少年編2 -早春

 牧場は、森の木々を切り払って開墾した場所にあり、伐った木が、広場の周囲を囲む柵として使われていた。

 牛や馬たちの匂いと息遣いが厩に充満している。いちばん入り口に近い場所に立っていたヴィンドは、金髪の少年の姿を見つけるや否や、嬉しそうに嘶き、前脚を踏み鳴らした。たっぷりとした腹が揺れた。

 「ほら、外に連れてってやれよ」

エイディルに促され、スェウは、ヴィンドのくつわを取って、雪で真っ白な広場に連れ出した。その後から、エイディルらに追い立てられた駄馬たちが次々と駆け出してくる。

 牛たちも、追い立てられてきた。

 「寒いところで運動させてやると、乳の出がよくなるんだ。」

藁しべのムチを振るいながら、少年は陽気な声で言った。

 スェウは、ヴィンドにも、自由に走ってくるよう促した。だが黒い雌馬は、小さな主の側を離れようとしない。

 濡れた鼻を押し付けて、一緒に行かないかと、誘うのだ。

 「いい馬だよな。」

厩舎を空っぽにしたエイディルが、側にやって来た。

 「毛並みはきれいだし、賢いし。信用した人間以外、絶対乗らせないだろ。こんな、ちっちゃい村で畑を耕したり、薪を運んだりする馬じゃないよ。王様が乗る馬だ。」

 「父さんは、王様じゃないよ」

 「分かってる。だけどさ、おれは、最初、お前はどこかのいい家の子供なんだと思った」

 「どうして」

 「だって、ここに来たとき、すごく上等な毛皮を着てただろ。きれいな靴も履いてたし、すぐに脱いでしまったけど。」

なるほど、それは旅人が身につけるのに相応しくなく、目立ちすぎたため、グウィディオンが処分してしまったのだ。

 「どこから来て、どこへ行くのか、知ってる人間は少ないんだって。君には分かる?」

ふいにスェウから問われて、少年は、口ごもった。

 「おれは、ずっと、この村にいるからさ。一生、ここにいるよ。」

 「僕は、…ずっと旅をしてる。これからも、ずっと、多分」

そう言って、牧場に目を向けたスェウは、今まで思っていたよりも、ずっと大人びていた。

 「ずっと旅してて、寂しくならないのか。一つの場所に住みたいと思わないのか?」

 「僕は自分で父さんの側にいることを決めたから。仲間のいるところは、…そこは、暖かくて明るい場所だけど…、帰らない。」

エイディルは、子供らしく、その言葉の意味を解釈した。

 すなわち、周りの大人たちが時おり話題にすること、あの子供にはどうして片親しかいないのか、母親はどこにいるのか、ということだ。離婚してしまったのだろう、と、大人たちは噂しあっていた。そして、両親が別れたときには、幼い子供は大抵、母親のもとに残るものだった。

 「お前、母さんに会いたくならないのか?」

 「…分からない」

スェウは、瞳を伏せた。

 「覚えていないのか?」

 「少しだけ覚えてるよ。僕の名前を、ずっと覚えていてくれると約束した。」

それは、しらしらと降り注ぐ白い月の光の下で、白い腕の娘から、グウィディオンの腕の中へ渡されるときの、静かな記憶だった。


 それで、エイディルはスェウに問うのを止め、今度は、自分から話し始めた。

 村のこと、まだ赤ん坊のような弟のカイのこと、粉屋の娘で三才になるリネットのこと。この村には子供が少ないし、外から人がやってくることもないから、リネットは将来、自分の妻にさせられるのだろうということ。でもそうするとカイの妻になる女の子が他にいないから、結局は村の外から花嫁を探して来なければいけないこと、だったら自分が村の外に出たいのだということなど。

 「本当は、ずっとこの村で暮らしたくないんだ。もう少し大きくなったら、出稼ぎに行くことだって出来る。それきり戻ってこなかった村の衆も何人かいるけど、怖いことなんか無い。それに、もし、おれに何かあっても、家は弟が継ぐから大丈夫だろ。ここは、退屈だし、貧しくて、とてもこのままでは暮らしていけないよ。」

 「貧しいって?」

 「お金がなくて、食べるものや、着るものが足りないってこと。森でとれる木の実や獣だけじゃ、とてもみんなで食べていけないし、畑はずっと不作続きだし。」

スェウは、黙って考え込んでいた。しばらくして、言った。

 「よく、森で木の実をとったり、動物を捕まえて食べたりしてたよ。貧しいって思ったことは、無かった。」

 「そりゃ、旅してるからだよ。税を取られないんだろ? 家があって、ずっとそこに住んでいたら、領主様や王様に高い税を取られる。それに、暮らしていくには、自分たちで作れないものを買うために金貨が必要だけど、森でとれるものを売っても、あまり高くはならないんだ。」

