
「かえせ! それはあたしの物よ!」
男に捕まったドルキアが叫んだ。
「ドルキア! あなたは何てことをしでかしたの!」
ネフェルタリは声を上げた。
「王女のあんたに何がわかるって言うんだ! 何不自由なく暮らしているあんたに!」
ドルキアの言葉に男達がざわめいた。
「おまえ王女だったのか。どうりで子供のくせに良い服着てやがると思ったぜ」
ネフェルタリの顎を男が掴んで薄笑いした。
「こんなお楽しみはないぜ」
「やめとこう。俺たち王様の軍隊に見つかれば皆殺しに合うぜ」
片目の男が怖じ気づいた。
「臆病な奴め」
大柄の男がデッキに唾を吐いた。
「お前らが遊ばないんなら俺が遊んでやるぜ」
男はニタニタしながら近づきネフェルタリの水瓶を取り上げた。
「だめ! それだけは返して!」
「だめだと言われると、ますます欲しくなるのが人間てもんだぜ」
大柄な男は彼女から瓶を無理矢理取り上げ、その蓋を開けようとした。
「やめて!」
ネフェルタリは涙を流して訴えた。
「返してほしけりや俺たちと遊ぶか」
男の目つきが鋭くなった。
「……はい」
ネフェルタリはアルウの目が治るのなら自分はどうなってもいいと思った。
「ぎゃーはっはっはー」
王女を取り囲んだ男達は大きな声で笑い声を上げた。
ネフェルタリが抵抗するのをやめると、男が彼女の衣服を掴んで引き裂こうとした。
するとその時、急に空が真っ黒な雲で覆われ、耳を引き裂くような雷鳴とともに、拳大の雹が降り始めた。
「な、なんだ!」
ナイルは荒れ、雹は船を穴だらけにした。
「ふ、船が沈むぞ!」
男達は慌てた。
「これはあたしのだ!」
ドルキアが動揺する男からオシリス像を奪い返した。
「このアマ!」
揺れる船の上でドルキアを男達が追いかけ回した。
「船が向かってくるわ」
水瓶を奪い返したネフェルタリは、船が父王の船だと気づくと大きく手を振った。
「王女様」
イブイはすぐにネフェルタリの姿を見つけた。
「助けて!」
ネフェルタリは大声で助けを求めた。
「このやろう」
それに気づいた大柄の男がネフェルタリを捕まえようとした。
「いや!」
ネフェルタリと男がもみ合っていると、船が大きく揺れ彼女は男と供に荒れ狂うナイルに投げ出されてしまった。
「王女様!」
イブイはすぐに荒れるナイルに飛び込んだ。
激しく降り注ぐ雹と嵐。船は木の葉のようにナイルを流れてゆく。
ドルキアは船から投げ出されないよう右手で手すりを握りしめ、左手で黄金のオシリス像をきつく掴んだ。だが彼女がオシリス像に執着するほど、嵐や雹や雷は激しくなった。
その時、目も眩むような閃光と雷鳴が轟いた。
ドルキアをはじめ暴徒と化した罪深き人々は天を仰ぎ見た。次の瞬間、激しい雷が船を襲い一瞬にして人も船も灰となってナイルに呑み込まれてしまった。
イブイは王女を急いで船に引き上げたが、彼女は水瓶を抱いたまま息絶えた。
「王女様」
イブイは悔しがり悲しんだ。
「もっと早く船を進めていれば王女様を助けることが出来たかもしれないのに」
悔やんでも悔やみきれなかった。
ネフェルタリの遺体は水瓶と一緒に王宮に運び込まれた。
セティ王は変わり果てた娘の姿に愕然とし、遺体の前に崩れるように座り込んだ。
ネフェルタリの死はアルウにも伝えられた。
「王女様がお亡くなりになった……」
まさか自分のためにネフェルタリが若い命をなくしたとは思いもしなかった。
「アルウを呼んでまいれ」
セティ王はイブイに命じた。
「娘の願いを叶えてやらねば娘が浮かばれまい」
王様はネフェルタリが命がけで守ったオシレイオンの水でアルウの目を治してやるのが、愛しい娘への唯一の供養だと思った。
「畏まりました」
イブイは一礼しアルウの所へ行った。
数分後、イブイの案内でアルウは妹ムテムイアに付き添われ、ネフェルタリが寝かされている部屋にやってきた。
「よくまいった」
王様はアルウをネフェルタリの亡骸に引き合わせた。
「王女様」
アルウが手を伸ばしてネフェルタリを確かめようとすると、ムテムイアが彼の手を王女の顔に導いた。
「ネフェルタリ」
ベッドの前に跪き彼女の頬や目や鼻を指先で確かめると冷たい感触が指先に伝わった。
「娘はそなたの目を治したい一心でオシレイオンまで行き、命の水を持ち帰った」
王様がそう言うと、イブイが水瓶をアルウの脇にゆっくり置いた。
「命の水」
水瓶を触るアルウの手が震える。涙が溢れて止まらなかった。
「大昔から命の水には、ありとあらゆる病気や怪我を治すという言い伝えがあるのだ」
「王女様を乗せた船は嵐と雷に襲われナイルに沈んだのです。わたしは急いでナイルに飛び込み王女様を助けたのですが、その時には既に息がありませんでした」
イブイがことの成り行きを話すと、お后様が泣き崩れ娘にしがみついた。
「さあ、命の水で目を洗ってそして娘を見てやってほしい」
王様が話し終わると、イブイが水瓶の蓋を開けアルウの前に静かに置いた。
「命の水」
アルウの隣に一緒に跪いていたムテムイアが兄の手をとり水瓶に導いた。
跪いたままアルウは、優しく水瓶を持ち上げ胸に抱いた。まるでネフェルタリを抱き締めるかのように。そして水瓶の縁に頬を擦りつけ涙を流すと、数滴の涙の滴が水瓶の中にしたたり落ち命の水と溶け合った。
