第20話皇太后は憂う


 後宮の中央には、後宮で最も身分が高い女性の住まいがある。

 それは現在の皇帝・黒瑛の母である皇太后・永が住む心陵殿である。



 日暮れ時になって、皇帝である黒瑛が珍しくその心陵殿へと足を延ばしていた。


 久方ぶりの息子との食事を楽しみながらも、永は黒瑛がここに来た理由を訝しむ。

 なんだか嫌な予感がする。

 この手のかかる息子は、永の頭を悩ませるのが得意だ。


 食事が終わり酒を飲む頃になって黒瑛はようやく訳を話し始め、その話の内容に永は思わず眉を顰めた。


「陸翔に会いに行く、ですって……?」

 永が、嘆くようにそう呟くと、黒瑛は頷いた。


 ようやく黒瑛がここに来た理由が聞けたが、やはり嫌な予感は当たった。

 秦漱石に対抗するために、身を隠している能吏に会いに行きたいらしい。


「ああ、そうだ。ここを離れて、陸翔に会いに行く。陸翔は足が悪い。それに敵だらけの宮中に呼ぶのは危険すぎるからな。陸翔と会うには、俺から行くしかない」

 永は、重いため息を吐き出す。


「何を言い出すかと思えば……危険すぎます。秦漱石に気付かれでもしたら……」

 そう口にして永は、過去のことを思い出し、思わず顔を青ざめさせた。

 長男の士瑛の顔が浮かぶ。


 士瑛は先代の皇帝であり、黒瑛の兄、そして永の可愛い息子だった。

 頭が良く、気性も穏やか、それでいて度胸もあり、良くできた息子、いや皇帝だった。


 二代続いて秦漱石が皇帝を擁立して宮廷を専横する中で即位した士瑛は、秦漱石の圧力もうまくいなしながら政を行い、実権を取り戻すべく水面下で動いていた。

 しかし、それが秦漱石にとっては面白いはずもなく、士瑛は秦漱石によって殺されてしまった。


 しかし、秦漱石が裁かれることはない。彼が実質の権力者だからだ。

 それが今の宮廷だ。


「うまいことやるさ。これぐらいのことすらできないなら、秦漱石を追い落とすことなんざできるわけがない」

 不敵に笑う黒瑛を見て、息子の成長に頼もしく思う以上に、焦燥が胸に湧く。

 士瑛も、そう言って秦漱石の罠に嵌り、殺された。


「無茶をしないでおくれ。士瑛に続き、お前までいなくなったら私は生きてはいけぬ」

 永はそう言って縋るようにして見つめるが、黒瑛の瞳の色は変わらない。

 もう覚悟を決めた目をしていた。


(ああ、何と言う頑固者の目よ。何故こんなところで士瑛に似ているのだ。士瑛のような生真面目さも、孝行心もないというのに……)


「俺は皇帝の椅子になんざ興味はない。だが、兄貴の無念は果たしたい。秦漱石を追い落とし、宮廷を正常にする」

 その目に復讐の火が灯る。


(ああ、あの目。この子は、決してあの時のことを忘れはしない)

 永は、黒瑛の強かな眼差しに嘆いた。

 その火は、秦漱石を追い落とすまで消えないのだと思い知る。


 士瑛が毒殺された日、黒瑛は秦漱石を殺そうと刃物を手に取った。


 今にも秦漱石の元に行こうとする黒瑛を永は必死に止めた。

 秦漱石を殺そうとすれば、ただでは済まない。

 失敗したら一族郎党皆殺し。

 万が一成功したとしても、秦漱石の派閥に属する者達が黙っていないだろう。

 我こそが次の秦漱石になるべく、邪魔な黒瑛を亡き者にしようとする。


 だから止めた。

 せめて、黒瑛だけは生かしてあげたい。士瑛のように失いたくない。

 その想いだった。


 そして黒瑛は、刃を置いた。


 しかし、それは復讐を諦めたわけじゃない。

 復讐の目的を、秦漱石を殺すことではなく、兄の想いを遂げることに変えただけだ。


 兄と同じように、国を変えるために。

 そうして、黒瑛は傀儡の皇帝として立った。


 血に飢えた牙を隠し、無力な王の振る舞いをし、秦漱石の言いなりに生きるフリをしてくれた。


(私は、ただ生きてさえいてくれたらそれでいい。復讐などしなくてもよい……。もういっそのこと、このまま傀儡の王でも構わないのだ……)


 しかしさすがにそれを黒瑛は飲んではくれないだろうことは永も分かっている。


「……上手くいく見込みはあるのですか」

「陸翔のいる龍弦村に行くこと自体は問題ない。北州が青国に併合された記念祭に皇帝として呼ばれている。龍弦村の近くだ。秦漱石の子飼いの奴らさえ撒くことができたら陸翔に会える」