 「どうして、税を納めないといけないの?」

 「土地は、領主様や王様のものだからだ。その土地に住まわせてもらってることになるからだよ。」

スェウはびっくりして、言った。

 「じゃあ、誰のものでもない土地に住めばいいのに」

 「……。」

エイディルは、呆れ顔でスェウのほうを見た。

 「そうしたいんだけどね。誰のものでもなくて、住みよい土地は、なかなか無いよ。それに、引っ越して、そこに家を建てるって、大変なんだ。この村のみんなで、引越し出来ると思うかい?」


 この会話の間、黒い馬ヴィンドは大人しく、少年たちの傍らで村のほうを眺めていた。

 だが、馬たちの走り回る向こうに何かを見つけて、ぴくりと耳を動かし、鼻を鳴らして、スェウに警告した。

 「何だろう」

ヴィンドは落ち着きなく、そわそわと動き回っている。間もなく、少年たちの目にも、向こうからやって来る見慣れない人々の姿が飛び込んできた。

 「あれは、城の兵だ」

エイディルはとっさに、祖父である村長が零していた言葉を思い出した。

 「やばい、お前、馬と一緒に厩に隠れてろ。ほら、早く」

背中を無理やり押し込まれ、背後で扉が閉められる。そのあと、エイディルは何食わぬ顔で、掃除のためのほうきを持ち、桶に腰を下ろして、厩舎の入り口に陣取った。


 馬に乗った兵士たちは、雪が止み、空が晴れたのを待って、城から派遣されたのだった。森の中を一巡りし、そこに目指す痕跡が何一つないことを知ると、手がかりを求め、森を越えて、小さな村まで足を延ばしたのだった。

 彼らはまず、村長の家へ行った。怪我をしているはずの、大柄な旅人と、金髪の子供のことを尋ねられた村長は、かねてからの約束を忠実に守り、ここには、そのような者たちが来たことはないし、森で見かけたこともない、と答えた。

 では念のため村を見て回りたい、と兵士が言ったとき、村長はわざと声を低め、隣家の靴職人にだけは気をつけるように、と言った。

 なにしろ気難しい男で、機嫌を損ねると、すぐに手元のものを掴んで投げつけてくる。村の者も、用心して仕事中は話しかけぬのだ、と。

 兵士はそれを聞いて、靴屋にはあまり深く尋ねないようにする、と請合った。

 お陰で、グウィディオンは、ぎらぎらした目で真剣に靴をつくる姿を見られただけで、何も問われなかった。その手つきはまさしく熟練した靴職人のものだったし、話しかけても口を聞きそうに無い気難しい表情は、村長の言ったとおりだったからだ。


 そうして、兵士たちは村を一巡りし、最後に、牧場にやって来たのだった。

 そこには子供が一人、いるだけだった。雪の中を走らされている馬の中に、目指す黒馬がいないことを確認した兵たちは、エイディルに近づき、森で、主を失ってさ迷う黒い立派な馬を見たことは無いか、と尋ねた。

 「知らないよ」

少年は答えた。

 「見ての通り、この村には茶色かぶちの馬しかいないし、よそから紛れ込んだ馬はいないよ。今、馬は運動させるために外に出してるから、ここにいるので全部だ」

それで、兵士たちは何も手がかりをつかめず、引き上げていった。善良な村人たちが嘘をつくとは思いもよらず、その言葉を信じたのだった。


 兵士たちが引き上げていったあと、エイディルは合図して、スェウを出てこさせた。スェウは、俯いていた。

 「嘘をついてたね」

 「仕方ないだろ。正直に言えないじゃないか」

 「でも、嘘はよくない。」

ひどく気にしている様子を見て、エイディルは、この少年が、自分では決して嘘をつかないのを知った。それで、今までの質問の答えのほとんどが、ひどく曖昧だった理由も分かったのだった。

 「なあ、スェウ、お前、春になったらどこかへ行ってしまうんだろ。」

 「うん」

 「おれが、ずっとお前と友達でいるって言ったら、お前も友達でいてくれるか?」

スェウは、顔を上げ、背の高い少年の、いたずらっぽく、同時に真剣でもある、伺うような、はしばみ色の瞳を覗き込んだ。

 「――うん」

うなづいて、彼は一つ、深い息をついた。


 スェウは、嘘をつかなかった。

 村の少年エイディルがそれを知るのは、何年も先のことだったのだが。

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