「オシリス様、どうかネフェルタリを生き返らせてください」
アルウは神に願った。
「王女はわたしの所に来ていない。彼女は命と引きかえにおまえの目を治したいと祈った」
「ならばわたしは喜んで彼女に命を捧げます」
「よかろうおまえの愛は本物だ。願いを叶えてやろう。水瓶の水を一滴残らず彼女の頭からつま先に至るまで降り注げ。だが、その水で決して自分の目を洗ってはならない」
「はい!」
オシリスの声が遠ざかるとアルウは立ち上がり、水瓶を抱きベッドの縁まで来た。それから左手でネフェルタリの顔に優しく触れると、右手で水瓶の水を彼女の顔に注ぎ始めた。
「なにをするんだ!」
驚いた王様が声をあげた。
「兄さん!」
ムテムイアはアルウを止めようとした。
アルウに周囲の声など届くはずもなく、彼は無心になってネフェルタリの全身に一滴残らず命の水を注いだ。
「娘の気持ちを無駄にしよって!」
アルウの行いを理解できない王様は激怒し剣を抜いた。それからベッドの縁に放心状態になって立ちつくすアルウの首を左手で掴み持ち上げた。
「この愚か者め!」
王様は鋭い目でアルウを睨み、右手の剣で彼を突き刺そうとした。
そのとき、
「ネフェルタリ!」
お后様の声が部屋中に響いた。
「王女様!」
今度はイブイが声をあげた。
王様がベッド振り返ると、ネフェルタリの目が微かに開いているではないか。
「ネフェルタリ!」
王様はアルウを離し剣を捨てベッドの前に跪いた。
「ネフェルタリ!」
もう一度呼びかけると、娘は不思議そうな顔をして父親や周囲を見渡した。
「ああ、神様」
お后さまは、娘が生き返ったことをオシリス神に感謝し、何度も祈りを捧げた。
ネフェルタリが生き返えると、安心したアルウは石の床に倒れ息をしなくなった。
「兄さん!」
ムテムイアは泣き叫んだ。
気がつくとアルウの目の前にオシリス神がいた。
「我が息子よ」
慈しみに満ちた目でオシリスはアルウを見つめた。
「オシリス……」
アルウの心は幸せに満ち溢れ、地獄に落ちてもいいと思った。
「もう思い残すことはありません。どうぞわたしの心臓をアメミトの餌食にして下さい」
「どうしてだ」
「わたしは子供の頃盗みをしました」
いかなる理由があるにせよ、人が懸命に働いて得た物を盗んだ罪は大きく、罪が赦されてもアルウは自分を赦せなくて心を痛めていた。
「たしかにそうだ。だがその罪はおまえの愛に免じて赦そう」
「……」
「我が愛する息子よ。自分を赦しなさい」
「オシリス」
「おまえの未来は光に満ち溢れるであろう」
「み、未来……」
「息子よ、人生は喜びに満ち溢れている」
「わたしは死んだのでは」
「おまえはまだ四十二の告白をするには早すぎる」
「ああ、父よ」
アルウは跪き涙を流した。
「おまえには輝くような愛のギフトが用意されている。生きる喜びを噛みしめ、これからの人生を楽しむがよい」
無限の愛で包み込むような、慈愛に満ち溢れた目でオシリスはアルウを見つめた。
「お父さん……」
オシリスの顔は死んだ父ハレムイアのようにも見えた。
アルウが息を吹き返すと涙を流す家族の顔が目に飛び込んできた。
「母さん」
母親が目に飛び込んだ。
「母さんが見えるよ!」
オシリスはアルウの目を治してくれたのだ。
「アルウ」
母親は息子をきつく抱きしめ、彼は母の胸に赤子のように身を委ねた。
「奇跡だ!」
メンナもムテムイアも手をとりあい、飛び上がって喜んだ。
「オシリスが奇跡をおこして下さったのだ」
王様とお后様はオシリスに、娘とアルウを生き返らせてくれたことを感謝した。
「王女様は助かったのですか?」
「君のおかげで娘は生き返った。だが……」
王様の声はそこまで言って言葉につまった。
「どうされたのですか?」
母親とメンナに助け起こされたアルウは、王女が横たわっているベッドのところに行き、
「ネフェルタリ」
呼びかけたが、彼女はアルウをぼうっと見つめるだけだった。
「重度の記憶障害が起きているようです」
主治医のパヘルペジェトが深刻な顔をして王女の検診を続けながら説明した。
「治して下さい! ネフェルタリは絶対に治るべきだ。王女様こそ幸せになるべきだ」
アルウは叫んだ。
「原因が何なのかにもよると思います」
「それはどういう意味かね」
王様が問いただすと、
「溺れた時、酸素が脳に行き渡らず障害がでたのか、それともなにか恐い出来事があり、そのことを思い出したくなくて、無意識に記憶を喪失しているのか……」
主治医はそう言って腕を組んだ。
「ネフェルタリ、僕のせいで君は……」
アルウは跪き王女のベッドの縁に手をかけ項垂れると、
「アルウ、もうよいのだ。おまえは娘の命の恩人だ」
王様は優しくアルウの肩に手をのせた。
アルウの目の前では、駆けつけた兄ラムセスが、妹の記憶を呼び戻そうと、ネフェルタリが好きだった絵や花やペットのネコを持ち込んでなんとか笑わせようと苦心していた。
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