第5話 学友を殴る
私もごく普通の子供だったので、毎日を暮らすなかではよく喧嘩もした。遊びの延長でついやり過ぎて収拾がつかなくなることは日常茶飯事で、そういうときでも後で遺恨なく笑って仲直りができたのは私のいいところだったかもしれない。もちろんそうとばかりはいかないこともある。
学友たちのことだ。多くの生徒たちが私と同じように先生に習っている。だから先生が裕福ではないことは誰もが知っていた。毅然としている先生が保護者から野菜をもらうと満面の笑みと平身低頭になる姿は滑稽だったのかもしれない。生徒たちは先生が見えないところ、かつ私という先生の弱い分身をからかってくるのだ。これには兄もいつも厳しい顔をして見ていたのだけれど「俺たちが問題を起こすと先生に迷惑がかかる」と言って睨む程度しかできなかった。
それらの行為は子供の無邪気な遊びでその場限りがほとんどなのだが、ときに行き過ぎることもある。だがそれだけではない。冗談でも言っていいことと悪いことはあるし、中には撤回する気などまったくない、悪意の塊の人間もいた。言葉の陰にはドス黒い邪悪なものが潜んでいて、解決不能な悪がこの世にあることを子供ながらに感じた。人間の善悪の原型だった。そうして私は、よく彼らに腹を立て歯ぎしりをしていたものだった。
それであるとき、兄に言われていた言葉も忘れ、一線を越えた相手に拳を振り上げてしまった。相手も応戦してきたのだけれど、私はもう我慢の限界をとっくに超えていたので、力の限りに殴り、相手が泣くどころか声さえ出なくなるまで手を休めなかった。数人が止めに入ったけれど私を押さえるのには手こずったようで、引き剥がされたときには相手は地面に倒れて起き上がれないほどだった。
そういうわけだったので、相手より私の方が悪者にされてしまい、先生も相手に頭を下げることになった。兄も仲裁に入った一人だったが、喧嘩の後の私より相手の心配をしていた。私はなんてことをしたんだと、まず兄から怒られた。ゴツンとやられた。それは兄から拳骨を喰らった一度きりの体験だった。
なんてことをしたと言われる一方、しかしこのことは私の誇りだった。先生の名誉を守ったのだと思っていた。もちろん、そんなことは子供の思い上がりだったし、そんな風に思い上がっていることは先生だってすっかりわかっていた。それで先生に夜に書斎に呼び出されて事の説明を求められたときにも、悪びれることもなかった。
「先生をバカにしたんです。まったく不愉快でした。大事な人を悪く言われるのを許してはおけません」
「どんな風に私は言われたのだ?」
「……あんなに家がボロなのは借金が多いからだ、おまえみたいな子供を家に置いておくのも送られてくる養育費欲しさだ、金のためならなんでもしてそうだ……」
口にするのも恥ずかしいことをポツリポツリと言うと、先生はいくらかおかしそうに小さく笑った。
「なるほどな……それは嘘だな。それでどうなった?」
「どうなった、というのは?」
「殴ってどうなった、というのだ」
「私が勝ちました。相手は私に無理矢理に謝らせましたが、同じことがあったら私はまた殴ります」
「それではダメだ」
そう言うと先生は立ち上がり、一冊の古い本を私の前に出して見せた。
「騎士道というものがある。西洋の騎士、ナイトの教えと生き方についてだ。そこには『名誉を重んじる』という言葉がある。おまえのようなやつのことだ。私はまったく、これをいいとは思わない。この西洋人の著者も書いているが、名誉を重んじるとは体面を大事にして『自分の言うことの方が正しい、おまえがそうではないと言うのなら決闘だ、どちらが正しいのか決めてやる』ということを示している。何が正しいのかは問題ではない、勝った方に正義があると言っている。おまえのしたことも同じだ。もしおまえが負けていたら、私はその子の言ったような奴だというのが真実にされただろう。喧嘩に負けるとはそういうことだ。それが正しいのかどうかは、わかるな?」
「しかし、先生への悪口は嘘です!」
「同じことだ。自分のためでも誰のためでも、名誉のために決闘するようなことは恥だと思いなさい。私を罵倒されて怒ったのではなく、おまえ自身の名誉を傷つけられて怒ったことも否めまい? 騎士は立派かもしれないが、名誉なんかに縛られてはいけない」
先生は私が先生へ傾倒することにはっきり気付いていたようだ。虚偽の中傷に私は怒ったけれど、本当のことで先生が悪く言われても手を挙げただろう。本当か嘘かの問題ではなく名誉の問題だったのだ。
では、どうしたら腕力以外で解決できるのか、他人の悪意に勝つ方法は今でもわからない。けれど、とにかく殴るべきではなかった。先生に謝らせてしまったのだから。悪口を言った本当の罪がある奴に頭を下げるなんて、なんて屈辱だっただろう。
このときに見せられた本はその場で譲り受けた。その当時からなかなかおもしろく読んだ。今でもときどき読んでは当時を思い出して笑っている。
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