「撒く方法は考えているの?」

「それは現地で考える」

「はあ……」

 つまりは無計画ということかと、永は呆れたようにため息を吐いた。


(まったくなんという考えなしなこと)


 だが黒瑛を思いとどまらせる言葉は浮かばない。

 どんな言葉を言っても黒瑛は聞き入れないことは分かっていた。


「色々言いたいことはありますが、わかりました。しかし、そのことをわざわざ私に言いに来たのには何か意味があるのでしょう? いつもなら、勝手にやるではないですか」


 疲れたように永が言うと、黒瑛は珍しく何かを誤魔化すように視線を下げた。


(おや、これは……)


 その仕草に、母の勘とでもいうのだろうか、永はピンと来た。


「そう言えば、最近あれほど毛嫌いしていた後宮に妃を訪ねるようになったとか」

 永がそう言うと黒瑛は分かりやすく肩をびくりと動かした。

 どうやら勘は当たったようだ。


「まあ、あらあら。それはよいこと。私も早く孫の顔が見たいと思っていたところよ」

「違う違う、そういうのじゃない。ただの、あれだ。その……茶飲み友達、いや、戦友か?」

「戦友?」

「茶師で采夏という娘なんだが、これがなかなか頭の回転がいい、というか茶に関することの知識が大したもので、今まで何度か助けてもらった。今回陸翔と会えることになったのも、そいつのおかげだ」

「そう、賢い娘なのね……」

 それは悪くないと、永は内心思った。

 本来なら力のある家の娘と結ばせて、黒瑛の地位を盤石にさせたいが、今の後宮にいる妃ではそれは望めない。

 それならば、せめて賢く強かであってほしい。

 そうでなければ、生きてはいけないのだから。


「それになによりそいつが淹れる茶が、すごく、うまい」

「それは好いた女子が淹れるからうまいという話?」

「だからちげえって……」

 そう言って決まり悪そうに鼻をかいた。

 その仕草が、子供の頃の黒瑛を思わせて永は頬が緩む。


(こんな顔、久しぶりに見たわ。その妃のおかげなのかしら)


「ふふ、全く、皇帝だというのに、相変わらずそんな粗野な言い方をして」

「仕方ないだろ、俺は兄貴と違って皇帝としての教育なんざ受けてないんだ。って今はそんなことどうでもいい。それで、だ。母上には……俺が、ここを離れている間、そいつを守ってほしい」


「わがままなことを言う。行くなという私の頼みはきかないのに、お前は私に頼みごとをするつもり?」

「……悪いとは思っている。だが、後宮のことで俺が頼れるのは母上しかいない。貞が采夏にちょっかいをかけているところを見た。あの女は危険だ。采夏妃に何かするかもしれない」

「貞ね……」

 秦漱石の姪である貞の横暴を永もよく知っている。

 だが、見て見ぬふりをしてきた。

 それも黒瑛のためだ。変に秦漱石の注意を引かないようにと。


 そして永が何も言わないことを分かっていて、貞も自由に振る舞っている。


 それに憤りを感じたことは何度もある。

 でも、息子の命のためならば我慢することができた。


(私自身はどんなに侮られてもいい。だが、もう我が子を失うのは耐えられない)


 やはり、危険なことをさせたくないという想いが再び永の中に湧き起こる。


「……そんなに心配なら、陸翔に会いに行くの止めて采夏妃の側にいてやりなさい」

「それはできない。俺には果たさなければならないことがあるからな」


 強い瞳だった。

 永はまるで責められたように感じて思わず目を逸らす。


(この子は、心の底では弱い私を恨んでいるのでしょうね。分かってる、分かっている……。

 私がこの子にどれほどの我慢を強いてきたか……)


 兄の敵をとるために前に進む息子に、重い枷となって動きを鈍らせているのは、己自身であると永は分かっている。


 黒瑛は、兄の敵がとれたら自分の命などどうでもいいと思っている節がある。

 それなのに、今、こうやって秦漱石のもとで大人しくしているのは、黒瑛が何かをすれば永等の自分の一族にも不幸が訪れることを分かっているからだ。


 誇り高い黒瑛にとって、秦漱石にいいようにされている今の状況はどれほど辛いものだろうか。


 それでも、そうだとしても、永は、生きていて欲しいのだ。

 本音を言えば、死なないで済むのなら、このまま秦漱石の傀儡の皇帝でも構わないと……思わなくもないのだ。


 しかしそんなことを言えば、きっと息子はもう永のことを母とは呼ばなくなるだろう。



「わかったわ。采夏妃のことは私が面倒を見ましょう」

 うなだれるようにして永は小さくそう応じた。


 しかし、胸の中はざわつく。

 黒瑛は無謀なところがある。

 

 枷である己の母から離れることで、簡単に無茶をしようとするのではないかと、そう思えた。


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